第2話 深まる闇
「三浦、お前、今日も一人か?」
教室の後ろから聞こえてきた声に、三浦凛人は身体を強張らせた。振り返ることはしなかった。反応すれば余計にからかわれるだけだと、もう分かっていた。
今泉美咲が転校してから一ヶ月が経っていた。最初の頃は、彼女からメールや電話が来ていた。転校先での様子や、新しい友達のことを明るく話す美咲に、凛人は自分の状況を話せなかった。
「大丈夫だよ。授業も部活も充実してる」
そう嘘をつき続けた。彼女に心配をかけたくなかった。それに、何を話せばいいのか、自分でも分からなかった。
やがて、美咲からの連絡は徐々に減っていった。彼女の新しい生活が始まり、新しい友人ができ、忙しくなっていくのは当然だった。凛人もそれを理解していた。それでも、彼女が自分から遠ざかっていくような感覚に、胸が締め付けられた。
「おい、聞いてんのか?」
再び声がして、同時に頭を小突かれた。振り返ると、同じクラスの佐藤がにやにやと笑っていた。
「今日の放課後、ちょっと付き合えよ。話があるんだ」
それが何を意味するのか、凛人は薄々感じていた。美咲がいなくなってから、クラスでの彼の居場所も変わっていた。彼女の友人たちの輪から、徐々に距離を置かれるようになった。そして、クラスの厄介者たちの標的になり始めていた。
放課後、凛人は佐藤たちに連れられて、学校の裏手に向かった。誰も来ないような場所だった。
「なあ、三浦。お前、最近元気ないよな」
佐藤がニヤリと笑う。その後ろには、同じグループの村上と田中が立っていた。
「別に…」
「今泉がいなくなってから、ずいぶんと寂しそうだな。彼女とは付き合ってたのか?」
「違う。ただの幼なじみだ」
「へえ、幼なじみか。でもお前、あいつのこと好きだったんじゃないのか?」
茶化すような佐藤の言葉に、凛人は黙ったままだった。
「おい、聞いてるのか?」
佐藤が凛人の胸ぐらを掴んだ。
「返事くらいしろよ」
「…別に、好きでも何でもない」
「嘘つけ。いつもあいつと一緒にいたじゃねぇか」
佐藤の握りが強くなる。
「ま、いいけどな。あいつももう忘れただろ。お前みたいなのなんて」
凛人はその言葉に、思わず目を見開いた。佐藤がニヤリと笑う。
「図星か?」
「…放せよ」
凛人が佐藤の手を振り払おうとした瞬間、後ろから村上に押さえつけられた。
「おい、生意気になんなよ」
佐藤の拳が、凛人の腹に突き刺さった。鈍い痛みが広がる。
「お前みたいなやつ、誰も守ってくれないんだよ」
次の一撃が顔に入り、凛人は地面に倒れ込んだ。佐藤たちの靴が、容赦なく彼の体を蹴り始めた。
痛かった。でも、それ以上に心が痛かった。美咲がいなくなったこと。母が去ったこと。父が変わってしまったこと。そして何より、誰も自分を必要としていないという現実が。
しばらくして、佐藤たちは飽きたように去っていった。凛人はしばらく動けず、その場に横たわっていた。空が、少しずつ色を失っていくのを見ていた。
この日が、始まりだった。
以降、佐藤たちのいじめは日常となっていった。最初は言葉によるいじめや、軽い暴力程度だった。でも、凛人が抵抗しないのを見るにつれ、彼らの行為はエスカレートしていった。
教科書や体操着が隠される。机に落書きがされる。廊下ですれ違いざまに肩をぶつけられる。昼食時には一人で食べることが増えた。誰も彼に近づかなくなった。
それでも、凛人は我慢した。美咲にも父にも、学校での出来事は話さなかった。美咲には心配させたくなかったし、父に言っても状況が改善するとは思えなかった。むしろ、父の暴力のきっかけになるのが怖かった。
家では、父との関係がさらに悪化していた。仕事から帰るとすぐに酒を飲み始め、酔うと決まって凛人に暴力を振るう日々。時には、凛人が塾から帰ってくる時間を見計らって待ち構えているようなこともあった。
「お帰り、凛人」
父の甘ったるい声に、凛人の全身が緊張した。また始まる。また痛い思いをする。
「明日、テストだから…勉強しないと」
弱々しく言い訳をしても、父は聞く耳を持たなかった。
「テストか…お前、勉強だけは得意だもんな。そこだけは、俺に似なかった」
父の目は既に酒に濁っていた。
「あの女に似たんだ。頭の良さも、顔も…全部あいつに似やがって」
次の瞬間、凛人の髪を掴まれ、壁に叩きつけられた。
「なんで、お前はあいつに似てるんだ!見るだけで思い出すんだよ…あいつの裏切りを!」
殴られ、蹴られ、罵倒される。抵抗しようとしても、父の力の前には無力だった。
そんな日々が続く中、学校でのいじめも徐々に激しくなっていった。高校一年の冬、ある日の放課後。
「おい、三浦。ちょっと来いよ」
佐藤たちに連れられて、凛人は男子トイレに入った。そこには、彼らのグループの他のメンバーもいた。
「なあ、三浦」佐藤が急に真面目な顔になった。「最近お前んち、なんかあったって噂だけど本当か?」
凛人は血の気が引くのを感じた。
「何の話だ?」
「ほら、お前の母親のことだよ」佐藤が周囲を見回し、声を落とした。「出て行ったんだろ?男作って」
凛人の瞳が震えた。誰にも話していないはずだった。どうして彼らが?
