表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

第5話 曙

桜の花びらが舞う中、凛人は大学の正門をくぐった。


新学期の始まり。教科書を詰めたバッグが肩に重く感じられた。初めての大学生活。かつて自分がここに立つ日が来るとは、思ってもみなかった。


「ほら、入学式は中央講堂だって」


「やばい、シラバスまだ見てないんだけど」


「サークルどこ入る?」


周囲からは新入生らしき学生たちの会話が聞こえてくる。皆、どこか弾んだ表情をしていた。凛人も少し緊張しながらも、心の中に小さな期待を抱いていた。


ここでは誰も自分の過去を知らない。新しい自分になれる場所。


伯父と伯母は朝早くから起き、凛人のために特別な朝食を用意してくれた。紗希も「お兄ちゃん頑張ってね」と応援してくれた。彼らの存在が、凛人の背中を押していた。


中央講堂に着くと、すでに多くの新入生で賑わっていた。席を見つけて座り、周囲を見渡す。見知った顔は一人もいない。それは当然のことだった。


入学式は厳かに進み、学長の式辞を聞きながら、凛人は自分がついに大学生になったのだという実感を噛みしめていた。すべてが終わり、各学部の説明会へと移動する学生の波に乗って歩いていると、ふと後ろから声がかかった。


「凛くん?」


その声に、凛人の心臓が跳ねた。振り返ると、そこには懐かしい顔があった。


「美咲…?」


長い黒髪を肩まで切りそろえ、少し大人びた表情になった今泉美咲が立っていた。幼なじみ。かつての唯一の救い。そして、凛人の過去を知らない人。


「本当に凛くんだ!久しぶり!」


美咲は満面の笑みを浮かべながら近づいてきた。凛人は一瞬、彼女に会うことへの恐怖を感じた。過去の記憶が蘇る。しかし、それは一瞬のことだった。


「久しぶり」凛人は精一杯の笑顔を作った。


「まさか同じ大学になるなんて!偶然すぎない?」


「そうだね。びっくりした」


「どの学部?私、文学部なんだけど」


「僕も文学部」


「え、マジで?じゃあ、クラスも一緒かも!」


美咲の明るい声と笑顔が、凛人の緊張をほぐしていく。幼い頃から変わらない彼女の朗らかさは、今も健在だった。


「何年ぶりだろう。引っ越してからずっと連絡なかったよね。私が悪かった。ごめんね」


「いや、僕も連絡しなかったから…」


「大阪、全然なじめなくてさ。でも母さんの仕事が一段落ついて、また東京に戻ってこられて嬉しかったんだ」


美咲は自分の大阪での生活について話し始めた。彼女の言葉は途切れることなく続き、まるで離れていた時間を埋めようとするかのようだった。


「凛くんは?高校とか、どうだった?」


その質問に、凛人の心が一瞬凍りついた。どう答えればいいのか。


「普通だったよ」と言い、すぐに話題を変えた。「学部のガイダンス、行かなきゃいけないかな」


「そうだね!一緒に行こう!」


美咲は迷うことなく凛人の腕を取った。その仕草は幼い頃と同じで、彼女にとっては自然なものだったのだろう。しかし凛人は、突然の身体接触に思わず身をすくめた。


「あ、ごめん」美咲はすぐに手を引っ込めた。「驚かせちゃった?」


「いや、大丈夫。ちょっと緊張してただけ」


凛人は精一杯の明るさで応えた。美咲に怪しまれないように。彼女に自分の過去を知られたくなかった。


二人並んで学部のガイダンスに向かう間、美咲は高校時代の話を続けた。バレー部での活動やクラスメイトとのエピソード。凛人は相槌を打ちながら、自分の暗い高校時代との違いに、どこか遠い世界の話を聞いているような感覚を覚えた。


「凛くんは?何か部活とかしてた?」


「いや、特に…」


「そっか。勉強頑張ってたんだね。この大学、結構難しいって聞いてたから」


凛人は曖昧に微笑むだけだった。美咲は幸いにも詳しく追求せず、話題を変えてくれた。


ガイダンスでは、二人は偶然にも隣の席になった。美咲は嬉しそうに「運命かもね」と笑った。凛人も笑顔を返したが、内心では複雑な感情が渦巻いていた。


美咲。彼女との再会は、かつて凛人が望んだことだった。でも今、実際に彼女と隣に座り、話している今、彼は自分の中に大きな壁を感じていた。もう昔の自分ではない。あの頃の純粋な少年ではなくなってしまった。


カリキュラムの説明を聞きながら、凛人は時折、横目で美咲を見た。彼女は熱心にメモを取りながらも、時々凛人に微笑みかけてくる。その笑顔は、かつて凛人の心を照らしていた光だった。


