第6話 光と影 ※美咲視点
更新遅れました
あの日の記憶は、今でも鮮明に残っている。
美咲と凛人は物心つく前から知り合いだった。二人の母親が同じ病院で出産し、偶然にも隣の家に住むことになったのだ。まだ言葉も話せない頃から一緒にいて、成長とともに自然と「幼馴染」と呼ばれるようになった。
「私たちずっと一緒だね。ずっとお友達だよ」
幼い頃、美咲はよくそう凛人に言っていた。彼はいつも照れくさそうに笑うだけだったけれど。
二人が過ごした日々の思い出は数えきれないほどあるけれど、美咲の中で特別な場所を占めているのは6歳の春の日のこと。公園で桜の花びらが風に舞う中、凛人の小さな手を差し出す笑顔がまぶしかった。その日から、美咲と凛人の絆はさらに深いものになっていった。
「凛くん、待って!」
公園の滑り台で追いかけっこをした日々。学校の帰り道、二人で食べた駄菓子の味。すべてが今でも心の中で輝いていた。
小学校時代、凛人はいつも美咲を助けてくれた。算数の宿題が分からない時も、怖い犬に追いかけられた時も、膝をすりむいて泣いた時も。彼はいつも側にいて、優しく微笑んでくれた。
「大丈夫だよ、美咲。僕がついてるから」
その言葉が、どれほど彼女の心を強くしてくれたか。母親と二人暮らしだった美咲にとって、凛人の存在は特別だった。父親を事故で亡くした美咲を、彼は決して「かわいそう」な目で見なかった。ただ、友達として、隣人として、彼女の傍らにいてくれた。
中学生になった頃、美咲の凛人への感情は少しずつ変わっていった。
廊下ですれ違う時、ふと目が合って胸がドキドキする。彼が別の女子と話しているのを見ると、どこか落ち着かない気持ちになる。そして、彼の笑顔を見ると、自分まで笑顔になる。
これが「好き」という感情なのだと、美咲は気づくのに時間はかからなかった。でも、その気持ちを凛人に伝える勇気はなかった。
「凛くん、将来何になりたい?」
帰り道、二人でアイスを食べながら美咲は尋ねた。
「僕は…先生かな。子どもたちに勉強を教えたいんだ」
「先生か、似合いそう」
「美咲は?」
「私はまだ分からないけど…でも、凛くんの近くにいられる仕事がいいな」
冗談めかして言ったその言葉に、本当の気持ちを隠した。
中学三年の春、二人は同じ高校を目指すことに決めた。毎日一緒に勉強し、お互いを励まし合った。凛人は勉強が得意で、いつも美咲を助けてくれた。
「凛くん、この問題教えて」
「ここはね…」
肩が触れるほど近くで説明してくれる彼の横顔を見つめながら、美咲は考えていた。いつか、この気持ちを伝えよう。高校に入ったら、勇気を出して。
心の中では、ずっと一緒にいられる未来を強く願っていた。
そして二人は無事、同じ高校に合格した。美咲の胸は希望に満ちていた。これからも凛人と一緒に過ごせる。いつか想いを伝える機会も、きっと訪れるはず。
しかし運命は、残酷だった。
「美咲、ちょっといい?」
入学式の一週間後、母親が真剣な表情で美咲を呼んだ。リビングのソファに座った母の表情は、いつもと違って硬かった。
「実は…」母親は少し言葉を選ぶように間を置いた。「お母さん、仕事の関係で大阪に引っ越すことになったの」
その言葉を聞いた瞬間、美咲の世界が崩れた気がした。
「え?嘘でしょ?」信じられない思いで聞き返す。「嫌だよ、行きたくない!」
思わず声を上げる美咲に、母親は申し訳なさそうに説明を続けた。会社の重要なプロジェクトで避けられない転勤だということ。おそらく二〜三年で戻ってこられる可能性があること。
しかし、どんな理由があっても、美咲の心は晴れなかった。凛人と離れるなんて、想像したこともなかった。
現実は容赦なく進み、引っ越しの日取りが決まっていった。美咲は凛人に伝えなければならなかった。
