◆ 第三章 皇城(5)
そのとき、背後の入り口が開く音がした。
「これはこれは、珍しい方がいるものだ」
パタンと扉が閉まる音と共に、しわがれた声がした。
玲燕は入り口のほうを振り返る。そこには、濃い紫色の袍服に身を包んだ壮年の男性が立っていた。顎には立派な髭を蓄えている。
「甘殿自らがここにお越しになるとは。ついにこちらの意見に賛成してくれるということかな?」
天佑はその男を見て、にっこりと笑みを浮かべた。
「これは、高殿。あいにくですが、新任の官吏のリストを届けに来ただけです」
「そんな雑用を吏部侍郎であられる甘殿自らがなさるとは、よほど吏部はお暇らしい。いやいや、羨ましい限りですな」
きつい皮肉を織り交ぜ、男は天佑の隣にいた玲燕に視線を移した。
「見慣れない顔だが、若手の官吏か? 君もそんな閑職ではなく、礼部に来たらどうかね」
玲燕は目の前にいる男を、まっすぐに見返す。
年齢は五十代だろうか。髪や髭にはだいぶ白髪が混じっていた。
濃い紫色の袍服はかなりの高位であることを表わしており、腰帯には帯銙と呼ばれる飾りがたくさん付いていた。
(礼部でかなりの高位で高氏というと──)
玲燕の知識から導き出される人物はひとり。礼部のトップ、礼部向書である高宗平だ。
「大変ありがたいお話ではありますが、私は甘様を尊敬しておりまして是非その下で働きたいと思っております。人事を扱う吏部では人脈こそ最大の宝。どんなに忙しくとも、足を運ぶ手間を厭うべきではありません」
きつい皮肉にひるむことなく、玲燕はにっこりと微笑む。
高宗平はぴくりと眉を動かした。
「甘様、戻りましょう」
玲燕は天佑に声をかける。
「そうだな」
ふたりは一礼し、その場をあとにした。
自分の執務室に戻った天佑は、椅子にどさりと座った。
玲燕はその様子を、静かに見つめる。
「天佑様は高様とあまり仲がよろしくないのですか?」
「仲がよくないというか……、あの嫌みは疲れるだろう。立場的に聞かぬわけにもいかぬ」
「そういうことですか」
玲燕は相槌を打つ。
礼部のトップである高宗平の品位は天佑より上だ。天佑の言うとおり、彼を無碍にするわけにはいかないだろう。
ねちねちとした嫌みは聞いているだけで精神的な体力をそぎ取るものだ。
「先ほど高様か仰っていた〝こちらの意見〟とはなんですか?」
玲燕は尋ねる。先ほど礼部で出会った高宋平は、天佑に向かって『ついにこちらの意見に賛成してくれるということかな?』と言っていた。
「例の鬼火騒ぎを鎮めるために、国家を挙げて大規模な祈祷を行うべきだと主張している」
「ああ、なるほど……」
玲燕は肩を竦める。
鬼火があやかしの仕業であるならば、祈祷で鎮めるほかない。
そして、もしも祈祷をするならば、取り仕切るのは礼部の役目だ。
実際には鬼火はあやかしの仕業ではないが、犯人捜しをするためにそれは公にはされていない。
高宗平はきっと、あの鬼火はあやかしの仕業であると信じているのだろう。
(高様としては、皇帝陛下を心配してそのような進言をしているのかもしれないわね)
けれど天佑からすると、それを認めると『潤王が皇帝として相応しくないと天帝が怒っている』という噂話を天佑も信じていると周囲から捉えかねられない。なので、同意するわけにはいかないのだろう。