◆ 第一章 失われた錬金術(6)
(あやかしなどいないわ。父ならきっと笑い飛ばすはず)
玲燕の脳裏に、髭を揺らして笑う陽気な父──葉秀燕の姿が蘇る。玲燕の母は元々体が弱く、玲燕以外に子供を望めなかった。ひとりっ子だった玲燕を秀燕はとても可愛がってくれた。
玲燕もまた父をとても尊敬しており、特に、父が天嶮学を弟子達に教えている学舎に紛れ込んで一緒に講義を聞くのが何よりも好きだった。
『錬金術の目的は練丹のみではない。我らは錬金術を用いて物事の真理を見極め、あらゆる世の不可解を解明し、また、世の不便を解決するのだ』
父は弟子達によくそう言っていた。
天嶮学が広まるまで、錬金術師の仕事は練丹、即ち、飲めば不老不死の仙人となれる仙丹の錬成が主目的だった。天嶮学は錬金術の可能性を大きく広げたのだ。
玲燕は馬車の窓から外を覗く。
墨を垂らしたような闇夜には、下弦の月が見えた。
──月を始めとする天の星は大地より昇り、また沈むが、一部の星は一年中どんなときでも地平線下に沈むことはない。
天嶮学の学舎で、昔そんなことを学んだ記憶が蘇る。
天空を二十八の月宿に分割し、地平線に沈んでいる星の位置をも正確に把握するのだ。
『天嶮学はまやかしだって言うのは既に有名な話なのに』
故郷を去り際に家の貸主から言われた言葉を、また思い出す。
(まやかしじゃないわ)
玲燕は膝の上に乗せていた手をぎゅっと握る。
予想と違わずに正確に動く天体は、玲燕が学んだことが間違っていないと証明している。
(朝廷は嫌いだ)
たった一度の失敗で父の命を奪っただけでなく、それまで脈々と受け継がれていた先人達の知識までも、その全てを否定した。
(今回だけが、特別よ)
玲燕は自分に言い聞かせる。
家賃を立て替えてもらったとき、天佑には咄嗟に『余計なことをするな。すぐに自分で払おうと思っていた』と突っかかった玲燕だったが、実のところ払う当てなど何もなかった。天佑が現れなかったら、近い未来にあの家を追い出され、路頭に迷って野垂れ死にしていただろう。
(恩返しをするだけだわ)
この一回だけ。この一回だけだ。
成功報酬を受け取ったら田舎に戻り、父と同じように学舎をつくってひっそりと暮らしたい。
何もかも失った玲燕が今望むことは、ただそれだけだった。
◇ ◇ ◇
ガタンと音がして馬車が揺れる。
玲燕はその衝撃ではっと目を覚ました。
気付ば、窓の外はすっかりと明るくなり、太陽は高い位置まで昇っている。車に揺られながら月を眺めていたら、いつの間にか眠ってしまったようだ。
「よく眠れたかい?」
正面に座る天佑は穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「……おかげさまで」
「それはよかった」
天佑は満足げに頷くと、窓の外を覗く。
玲燕も釣られるように外を眺めると、密集した商店と多くの人々の往来する姿が見えた。故郷の東明ではまず見かけないほどの人手だ。
「今日は祭りか?」
玲燕は天佑に尋ねる。
「祭り? いや、違うな。大明はいつもこの人出だ」
「ふうん」
馬の足音に売り子の呼び声、歓談する人々の笑い声。町全体がやがやとしていて、随分と賑やかだ。
(大明って、こんなに賑やかだったのね)
ここに滞在していたのは、もう十年も前のこと。いつの間にか、随分と記憶が薄れていることを感じる。
「そろそろ着く」
天佑が外を眺めながら玲燕に告げる。
間もなく、ガシャンという音と共に馬車が止まった。先に降りた天佑が扉を開けてくれたので、玲燕も続いて馬車から降りた。
長らく住んでいた故郷の道とは比べ物にならないほどしっかりとした道路を踏み締め、前を向く。
「大きなお屋敷……」
そこには大きな屋敷があった。白い塀が左右に延び、その中央にある木門には立派な門頭が付いている。その門頭は赤や青で鮮やかに塗られていた。