第4話 東雲
「凛人くん、そろそろご飯できるから降りておいで」
伯母の明るい声が二階まで響いた。凛人は手元の参考書から目を離し、返事をするか迷った。結局、静かに立ち上がり、部屋を出た。
「はい」
短く返事を返し、階段を降りる。キッチンからは味噌汁の香りが漂ってきた。
伯父の家に来て三ヶ月が過ぎようとしていた。三浦健一とその妻・由美子、そして小学六年生の娘・紗希という新しい家族の中で、凛人は静かに日々を過ごしていた。
「今日は何の勉強してたの?」伯母が微笑みながら尋ねる。いつも温かい笑顔の人だった。
「数学です」
「そう。大変そうね」
短い会話で終わる。いつものことだ。凛人は自分から話を広げることができなかった。彼らがどれだけ優しくしてくれても、まだ心を完全に開くことができなかった。
食卓には既に伯父と紗希が座っていた。
「凛人お兄ちゃん、今日学校どうだった?」
紗希が無邪気に尋ねてくる。通信制高校に転入してから、凛人は週に数回だけ登校していた。
「普通だよ」
そっけない返事をしてしまう。もっと優しく応えたいのに、言葉が出てこない。それでも紗希は気にした様子もなく、自分の学校の話を始めた。
食事の間、凛人は皆の会話を少し離れたところから聞いているような感覚だった。彼らは家族。そして、自分もその一員のはずなのに、どこか境界線があるように感じていた。
「凛人、来週の参観日には僕も行くからね」
伯父が優しく言った。彼は学校の行事には必ず参加してくれた。実の父親が一度もしてくれなかったことだ。
「…ありがとうございます」
形式張った返事をする自分が情けなかった。伯父は気にせず、微笑んだ。
食事を終え、凛人が部屋に戻ろうとした時、リビングの電話が鳴った。
「はい、三浦です」
しばらく相手の話を聞いている伯父の表情が徐々に暗くなっていった。
「分かりました。承知しました」
電話を置くと、伯父は凛人を見た。その目に悲しみが浮かんでいる。胸がざわついた。
「凛人、ちょっと話があるんだ」
リビングのソファに座るよう促され、凛人は従った。伯母も気づいたのか、紗希を二階に上がらせてから戻ってきた。
「今、警察からの連絡だった」叔父は慎重に言葉を選んでいるようだった。「亮一が…お父さんが、刑務所内で亡くなったそうだ」
時間が止まったような感覚。凛人は何も感じなかった。ただ、「そうなのか」という言葉だけが頭に浮かんだ。
「心臓発作だったらしい。持病があったのかもしれない」
「そうですか」
やはりそれしか言えなかった。悲しみも、喜びも、安堵も、何も湧き上がってこない。ただ空虚な感覚だけが凛人の心を支配していた。
「凛人…」伯母が心配そうに声をかけた。
「大丈夫です」
凛人は立ち上がった。「部屋に戻ります」
部屋に戻ると、凛人はベッドに座ったまま動けなくなった。父の死。その事実を受け止められないのではなく、何も感じないことに戸惑いを覚えた。
あれほど恐れ、憎み、時には殺してしまいたいとさえ思った父親。その死に、なぜ何も感じないのだろう。悲しむべきではないのか。それとも喜ぶべきなのか。
涙一つ出てこない自分が、どこか壊れているような気がした。
翌日、凛人は学校を休んだ。体調不良を訴えたが、実際には心がどうしても落ち着かなかった。部屋に閉じこもり、窓の外を眺めていると、ノックの音がした。
「凛人、入っていいかな」伯父の声だった。
返事をしないと、静かにドアが開いた。伯父が入ってきて、凛人の横に腰掛けた。
「無理に話さなくていい。ただ、聞いておいてほしいことがある」
静かに話し始めた。
「亮一のことは、僕もよく知っている。彼は昔から短気で、自分の感情をうまくコントロールできなかった。でも、お前を愛していなかったわけじゃない」
凛人は黙って聞いていた。
「お母さんが出て行った後、彼は完全に自分を見失ったんだ。それは決して許される行為じゃない。お前に暴力を振るったことは、絶対に間違っていた」