ガイダンスが終わり、二人は大学の食堂で昼食を共にすることになった。


「やっぱり不思議だよね、こうして再会するなんて」美咲はトレイを持ちながら言った。


「そうだね」


「実は…」美咲は少し恥ずかしそうに言葉を続けた。「母さんから、凛くんのお父さんが亡くなったって聞いたの。その時、連絡しようかと思ったんだけど…」


凛人は動きを止めた。彼女は知っていたのか。


「でも、その後連絡先が分からなくて。ごめんね」


「…いいよ。もう大丈夫だから」


凛人は静かに答えた。美咲は彼の父が死んだことは知っているが、父が凛人にしたことは知らないのだ。そして、それを知る必要もないと凛人は思っていた。


「それにしても、凛くん、なんか変わったね」


「え?」


「なんていうか…大人っぽくなった?高校の時はどんな感じだったの?」


また同じ質問。凛人は軽く話題をそらした。


「特に何も。美咲の方が変わったよね。髪切ったし」


「あ、これ?去年切ったんだ。スポーツするには長いと邪魔で…」


そうして、何とか会話を続けた。表面上は和やかに見えたが、凛人の中では常に緊張が走っていた。過去の話題に触れるたび、嘘をつく自分が嫌になった。でも、真実を話すことはできなかった。


「あのさ、凛くん」食事を終え、キャンパス内を歩きながら美咲が言った。「これからまた、昔みたいに仲良くしたいな」


「うん」


「なんか、凛くんと話してると懐かしい気持ちになるけど、同時に…なんていうか、今の凛くんのことをまだよく知らない感じがするんだ」


鋭い。美咲はいつも敏感だった。凛人は焦りを感じたが、表情には出さないようにした。


「そんなことないよ。僕は変わってないし」


「うーん、そうかな?」美咲は首を傾げた。「何か秘密でもあるの?」


「秘密?何もないよ」


凛人は笑って見せた。しかし、美咲の顔には少しの疑問が残っているように見えた。


その日の夕方、凛人が家に帰ると、伯母が出迎えてくれた。


「どうだった?初日は」


「うん、良かったよ」凛人は少し笑顔を見せた。「実は…幼なじみに会ったんだ」


「幼なじみ?美咲ちゃんのこと?」


「うん」


「それは素敵ね!どうだった?久しぶりに会えて嬉しかった?」


「うん、嬉しかった」


凛人はそれ以上は話さなかった。複雑な気持ちを言葉にするのは難しかった。


それから授業が始まり、凛人と美咲は多くの講義を共に受けることになった。美咲は自然に凛人の隣の席を確保し、休み時間には積極的に話しかけてきた。まるで昔のように、二人の関係を取り戻そうとしているかのようだった。


「ねえ、凛くん、この週末、どこか行かない?」ある日、美咲が提案した。「せっかく再会したんだし、お祝いしたいな」


「この週末…?」


「うん。カフェとか、映画とか」


凛人は少し考えた。美咲と二人きりで出かける。それは昔なら夢のような話だったが、今は不安が勝った。しかし、断れば彼女は怪しむだろう。


「いいよ。土曜日なら大丈夫」


「やった!じゃあ、土曜日の昼に駅前で待ち合わせね」


美咲の笑顔に、凛人も笑顔を返した。表面上は普通の大学生同士の約束。でも、凛人の中では、過去と現在が複雑に絡み合っていた。


その夜、凛人はベッドに横たわりながら考えた。美咲との再会。それは偶然なのか、それとも運命なのか。彼女は自分の唯一の光だった。でも今、その光が彼の暗い過去を照らしてしまうことを恐れていた。


もし彼女が真実を知ったら…凛人の心は揺れた。美咲は彼を受け入れてくれるだろうか?それとも、傷だらけの彼を見て、距離を置くだろうか?


答えは出なかった。ただ、今の偽りの関係が続くことを願うしかなかった。


週末、凛人は約束通り駅前で美咲を待っていた。彼女は少し遅れて到着した。


「ごめん、待った?」


「いや、今来たところ」


美咲は普段と違う服装をしていた。シンプルながらも可愛らしいワンピース姿。凛人は一瞬見とれてしまった。


「どうしたの?」美咲が首を傾げる。


「いや、その…服装が違うなと思って」


「あ、これ?たまには可愛くしてみようかなって」彼女は少し照れたように笑った。「凛くんも、カジュアルな服似合うね」


「そう?ありがとう」


二人は街中を歩きながら、カフェに向かった。美咲は途中、時々凛人の腕に触れることがあったが、今度は凛人も身をすくめることなく自然に受け入れられるようになっていた。少しずつ、緊張が解けていくようだった。


