第1話 かつての幸せ
「美咲、待ってよ!」
明るい声が春の風に乗って公園に響き渡る。小学校三年生の凛人は美咲を追いかけていた。二人は幼稚園からの幼なじみで、隣同士の家に住んでいた。
「凛人が遅すぎるんだよ!」
黒髪を風になびかせて走る美咲を見ながら、凛人は心地よい疲れを感じていた。彼女と過ごす時間は、いつも楽しかった。
「今日の算数の宿題、分かった?」美咲が滑り台の上から尋ねる。
「うん、簡単だったよ。分からないところがあったら教えてあげるよ」
凛人は勉強が得意で、いつも美咲を助けていた。二人はいつも一緒だった。登下校も、休み時間も、放課後も。
家に帰れば、母が温かい笑顔で出迎えてくれる。仕事から帰った父は凛人の頭を優しく撫で、家族で食卓を囲む。それが凛人の日常だった。
「凛人、今日も美咲ちゃんと遊んできたの?」夕食の席で母が穏やかな声で尋ねる。
「うん!公園で鬼ごっこしたんだ」
「二人はほんとに仲良しね」母が微笑む。
「美咲ちゃんのお母さんは、俺たちの高校の同級生だからな」父も嬉しそうに言った。「不思議な縁だよ」
美咲の父親は彼女が生まれる前に事故で亡くなり、母親が一人で育てていた。それでも美咲はいつも明るく、前向きだった。その強さは、きっと母親譲りなのだろう。
時が流れ、二人は中学生になった。凛人の家庭は変わらず穏やかだった。父は会社で順調に昇進し、母は専業主婦として家庭を支えていた。美咲の母親も美咲を立派に育て上げ、二つの家族は親しい付き合いを続けていた。
「凛、高校どこ受ける?」中学三年生の春、美咲が桜の木の下で尋ねた。
「まだ決めてないけど、やっぱり進学校かな。将来、教師目指すし」
「いいね!凛は先生に向いてる」美咲が目を輝かせる。「私まだ決めてないけど、できれば同じ高校がいいな」
「そうだな、一緒に行こう」
二人は笑顔で約束した。それが叶うと信じて疑わなかった。
そして、高校入学。二人はともに地元の進学校に合格した。クラスこそ違ったが、昼休みや放課後には一緒に過ごす時間を持っていた。
「凛、部活どうする?」入学式の翌日、昼食を共にしながら美咲が尋ねた。
「文芸部にしようかと思ってる。お前は?」
「私、バレー部見学に行ってみたんだ。先輩たち結構いい人そうだし、体育館も綺麗だった」美咲はスマホを取り出し、部活の写真を見せた。
「似合いそうだな」凛人は画面を覗き込みながら言った。「中学の時も運動部だったし」
「そうなんだよね。でも文武両道目指すから、成績落とさないように気をつける」美咲は真面目な表情で言った。「大学も視野に入れないとね」
「まだ一年生だぞ」凛人は笑った。「でも部活見に行くよ、練習の日教えてくれよ」
「マジで?嬉しい!でも見学者用の席ないから、立ち見になるよ」
「全然構わないって」
高校一年の夏、美咲は部活に打ち込み、凛人は勉強と文芸部の活動に励んでいた。普通の、平和な日々。それがいつまでも続くと思っていた。
「凛人、ちょっといいかな」
ある日の夕食後、母が真剣な顔で凛人を呼んだ。リビングには父も座っていた。二人とも妙に固い表情をしている。
「どうしたの?」
「実はね…」母が言葉を選びながら話し始めた。「お母さん、仕事を始めることになったの」
「え?いいじゃん、頑張ってよ」
「ありがとう」母は微笑んだが、その笑顔には何か影があった。「少し忙しくなるけど、今まで通り家事はするから心配しないで」
父は黙って母の話を聞いていたが、どこか不満そうだった。
それからの母は、確かに忙しくなった。夕飯の時間が遅くなることもあり、時には帰りが深夜になることもあった。
「最近遅いね、お母さん」
ある晩、凛人が父に言うと、父は暗い表情で答えた。
「仕事が忙しいんだろう」
その言葉には苛立ちが含まれていた。家の雰囲気が少しずつ変わっていくのを、凛人は感じていた。
高校一年の夏の終わり、美咲が突然凛人を学校の屋上に呼び出した。
「話があるんだ、聞いてほしい」
昼休み、二人は屋上の隅に腰を下ろした。美咲は珍しく落ち着きのない様子だった。
「どうした?深刻そうだな」
「凛に一番に伝えたくて」美咲は真剣な表情で言った。「実は、引っ越すことになったんだ」
