第3話 暁
白い天井。消毒液の匂い。凛人は瞬きをした。喉が痛い。呼吸をするたびに、首に何かが巻かれている感覚がある。
「あら、目を覚ましたの?」
看護師らしき女性が、彼のベッドに近づいてきた。
「どこ…」
かすれた声でそう言いかけると、喉に鋭い痛みが走った。
「病院よ。学校の清掃員の方があなたを見つけてくれたの。命拾いしたのよ」
そうか。失敗したのか。凛人は虚ろな目で天井を見つめた。生きていた。まだ、この苦しみの中にいる。
「医師を呼んでくるわね」
看護師が部屋を出て行き、しばらくして中年の医師が入ってきた。
「三浦くん、目を覚ましたか。私は担当医の川島だ」
凛人はただ黙って首肯した。
「今日は基本的な検査をして、しばらくここで様子を見ることになる。体調はどうだ?喉は痛むか?」
「少し…」
凛人は短く答えた。医師は優しげな目で彼を見た。
「無理して話さなくていい。また後で来るよ」
医師が出て行った後、凛人はじっと天井を見つめていた。何も考えたくなかった。ただ、自分がなぜまだ生きているのか、その事実だけが重くのしかかっていた。
その日の夕方、心理カウンセラーを名乗る女性が部屋を訪れた。
「三浦くん、こんにちは。私は林と言います。少しお話してもいいかしら?」
特に返事をしなくても、彼女は椅子に腰掛けた。
「無理に話さなくていいの。ただ、聞いてほしいことがあるわ」
彼女はゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
「あなたの体には、たくさんの傷跡があったわ。医師たちは、それが長期間に渡る暴力の痕だと言っています」
凛人の体が強張った。
「誰かに話したくなったら、いつでも聞くわ。私たちは、あなたを助けたいと思っているの」
話せるわけがない。父親のこと、学校でのいじめのこと。それらを話せば、どうなるのかは想像もできなかった。凛人は黙ったまま、壁を見つめ続けた。
林さんは諦めたように立ち上がった。
「また来るわね。それまでゆっくり休んで」
その夜、凛人は眠れなかった。次に何が起こるのか、不安で仕方なかった。父親はどうしているのだろうか。学校には連絡が行っているのか。佐藤たちは何を思うのか。そして、美咲にはこの事実が伝わるのだろうか。
翌朝、別の来訪者があった。学校の担任教師だ。
「三浦、大丈夫か?」
担任の山下先生は、心配そうに凛人を見つめた。凛人は弱々しく頷いた。
「驚いたよ。お前がそんなことをするなんて…なぜ相談してくれなかったんだ?」
言葉にできるはずがなかった。そもそも先生に相談しても何も変わらないだろうということは、凛人の心の奥底では分かっていた。
「実はな…」山下先生は少し言いづらそうに口を開いた。「お前の体の傷跡について、医師から連絡があったんだ。あれは…誰かにやられたのか?」
凛人は黙ったまま、視線をそらした。
「もし学校で何かあったなら、教えてくれ。先生たちは、お前を守りたいんだ」
今更、守ってくれるというのか。毎日のように暴力を受けていることに、気づかなかったくせに。凛人の中に、苦い思いが広がった。
山下先生は、凛人の沈黙に諦めのため息をついた。
「分かった。無理に話さなくていい。でも、いつでも聞く準備はあるからな」
先生が帰った後、医師や看護師たちが現れては消え、様々な検査が続いた。凛人の傷跡について、写真を撮られることもあった。それが何のためなのか、彼には分からなかった。ただ、全てが明るみに出つつあることは感じていた。
三日目の午後、重要そうな雰囲気を纏った男性二人が病室を訪れた。
「三浦凛人くんですね。私は警察の青木と言います。こちらは同僚の牧野です」
警察。その言葉だけで、凛人の体は強張った。
「少し話を聞かせていただけませんか?」
凛人は黙ったまま、じっと膝を見つめていた。