「...」
「黙ってりゃ認めたってことだな」佐藤が不敵に笑う。「俺の親父、お前んちの近所で聞いたんだよ。お前の父親、酔っ払って大声で叫んでたらしいな。『裏切られた』とか『男と逃げやがった』とか」
凛人は言葉を失った。
「だから、お前の父親はアル中になって、お前を殴ってるんだろ?」
「...黙れ」
「おいおい、怒んなよ」佐藤が両手を上げた。「別に周りには言わないからさ。ただ確認したかっただけだ」
佐藤がさらに近づいて、凛人の肩に手を置いた。
「でもさ、よく考えろよ。お前の母親ですら見捨てたんだ。誰もお前なんか必要としてないんだよ」
その言葉が、凛人の心に深く突き刺さった。言い返せなかった。反論できなかった。その通りなのかもしれないと、既に思っていたから。
「これは俺たちだけの秘密だ。その代わり、お前は俺たちの言うことを聞くんだな」
脅迫めいた言葉に、凛人はただ黙って頷くしかなかった。
それから一ヶ月ほど経った頃、佐藤たちのいじめは暴力的なものへと変化していった。体育倉庫に連れ込まれるようになり、そこで暴行を受けるのが日常となった。
ある日、佐藤はカッターナイフを取り出した。
「今日はこれでやる」
凛人は恐怖で身体が震えた。佐藤はカッターを彼の左腕に当て、一気に押し込んだ。刃が皮膚を切り裂く感触。鋭い痛みが走る。血が流れ出した。
「声を出すな」
凛人は痛みで歯を食いしばった。佐藤は次々と腕に傷をつけた。一本、また一本と、腕に線が刻まれていく。痛みで意識が遠のきそうになるのを、必死にこらえた。シャツを引き裂かれ、冷たい空気が背中に触れた。そして、背筋に沿って鋭いカッターの痛みが走った。まるで生き物の爪が肉を引き裂くような感覚。凛人は叫び声を押し殺した。
佐藤は凛人の背中に何本もの線を刻んだ。
別の日には、熱した鉄棒で背中を焼かれ、熱湯をかけられた。赤く熱し、それを背中や腕に押し当てられた痛みは、言葉にできないほど激しかった。皮膚が焼ける匂いがして、火傷の痛みが全身を走った。熱湯をかけられた時も同様だった。皮膚が一瞬で赤く腫れ上がり、水ぶくれができ、何日も痛みが続いた。
これらの暴力に加え、もう一つ凛人の心を深く傷つけた出来事があった。ある日、佐藤たちは得体の知れない薬を持ってきた。
「これ飲め」
拒否すれば更なる暴力が待っていることを知っていた凛人は、震える手でそれを口に入れた。しばらくすると、頭がぼうっとし始め、体が思うように動かなくなった。意識はあるのに、全身が鉛のように重く、反応が鈍くなる。
そのとき、見知らぬ女子生徒たちが体育倉庫に入ってきた。彼女たちの笑い声が、遠くから聞こえるようだった。薬の影響で体が言うことを聞かない状態で、女子生徒たちは凛人の体を弄び始めた。服を脱がされ、屈辱的な状況に置かれた。彼女たちは様々な行為を強要した。詳細は思い出したくもないような辱めだった。
意識がもうろうとする中でも、何が起きているのか理解できる程度には凛人は覚醒していた。恥辱と屈辱で、彼の心は引き裂かれそうだった。しかし薬の影響で抵抗できず、ただ彼女たちの言いなりになるしかなかった。
性的な辱めは、体の傷よりも深く凛人の心を傷つけた。女子生徒たちの冷ややかな目と嘲笑が、彼の魂を徐々に削っていった。この日の記憶は、消したくても消せない傷跡として心に刻まれた。
高校二年の春。凛人のクラスに、転校生がやってきた。
「みなさん、今日から新しいクラスメイトを迎えます。松本龍二くんです」
明るい笑顔の少年が、クラスの前に立った。
「よろしくお願いします!」
活発な様子の松本は、すぐにクラスに馴染んでいった。そして不思議なことに、彼は凛人に話しかけてきた。
