◆ 第三章 皇城(10)
「なぜそう思う?」
「私を夜伽に呼びながら、夜伽を求めなかったからです」
玲燕は潤王をまっすぐに見返した。
「陛下の皇位継承権は、元々さほど高くありませんでした。大明で疫病が流行って皇子達が次々と亡くなる前は、陛下が皇帝になるなど誰も予想しておりませんでした。当時、陛下は宋家に婿入りすることになっていたのではないですか?」
潤王が預けられていた宋家は地方の有力貴族であり、桃妃の実家でもある。
一夫多妻制が敷かれる後宮では多くの男児が産まれるのが常だが、皇帝になれるのはひとりのみ。残りの皇子は多くの場合、国内各地の貴族の元に婿入りする。そして、婿入り先の筆頭候補になるのは幼いときに預けられた貴族であることが多い。
玲燕は、潤王もその慣例に則り、宋家に婿入りすることが決まっていたのではないかと予想したのだ。
「私は不思議だったのです。なぜ、おひとりだけご実家の身分が劣る桃妃様を妃として娶ったのだろうと。陛下は、梅妃様、蓮妃様、蘭妃様の三人は政権安定のために、桃妃様だけは私情で娶ったのではないですか?」
潤王には現在、玲燕を除けば四人の妃がいる。梅妃、蓮妃、蘭妃、桃妃だ。そのうち桃妃を除く三人はいずれも国内有数の有力貴族の娘であり、桃妃だけ出身が見劣りする。
以前、潤王は全ての妃を平等に夜伽に呼ぶと蓮妃から聞いたことがある。どうしてまだ子供としか言えないような年頃の蓮妃まで平等に夜伽に呼ぶのか。そして、偽りの妃である玲燕まで。玲燕を夜伽に呼ばなくても抗議する貴族などいないのに。
しかし、全ては桃妃を少しでも多く呼ぶためだと考えれば納得いく。
妃の中で最も位が高い皇后の地位は未だに空席。最初に皇子を身ごもった妃がこの座を射止めるであろうとされているが、懐妊の兆しが見える妃は今のところいない。そのため、妃達は一夜でも多く、夜伽に召されることを望んでいる。
女の妬みは、ときに身を滅ぼすほどの恐ろしさを孕んでいる。
全ての妃の元を平等に通うのは、四人を平等に扱っていると見せることで桃妃に対する恋情を隠し他の妃からの妬みから守った上で、通う回数を最大にする方法なのではないだろうか。潤王自身が否定も肯定もしないのが、何よりもの証拠に思えた。
パチン、と碁石を置く音が鳴る。
「陛下の番でございます」
玲燕は囲碁盤を視線で指す。潤王の視線も囲碁盤へと移動した。
「さすがにそう簡単には負けないか」
「当たり前です」
玲燕はつんとした態度で答える。腕を組んで囲碁盤を見つめていた潤王は、おもむろに顔を上げた。
「ふむ。残念だが、時間切れかもしれない」
「時間切れ?」
玲燕が怪訝な顔をしたそのとき、「英明様!」という声がしてバシンと背後の扉が開く。息を切らせて入ってきたのは天佑だった。
「あれ、天佑様?」
玲燕は目をぱちくりとさせ、天佑を見上げる。天佑は幞頭を被った栄祐の姿をしていた。よほど急いで来たのか、いつもはきっちりと整った髪が少しこぼれ落ち、息も荒い。
「きっとここに来るだろうとは予想していたが、思ったよりだいぶ早かったな、栄佑」
くくっと笑った潤王は、立ち上がる。
「今宵は楽しめた。菊花殿に戻れ。またな」
潤王はひらひらと片手を振ると、殿舎の奥へと消えていったのだった。