ある昼休み、美咲は凛人を学校の屋上に誘った。久しぶりに二人きりになる場所。でも今日は、いつものような楽しい会話をするつもりじゃなかった。
「なんか珍しいね、屋上に来るなんて」凛人は軽く笑いながら言った。
美咲は空を見上げたまま、しばらく言葉が出てこなかった。胸の奥が苦しかった。
「どうしたの?」凛人の声には心配が混じっていた。
「ごめん…ちょっと言いにくいことがあって」美咲は震える声を抑えようとしながら言った。「私、引っ越すことになったんだ。大阪に…」
凛人の表情が一瞬で凍りついた。彼の目が信じられないものを見るように見開かれる。
「いつ…?」かすれた声で彼は尋ねた。
「夏休み明けすぐ…」美咲は手すりを強く握りしめた。「母さんの仕事の関係で…」
凛人は黙ったまま、ただ遠くを見つめていた。美咲の胸が痛んだ。
「連絡、取り合おうね」長い沈黙の後、凛人がようやく口を開いた。「LINEとか、つながってるし」
「うん、もちろん!」美咲は必死に明るく答えた。「それに、絶対戻ってくるからね。母さんの転勤は2〜3年って聞いてるし…」
「そっか…」凛人は無理に笑顔を作った。「それじゃあ、しばらくの別れだね」
美咲は彼の言葉の裏にある寂しさを感じ取った。でも凛人は「行かないで」とも「寂しい」とも言わなかった。美咲もまた、本当の気持ち—この別れがどれほど辛いか、彼のことをどれほど好きなのか—を伝えられなかった。
別れの日、駅のホームで美咲は精一杯の笑顔で手を振った。
「絶対連絡するからね!」
電車の窓から凛人の姿が見えなくなるまで、美咲は手を振り続けた。そして見えなくなった瞬間、彼女の目から涙があふれ出した。
「好きだよ、凛くん」
誰にも聞こえない声で、美咲はつぶやいた。
大阪での生活は、想像以上に辛かった。新しい学校、新しい友達、すべてが美咲にとって異質だった。関西弁、見知らぬ街並み、違う校風。何もかもが凛人のいた世界と違っていた。
最初の頃は頻繁に連絡を取っていた。LINEで日常を報告し合い、時には電話で話した。でも徐々に、お互いの生活が変わるにつれて、連絡の頻度は減っていった。
凛人は以前と変わらず、穏やかな返事をくれた。でも次第に、短い文章になり、返信も遅くなった。何か隠していることがあるような、そんな違和感を美咲は感じ始めていた。
「最近どう?」と尋ねても、「変わらないよ」という曖昧な返事。学校生活について聞いても、詳しく話してくれなかった。
美咲は不安になった。もしかして、他に好きな人ができたのか。自分のことを忘れようとしているのか。様々な思いが頭をよぎった。
ある日、美咲は思い切って電話をかけた。久しぶりの凛人の声は、どこか虚ろに聞こえた。
「元気?」美咲が尋ねると、
「ああ、大丈夫だよ」という返事。でも、その「大丈夫」という言葉に、嘘が混じっているような気がした。
「何かあった?」
「何もないよ」
それ以上、踏み込めなかった。何かが変わっていることは確かだった。でも距離が離れていて、美咲にはどうすることもできなかった。
時が流れ、凛人からの連絡は途絶えた。美咲からのメッセージには返事が来るものの、それはますます短く、形式的なものになっていった。
高校二年の冬、美咲の母が言った。
「凛くんのお父さん、亡くなったらしいわ」
美咲は驚いた。凛人の父親とは何度か会ったことがあったが、優しい人だというイメージだった。突然の訃報に、美咲は動揺した。
「凛くんに連絡しなきゃ」
しかし、最近の疎遠さを考えると、急に連絡するのも気が引けた。結局、短いお悔やみのメッセージを送ったが、凛人からの返事はなかった。
時間は容赦なく過ぎ、美咲も高校卒業を迎えた。東京の大学を志望した理由の一つは、凛人に再会できるかもしれないという淡い期待があったからだ。
「東京に戻れることになったわ」
母親の言葉に、美咲の心は躍った。念願だった東京の大学に合格し、しかも母親の仕事も東京に戻ることになった。運命は時に残酷だが、時に優しい。
