◆ 第五章 事件、再び(13)
強い違和感を覚えて考え込んでいると、「着いたぞ」と天佑の声がした。
ハッとして顔を上げると、鍵のかかった木製の戸が目の前にあった。天佑は懐から鍵を取り出すと、それを開ける。
部屋の中にはいくつかの棚があり、その棚には整然と物が並べられていた。
「件の事件の証拠品はこれだ」
天佑は棚の一画を指さす。そこには、潤王暗殺未遂事件の日に使われていた証拠品酒器や銀製の杯などが置かれていた。
まず目に入ったのは、黒ずんだ銀杯だった。液体を満たした部分だけが黒く変色しており、砒霜を混入したときの特徴的な所見だ。
「酒を注ぐ酒器は陶器製なのですね」
「ああ。黄殿が奪い取って投げ捨てた際に一部が欠けてしまった。中に僅かに残っていた酒からは毒が検出された」
「なるほど」
玲燕は頷く。
「酒が盛られたのは黄様と陛下のふたりでしたね。毒入りの酒が注がれた、もうひとつの銀杯はどれですか」
「目の前にあるではないか」
天佑は玲燕の前に置かれた銀杯を指さす。玲燕はそれを見て、首を横に振った。
「いいえ、違うと思います。これとは別に、もうひとつあると思うのですが」
「いや。これしかない」
「これしか?」
玲燕は眉根を寄せる。
天佑の指さした銀杯は、美しい輝きを保っていた。けれど、もしも砒霜を入れた酒を満たしたなら、銀は錆びるはずなのだ。
「それは、すぐに黄殿が気付いて銀杯を叩き落としたせいで、中の酒が全て零れてしまったせいではないか?」
「中の酒が全て零れてしまったせい……」
そうだろうか。玲燕は少し考え、首を横に振る。
たとえ零れたにしても、全ての酒が銀杯から綺麗に拭い去られるわけではない。必ず、どこかに錆が出るはずだ。
「やはり、違うと思います」
「すり替えられたということか?」
天佑は腕を組む。
「ここは普段、ごく限られた関係者しか入れない」
「そうですか……」
玲燕は入り口にかかっていた鍵を見る。鉄製のしっかりした物で、そう簡単には壊れそうにない。
(その、ごく限られた関係者がすり替えたってこと?)
一体誰が、なんのために?
謎を解くはずが新たな謎に直面し、玲燕は戸惑う。
「ここの鍵を借りた者を調べていただいてもいいでしょうか?」
「もちろんだ。すぐに調査する」
天佑は頷く。
玲燕はもう一度、ふたつの銀杯を見た。
何か重大な事実を見逃しているような気がしてならなかった。
倉庫を出ると、天佑に「そろそろ午後の茶菓が届く時間だが、執務室に寄っていくか?」と聞かれた。
「茶菓? 是非!」
後宮で出される茶菓も美味しいが、皇城で高位官吏達に出される茶菓もとても美味しいのだ。
目を輝かせる玲燕を見て、天佑は頬を緩める。
「玲燕は、最初に比べて表情豊かになったな」
「……そうですか?」
「全く笑わなかった」
「…………」
そうだろうか。そうだったかもしれない。
天佑に出会ったあの頃は、頼れる人もなく、信じているものを周りからまがい物だと言われ、お金もなく、色々な物に諦めの気持ちを持っていたから。
「笑顔が出るようになってよかったよ」
「……それはどうも」
もしかして、ずっと気に掛けてくれていたのだろうか。
胸がむずがゆいような、不思議な感覚がする。
「あ、そういえば」
なんだか気恥ずかしく感じ、玲燕は話題を変える。
「天佑様は光琳学士院にいらしたのですね。先ほど、書庫で昔の人事配置表を見ました。どんな研究を?」
玲燕は天佑の横顔を窺う。
(あれ?)
一瞬強ばったように見えたのは気のせいだろうか。
「忘れた」
「忘れた? 全部?」
「体調を崩してから、記憶が曖昧なんだ」
「体調を……」
確か以前一緒に礼部を訪れた際、天佑は旧友である李雲流から体調を気遣われていた。彼が心配したのと同じ体調不良だろうか?
「それは……、今は大丈夫ですか?」
「ああ。だが、毎日が忙しすぎる」
「それはそうでしょうね……」
ひとつの役職であっても目が回る忙しさのはずなのに、ひとり二役しているのだから忙しいのは当たり前だ。
「では、しっかりと休憩しないと。茶菓を食べましょう!」
「そうだな」
ぐっと胸元で力こぶを作った玲燕を見て、天佑が笑う。
その表情が少し寂しげに陰ったことには、とうとう気がつかなかった。