「三浦くん、あなたの体の傷について教えてください。誰があなたにこれらの傷を負わせたのですか?」
返事がないのを見て、青木刑事は別の角度から質問した。
「学校でいじめを受けていましたか?」
まだ黙り続ける凛人に、刑事は優しい声で続けた。
「三浦くん、私たちはあなたを守るためにここにいるのです。話してくれれば、二度とあなたが傷つけられることはないようにします」
長い沈黙の後、凛人はかすかな声で言った。
「…信じても、らえますか?」
「もちろんです」青木刑事は頷いた。「全て話してください」
そして凛人は、少しずつ口を開いた。父親のこと、佐藤たちのこと、体育倉庫でのこと。断片的に、時には言葉に詰まりながらも、彼は自分の地獄を語り始めた。
刑事たちは、時折メモを取りながら、じっと凛人の話に耳を傾けた。特に佐藤たちのフルネームや学校での出来事の詳細については、何度も確認された。
話し終えた時、凛人は疲れ果てていた。しかし、不思議なことに、少し胸が軽くなったような気もした。
「三浦くん、勇気を出して話してくれてありがとう」青木刑事は真剣な表情で言った。「私たちは、あなたの話を元に捜査を進めます。もう二度と、あなたがそのような目に遭わないようにしますから」
その言葉が本当かどうか、凛人には分からなかった。でも、少なくとも誰かが自分の話を信じてくれたという事実は、小さな救いだった。
刑事たちが帰った後、林さんが再び訪れた。
「話せたのね。偉かったわ」
彼女の優しい声に、凛人の目に涙が浮かんだ。
「これからどうなるんですか?」
「まず、あなたの心と体の治療に専念しましょう。医師の診断では、あなたはうつ病の状態にあるそうよ。それと、あなたの状況を考慮して、しばらく精神科病棟で過ごすことになるでしょう」
「父は?学校は?」
「お父さんについては、警察が既に事情聴取を始めています。学校のいじめについても調査が入るでしょう。あなたが心配することはないわ」
それから数日間、凛人の病室にはさまざまな人が訪れた。児童相談所の職員、警察の別の刑事、精神科医、そして学校の校長。彼らはそれぞれの立場から質問をし、凛人の状況を確認していった。
ある日、山下先生が再び訪れた。その表情には、深い後悔の色が浮かんでいた。
「三浦…本当に申し訳なかった。気づけなくて…」
担任の言葉に、凛人は何も答えなかった。今更、謝られても何も変わらない。
「佐藤たちは停学処分になった。今後の処分については、警察の捜査結果を待って決めることになる」
そう告げる先生の声には、重みがあった。
「お前の父親も…逮捕されたそうだ」
凛人の心に、様々な感情が押し寄せた。安堵、恐怖、悲しみ、そして不思議な解放感。もう父に殴られることはない。だが、これからどうなるのか、全く見当もつかなかった。
翌日、凛人は精神科病棟に移された。そこで彼は、同じような境遇の若者たちと出会った。虐待の被害者、いじめの被害者、様々な理由で心を病んだ少年少女たち。
彼らとの交流や、毎日のセラピーを通じて、凛人は少しずつ自分の気持ちを言葉にすることを学んでいった。それは苦しく、時には辛い作業だったが、彼は一歩ずつ前に進んでいた。
ある日のグループセラピーで、凛人は初めて自分から話し始めた。
「僕は…死のうとした。もう耐えられなかったから」
震える声で、彼は自分の経験を語った。暴力、侮辱、孤独。そして最後の望みさえ奪われた時の絶望。
「でも今は…生きていて良かったのかもしれないと、少し思えるようになった」
その言葉に、セラピストは優しく微笑んだ。
「それは大きな一歩よ、三浦くん」
凛人は入院から一ヶ月後、児童相談所の判断で、父方の叔父の家に引き取られることになった。父親は、子どもへの虐待と傷害の罪で起訴された。佐藤たちも、凛人への暴行と傷害の罪で少年審判にかけられることが決まった。