「え?」凛人は耳を疑った。「どこに?」
「大阪…母さんの会社が転勤になるんだ」
「マジかよ…いつ?」
「夏休み明けすぐ…」美咲は申し訳なさそうに俯いた。「突然でごめん」
「そんな急に…」言葉が出てこなかった。「でも、連絡は取り合うよな?LINE繋がってるし」
「もちろん!それに、また戻ってくるよ。母さんの転勤は2〜3年って聞いてる」
「そうか」凛人は無理に笑顔を作った。「それまで、元気でな」
美咲との別れの日。駅のホームで、凛人は彼女を見送った。
「絶対連絡するからね!」
手を振る美咲に、凛人も笑顔で応えた。しかし、彼女を乗せた電車が見えなくなると同時に、笑顔は消えた。重い足取りで家路についた。
以降、LINEや電話で連絡は取っていたが、徐々に頻度は減っていった。お互いの生活が変わっていくにつれて、共有できる話題も少なくなっていった。
美咲が去って一ヶ月ほど経った頃、凛人の家庭にも大きな変化が訪れた。
ある土曜日の夕方、凛人が塾から帰ると、家の中から父の怒鳴り声が聞こえてきた。彼は玄関で立ち止まり、声を潜めた。
「嘘をつくな!証拠があるんだ!」
父の怒りに満ちた声。そして、母の泣き声。
「信じられないよ…どうしてこんなことを?」
凛人は震える手でドアノブを回した。リビングでは、父が母の肩を掴み、激しく問い詰めていた。テーブルの上には、見慣れない携帯電話があった。
「凛人…」
母が彼に気づき、声を詰まらせた。父も振り返り、凛人を見た瞬間、表情が崩れた。
「…部屋に行ってろ」
低い声で、父は言った。
「何が…?」
「今は関わるな!」
父の怒鳴り声に、凛人は思わず後ずさった。自分の部屋に逃げ込み、ドアを閉めても、リビングからの怒鳴り声と泣き声は聞こえてきた。恐怖と混乱で、凛人は震えていた。
翌朝、母の姿はなかった。
「お母さんは、しばらく実家に帰っている」
父はそう言って、それ以上の説明はなかった。しかし、その目は赤く、一晩中泣いていたような様子だった。アルコールの臭いも強かった。
それから数日後、凛人は母から電話を受けた。
「凛人、ごめんね。お母さん、しばらく帰れないの」
「どうして?いつ帰ってくるの?」
「…それが、分からないの。でも、凛人のことは大好きよ。それだけは忘れないでね」
母の声は、どこか遠く感じられた。質問を避ける様子に、凛人は不安を覚えた。
その一週間後、父から真実を告げられた。
「お前にも知る権利がある」酒を飲みながら、父は言った。「お母さんは…もう戻ってこない。俺たちは離婚することになった」
凛人は言葉を失った。「なんでだよ…?」
「お前の母親は…別の男と関係を持っていたんだ。相当長い間な…」
父の声は虚ろで、目は焦点が合っていないようだった。
浮気。その言葉の意味を、十六歳の凛人は理解していた。母は、父と自分を捨てて、他の男性と新しい生活を始めるというのか。
「でも…どうして??なんで…」
「分からないよ」父は苦しそうに呟いた。「俺には何も足りなかったのか…」
そして、もう一度グラスに酒を注いだ。
信じられなかった。いつも優しかった母が、そんなことをするなんて。家族の幸せを、自分の手で壊すなんて。
母と父の離婚が成立し、母は凛人の生活から完全に消えた。連絡先すら知らされなかった。
そして父は、日に日にアルコールに溺れていった。仕事から帰ると、黙って酒を飲むようになった。話しかけても、短い返事しか返ってこない。次第に、酒の量は増えていった。
普段は無口な父だったが、酒に酔うと攻撃的になっていた。それからの日々、家は地獄のような場所になっていった。父は酒を飲むたびに、凛人に八つ当たりをするようになった。最初は言葉だけだったが、やがて暴力へと変わっていった。
「お前の顔を見ると…あの女を思い出す」
酔った父はそう言って、凛人を押し倒した。「そっくりだ…目も、鼻も、くそっ…」
母の浮気による裏切り。父のアルコール依存症と暴力。そして、美咲との別れ。
凛人の世界は、高校一年の秋までに、色を失い始めていた。そして、彼の苦悩は、これからさらに深まっていくのだった。