「三浦くんだよね?一緒に昼飯食わない?」
警戒心を抱きながらも、凛人は松本と昼食を共にした。
「転校したばかりで知り合いいないからさ、助かるよ」
松本の屈託のない笑顔に、凛人は少し心を開き始めた。
数日間、彼らは一緒に昼食を取るようになった。凛人にとって、久しぶりの平穏な時間だった。
「なあ、三浦。放課後、ちょっと付き合ってくれよ」
松本の誘いに、凛人は軽く頷いた。彼を疑う理由はなかった。
放課後、松本に連れられて校舎の裏に行くと、そこには佐藤たちが待っていた。
「お疲れ、松本。ちゃんと連れてきたな」
凛人は凍りついた。松本の顔を見ると、もうそこには優しさはなかった。ただ、冷たい笑みだけが浮かんでいた。
「悪いな、三浦。俺、あいつらと知り合いでさ。お前のこと、いろいろ聞いてたんだ」
裏切られた痛みが、凛人の胸を締め付けた。またか。また信じた人に裏切られるのか。
この日、松本も加わり、四人がかりで凛人を痛めつけた。体中が痣だらけになるほど殴られ、蹴られた。
「人を信じるな」
松本が言った。
佐藤も付け加えた。
「お前の母親も、お前を捨てた。父親はお前を憎んでる。今泉も、お前のこと忘れたよ。誰もお前なんか必要としてない」
その言葉が、凛人の最後の希望を砕いた。
帰宅して自室に閉じこもった凛人は、鏡に映る自分を見つめていた。傷だらけの体。カッターの跡が腕と背中を覆い、火傷の痕が皮膚を醜く変形させていた。目は空虚で生気がない。これが、自分なのか。
翌日からは、学校にも行かなくなった。父は、そんな凛人をさらに責め立てた。
「学校にも行かないのか?このクズ野郎」
暴力は続いた。学校でも家でも、逃げ場はなかった。
3日後、凛人は再び学校へ行くことを決意した。不登校になれば、さらに父の怒りを買うだけだと分かっていたから。
教室に入ると、一瞬の沈黙があった。そして、誰かが小声で言った。
「おい、死に損ないが戻ってきたぜ」
クスクスと笑い声が広がる。死に損ない。彼らは知っていたかのようだった。凛人が死を考えていることを。
その日も、いじめは続いた。しかし、凛人の中で何かが変わっていた。もう、恐怖も痛みも感じなくなっていた。ただ、深い虚無感だけが、彼の心を支配していた。
彼は心に決めた。もう限界だった。これ以上生き続ける意味を見出せなかった。
翌日、凛人は学校を休んだ。そして父親が仕事から戻る前に家を出た。目的地はもう決まっていた。
誰もいなくなった校舎。放課後、部活動に向かう生徒たちが去った後の静けさの中、凛人は使われなくなった古い教室へと足を向けた。
夕日の光が窓から差し込み、教室の床に長い影を落としている。誰の気配もない。この静寂の中で、凛人は最期の時を迎えようとしていた。
教室の隅から椅子を引き寄せる。床がきしむ音が、やけに大きく響く。教室特有の埃と古いチョークの匂い。もう二度と感じることのない匂いだった。
天井の梁に目をやる。用意してきたロープの片方を、何度も確かめながら結びつけた。反対側には、首に掛ける輪を作る。
不思議なことに、手は震えていなかった。心も穏やかだった。長い間考え続けてきたことを、ようやく実行する瞬間。そんな感覚だった。
これで終わる。全ての苦しみから解放される。痛みも、屈辱も、悲しみも、全て消えていく。自分がこの世から消えても、誰も気にかけないだろう。すぐに忘れられる。それでいい。そうあるべきなのだ。
椅子の上に立つ。校舎の外からは、まだ部活動に励む生徒たちの声が聞こえる。凛人には無縁の、明るい世界の音。
ロープの輪を首にかける。冷たい感触が肌に伝わる。目を閉じ、深く息を吸い込む。
「...さようなら」
そして、足元の椅子を蹴り出した。