伯父は深く息を吸った。
「だけど、悲しまなくていいとか、彼の死を喜んでいいとか、そういうことじゃない。お前が今、何を感じているにせよ、それは間違っていない。無理に悲しむ必要も、無理に許す必要もない」
凛人の目に、初めて涙が浮かんだ。しかし、それは父親への悲しみの涙ではなかった。自分の感情を理解してくれる人がいることへの、安堵の涙だった。
「伯父さん…」
言葉が詰まる。叔父は優しく凛人の肩に手を置いた。
「いつか、お前の中で答えが見つかる日が来るよ。今は無理に答えを出そうとしなくていい」
その日から、凛人の中で少しずつ何かが変わり始めた。まだ家族との会話は少なく、心を完全に開くことはできなかったが、少しずつ彼らとの距離が縮まっていくのを感じた。
父の葬儀は小さく、親族だけで行われた。凛人は黙って参列した。式の間中、父の写真を見ることができなかった。
葬儀の後、凛人は黙々と通信制高校の勉強に打ち込んだ。勉強することで、自分の過去や感情から目を背けることができた。
ある夜、夕食の後片付けをしている伯母を手伝っていると、彼女が優しく声をかけてきた。
「凛人くん、無理しなくていいのよ」
「え?」
「凛人くんは、いつもいい子にしようと頑張っているでしょう」伯母は食器を拭きながら言った。「でも、ここにいる間は、自分の家だと思って気楽にしていいのよ」
「自分の家…」
凛人はその言葉を繰り返した。自分の家。それは温かい言葉だったが、同時に戸惑いも感じた。ここが自分の家だとは、まだ思えなかった。
「伯母さん、僕は…」
「何?」
言いかけて止まった。何を言おうとしていたのだろう。自分でもわからなかった。
「ありがとうございます」
結局、そう言うしかなかった。伯母は優しく微笑み、凛人の頭を撫でた。それは母親が子どもにするような、自然な仕草だった。
時は流れ、季節は冬から春へと変わった。凛人は週に数回の登校と、自宅での学習を続けていた。カウンセリングも定期的に受け、少しずつだが心の傷も癒えてきていた。
「凛人お兄ちゃん、これ見て!」
ある日、紗希が学校から帰ってくるなり、凛人の部屋に飛び込んできた。彼女の手には、テストの用紙があった。
「百点だった!凛人お兄ちゃんに教えてもらった公式、全部覚えたの!」
凛人は思わず微笑んだ。先週末、紗希に数学を教えた時のことだ。彼女の無邪気な喜びに、凛人の心も少し温かくなった。
「よかったな。よく頑張ったね」
「ありがとう!」
紗希は嬉しそうに部屋を出て行った。凛人は、自分がたった今、自然に微笑み、紗希の喜びを共有していたことに気づいた。些細なことだが、それは大きな変化だった。
高校二年生の冬、凛人は大学受験の準備を始めた。通信制高校での成績は良く、先生からも大学進学を勧められていた。
「どの大学を考えているの?」叔父が尋ねてきた。
「まだ決めていません。でも、文学部がある大学がいいです」
「文学か。凛人は本が好きだもんな」
叔父の言葉に、凛人は少し驚いた。自分が本好きだということを、叔父は知っていたのだ。部屋に積まれた本を見れば分かることかもしれないが、それでも叔父が自分のことを見てくれていたことに、心が温かくなった。
「はい、本を読むのが好きで…」
珍しく自分から話を広げる。叔父は嬉しそうに頷いた。
「そうか。じゃあ文学部はいいかもしれないな。応援するよ」
その言葉が、凛人の背中を押した。彼は本格的に受験勉強に取り組み始めた。
高校三年生になると、凛人は自分の進む道をさらに明確にした。文学部のある国立大学を目指すことに決めたのだ。
「凛人、これからが大変だろうけど、無理はするなよ」
叔父が心配そうに言った。凛人の部屋には参考書や問題集が山積みになっていた。
「大丈夫です。頑張ります」
その言葉に、伯父は何かを決心したように言った。
「凛人、一つ提案がある」
「何ですか?」
「もう一年以上一緒に暮らしてきたけど、まだお前は『です・ます』調で話すよな。もう少しくだけた話し方をしてもいいんじゃないか?」