カフェに着くと、窓際の席に案内された。美咲はメニューを見ながら嬉しそうに話した。


「高校の時、よくこういうカフェに友達と来てたんだ。でも凛くんと来るのは初めてかも」


「そうだね」


「凛くんは、高校でよく行く場所とかあった?」


またしても過去の質問。凛人は軽く肩をすくめた。


「特に…家と学校の往復が多かったかな」


それは嘘ではなかった。学校にも行かず、家に閉じこもっていた時期もあったが。


「そっか。勉強頑張ってたんだね」


美咲は凛人の曖昧な答えに、やはり少し違和感を感じているようだった。しかし、それ以上は追求せず、大学の話題に移った。


「文学部選んだ理由は?」


「本を読むのが好きで…」凛人は正直に答えた。「美咲は?」


「私は日本文学に興味があって。特に現代小説が好きなんだ」


共通の話題が見つかり、二人は本について語り合った。凛人は少しずつ緊張が解け、自然な会話ができるようになってきた。


コーヒーとケーキを楽しんだ後、二人は近くの書店に立ち寄った。美咲は自分の好きな作家の棚の前で立ち止まり、凛人に本を手渡した。


「これ、私のお気に入り。凛くんも読んでみない?」


「ありがとう」凛人は本を受け取り、表紙を見た。「読んでみるよ」


「感想聞かせてね」


書店を出た後、二人は公園のベンチに座った。春の陽射しが心地よかった。


「なんか不思議だね」美咲がふと言った。「こうして凛くんと一緒にいると、昔に戻ったような気がする」


「そうだね」


「でも…」彼女は少し迷うように言葉を選んだ。「なんていうか、凛くんの中に壁があるような気がするんだ」


凛人は驚いて彼女を見た。


「私の気のせい?」美咲は凛人の目をじっと見つめた。「高校時代、何かあったの?」


凛人は言葉に詰まった。美咲は鋭かった。彼の心の奥に隠された闇を、本能的に感じ取っているようだった。


「何もないよ」凛人は目をそらして言った。「ただ…大学生活に慣れるのに必死で」


「そう…」美咲は半信半疑のようだったが、それ以上は追求しなかった。「でも、何かあったら話してね。私、凛くんの味方だから」


その言葉が、凛人の心に刺さった。彼女は本当に自分の味方なのだろうか。もし過去を知ったら、それでも味方でいてくれるのだろうか。


「ありがとう」


凛人はそれだけ言った。


帰り道、凛人と美咲は大学の門前で別れた。


「じゃあ、また明日」

「うん、またね」


小さく手を振り、凛人は家路についた。


***


【美咲】


同じ時刻、美咲は一人で駅へと向かっていた。頭の中は凛人のことでいっぱいだった。再会できた喜びと同時に、どこか遠ざけられているような違和感。彼が何かを隠していることは明らかだった。


「美咲?」


振り返ると、高校時代の友人、中村さやかが立っていた。


「さやか!久しぶり!」


二人は近くのカフェに入った。久しぶりの再会に、高校時代の思い出話に花が咲く。


「そういえば、今日凛くんに会ったんだ」美咲は何気なく切り出した。「偶然同じ大学で、しかも同じ学部だったの」


「えっ、三浦凛人?」さやかの表情が一瞬曇った。


「知ってるの?」


「ううん、名前だけ」さやかは急に落ち着きなく振る舞い始めた。「それで、元気にしてた?」


「うん。でも…」美咲は少し迷った。「なんか変わったっていうか…昔と違う感じがするんだ」


「そう…」さやかは目を逸らした。


「何か知ってる?高校の時のこと」


「私?知らないよ」さやかは慌てて否定した。「ていうか、もう行かなきゃ。また連絡するね」


急に席を立つさやかを、美咲は不思議そうに見送った。何か隠していることは明らかだった。凛人の高校時代に、美咲の知らない何かがあったのは確かだ。


彼女は駅に向かいながら、凛人のことを考え続けた。いつか彼が自分に心を開いてくれる日を、美咲は静かに待つことに決めた。


***


日々が過ぎるにつれ、凛人と美咲の関係は少しずつ深まっていった。美咲は変わらず明るく、積極的に凛人に話しかけ、時には食事や映画に誘った。凛人も徐々に緊張がほぐれ、彼女との時間を楽しめるようになってきた。


しかし、彼の中にある壁はまだ消えていなかった。過去の話題が出るたびに、凛人は巧みにはぐらかした。そして美咲は、そんな彼の態度に疑問を抱きながらも、優しく見守っているようだった。


ある日、二人で図書館の帰り道、美咲がふと言った。


「凛くん、私に隠してることあるよね」


凛人は足を止めた。


「何か…辛いことがあったんじゃないかって思うの」美咲は真剣な表情で続けた。「無理に話させようとは思わない。でも、いつか話してくれたらいいなって」


凛人は黙って彼女を見つめた。美咲の目には心配と優しさが浮かんでいた。


「美咲…」


言いかけて、凛人は言葉を飲み込んだ。今はまだ、話せなかった。彼女を失うのが怖かった。


「大丈夫」美咲は優しく微笑んだ。「急がなくていいよ。私、ずっと待ってるから」


その言葉に、凛人の胸が熱くなった。彼女の優しさが、彼の心の氷を少しずつ溶かしていくようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