入学式の日、美咲の心は緊張と期待で一杯だった。東京に戻ってきて、もし凛人に会えたら…。その可能性は低いと頭では分かっていても、心のどこかでずっと期待していた。
そして奇跡は起きた。
中央講堂から出て、学部の説明会に向かう人混みの中で、美咲は見覚えのある後ろ姿を見つけた。少し高くなった身長、少し幅が広くなった肩。でも、凛人特有の少し前かがみの立ち姿は変わっていなかった。
心臓が早鐘を打つのを感じながら、美咲は彼に近づいた。
「凛くん?」
その声に振り返った彼の表情に、美咲は一瞬息を呑んだ。確かに凛人だった。でも、その目は…何かが違っていた。かつての優しい光を湛えた瞳は、どこか影を宿していた。
「美咲…?」
彼の声も、少し低くなっていた。互いを認識した一瞬の驚きの後、美咲は嬉しさを抑えきれず、満面の笑みを浮かべた。
「本当に凛くんだ!久しぶり!」
突然の再会に、美咲の胸はドキドキと高鳴った。三年ぶりの再会。高校時代、連絡が途絶えてからの再会。
美咲は陽気に話しかけ、昔のように親しく接した。でも、凛人の反応は少し違っていた。彼は笑顔を見せても、その笑顔が目まで届いていないように感じた。
「高校とか、どうだった?」と尋ねると、
「普通だったよ」と短く答え、すぐに話題を変えられた。
美咲は違和感を覚えた。凛人が何かを隠しているのは明らかだった。高校時代、何があったのだろう。父親の死だけではない、もっと深い何かが彼を変えたような気がした。
それでも美咲は、昔のように凛人と接しようと努めた。講義では隣に座り、休み時間には話しかけ、時には一緒に食事に行った。
凛人も少しずつ、美咲の存在に慣れてきたようだった。最初の頃の緊張は和らぎ、時折、昔のような優しい笑顔を見せることもあった。でも、心の奥深くに抱えている何かは、決して語ろうとしなかった。
美咲はもどかしかった。好きな人が変わってしまった理由が分からない。でも、一つだけ確かなことがあった。
「私、まだ凛くんのことが好きだ」
その気持ちは、三年の時を経ても変わっていなかった。
ある夕方、図書館からの帰り道。二人は桜並木の下を歩いていた。美咲は何度も考えた言葉を、ようやく口にした。
「凛くん…」
彼女の声の調子に何かを感じ取ったのか、凛人の足が止まる。
「ずっと思ってたんだけど」美咲は真っ直ぐ彼の目を見た。「私に隠してることあるよね」
凛人の体が一瞬こわばった。
「何か…辛いことがあったんじゃないかって」美咲は慎重に言葉を選びながら続けた。「高校の時、父親のこと以外にも…何かあったでしょ?」
凛人は黙って立ちすくんでいた。美咲にはその表情が、悲しみと恐怖と、そして小さな希望が入り混じっているように見えた。
「美咲…俺は…」
言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。まだ言えないのだ。
「大丈夫」美咲は優しく微笑んだ。彼の腕に軽く触れる。「無理しなくていいよ。私、ずっと待ってるから」
その言葉で、凛人の目に一瞬、かつての光が宿ったような気がした。
美咲は決めていた。どんな過去があっても、凛人を受け入れると。彼が心を開いてくれるその日まで、彼の傍らにいようと。
長い時間を共有してきた二人の間には、特別な理解があった。言葉にしなくても通じる思い。それは幼い頃から積み重ねてきた時間が作り出した、彼らだけの絆。
どんなに時が過ぎ、どんなに変わってしまっても、二人の間には消えない絆があるはずだ。それは特別な運命や宿命ではなく、共に過ごした日々が紡いだ真実の絆。
春の陽光が二人を包む中、美咲は静かに誓った。今度こそ、彼を失いたくない。今度こそ、想いを伝えたい。そして、彼の心の傷を癒したい。
たとえそれがどんなに時間がかかっても。