凛人は少し考えた。確かに、叔父夫婦に対しては、いまだに敬語で話していた。伯母と紗希のことも「伯母さん」「紗希ちゃん」と呼んでいた。それは彼らとの間に、自分で壁を作っていたということなのかもしれない。
「…わかり、ました」言いかけて、また敬語になってしまう。
伯父は笑った。「無理しなくていいよ。ただ、お前がもっとリラックスして暮らせればいいなと思ってね」
そう言って部屋を出ていった。
その晩、夕食の席で凛人は決心した。
「今日のハンバーグ、おいしい…よ」
急に敬語をやめた凛人に、一瞬テーブルが静まり返った。しかし、すぐに伯母が嬉しそうに笑った。
「ありがとう、凛人くん。もっと食べる?」
「うん」
たった一言だったが、それは大きな一歩だった。その日から、凛人は少しずつ家族との会話で敬語を外すようになった。時々元に戻ってしまうこともあったが、徐々に自然な会話ができるようになっていった。
秋になり、受験シーズンが本格的に始まった。凛人は志望校の過去問を解き、小論文の練習をし、面接の準備をした。伯父と伯母は彼の受験勉強を全面的にサポートしてくれた。
「体調管理が一番大事だからね」と栄養バランスの取れた食事を用意してくれた。
「精神的にもきつい時期だけど、無理しないように」ともアドバイスをくれた。
そして受験の日。凛人は緊張しつつも、試験に臨んだ。結果は二ヶ月後に分かる。
待っている間、凛人は初めて自分から伯父に相談を持ちかけた。
「伯父さん…じゃなくて、健一さん」
「なんだい?」
「もし、大学に受かったら…」
凛人は少し言葉に詰まった。
「一人暮らしがしたいと思ってるの?」伯父が優しく尋ねた。
「いや、そうじゃなくて…」凛人は困ったように言葉を探した。「ここから通いたいと思ってるんだけど…それでもいい?」
二人の表情が明るくなった。
「もちろんだよ!うちにいてくれるのは嬉しいよ」
「迷惑にならない?」
「何言ってるんだ。お前はうちの家族だよ、凛人」
家族。その言葉に、凛人の胸が熱くなった。まだ完全に受け入れることはできなかったが、少しずつ、この家が自分の居場所になりつつあることを感じた。
合格発表の日。凛人は一人で大学に向かった。掲示板の前で、自分の受験番号を探す。そしてそれを見つけた瞬間、心臓が高鳴った。
合格していた。
家に戻ると、皆が玄関で待っていた。
「どうだった?」伯父が緊張した表情で尋ねた。
「受かった…」
凛人の言葉に、三人は一斉に喜びの声を上げた。紗希は飛び跳ねながら拍手し、伯母は目に涙を浮かべていた。
「おめでとう、凛人!」伯父が凛人の肩を抱いた。
その瞬間、凛人は初めて、本当の意味で家族の温かさを感じたような気がした。
「ありがとう…みんな」
小さな声だったが、確かに凛人の心からの言葉だった。
春になり、大学の入学式が近づいてきた。凛人のために新しいスーツを買ってくれ、紗希は新生活に向けての応援メッセージカードを作ってくれた。
入学式前夜、凛人は久しぶりに夢を見た。父親、母親、そして幼い頃の美咲。過去の記憶が断片的に現れては消えていく。しかし、以前のように悪夢ではなく、どこか懐かしい、穏やかな夢だった。
目覚めると、窓から朝日が差し込んでいた。新しい一日の始まり。そして、新しい人生の始まり。
凛人はベッドから起き上がり、窓を開けた。清々しい春の風が部屋に流れ込んでくる。
「おはよう、凛人くん。朝ごはんできてるわよ」
階下から母の声が聞こえた。
「うん、今行く」
返事をしながら、凛人は思った。
まだ完全に心の傷は癒えていない。時々、過去の記憶が蘇り、苦しくなることもある。でも、少しずつ前に進んでいる。今、自分は一人じゃない。
家族。かつては失い、怖れていたそれが、今は少しずつ、彼の中に温かさとして根付き始めていた。
彼の傷ついた心は、少しずつ、少しずつ、回復の道を歩み始めていた。




