◆ 第二章 偽りの錬金術妃(7)
◇ ◇ ◇
その日、後宮の空に見慣れぬ物体が浮いた。
「あら、あれは何かしら?」
回廊を歩く女官達が口々にそう言い、空を見上げる。
「凧? 蓮桂殿からだわ」
赤と黄色の鮮やかな色合いのそれは、優雅に空を舞っていた。
蓮桂殿は後宮の西側に位置する、蓮妃の住む殿舎だ。
その蓮桂殿では、明るい声が響いていた。
「菊妃様、見て! こんなに高く!」
糸を操りながら得意げにしているのは、この殿舎の主である蓮妃その人だ。
「すごいですね。お見事です」
玲燕は蓮妃を褒めるように、手を叩く。
あの日約束したとおり、玲燕は翌日には蓮妃の住む蓮桂殿に凧の手直しに向かった。
過度に付けられた飾りを取り去って軽量化を図り、バランスを取るための尾を付けることで華美さを失わないように調整した。また、軸となる竹棒は最低限の本数にし、糸を結びつける位置は左右の端に対称になるようにした。
一時間ほどかけて手直ししただけで、凧は面白いように飛ぶようになった。その縁で、蓮妃より蓮桂殿に招かれるようになり、今日もご招待いただいたのだ。
「菊妃様はすごいわね。以前、皇城で凧揚げ大会があったのだけど、もし出場したら優勝していたかもしれないわね」
「凧揚げ大会?」
「ええ。どの家門が一番高く、安定して凧を揚げられるか競ったの。郭家が優勝したわ」
「そうなのですか」
玲燕は相槌を打つ。
(そんな催しがあるのね)
凧は遊びでも使われるが、主な使い道は軍事目的だ。高く上げることで遠くからでも目視できるので、遠方にいる部隊とのやりとりに使用される。
なので、凧の優れた技術を持っていることはただ単に『凧を揚げる』という以上に重要な意味を持つ。多くの有力者が錬金術師を囲ってその技術を磨くほどだ。
「蓮妃様が仰る郭氏とは、州刺史の郭様でございますか?」
「ええ、そうよ。ご子息のひとりが内侍省にいるの」
「なるほど」
天佑から貰った資料から得た知識によると、郭氏は刺史と呼ばれる地方行政を監督する役目を負う職にいる有力貴族だ。刺史は地方の警察や軍事にも多大な影響力を持つので、懇意にする錬金術師がいてもおかしくはない。
「ねえ、菊妃様。よかったら、お茶になさらない? 実家からとても美味しい粉食の菓子が届いているの」
蓮妃は凧を操る手を止め、ゆらゆらと下に落ちる凧を拾い上げると玲燕を見つめる。
「はい、ご一緒させていただきます」
玲燕は微笑む。
菓子は好きだし、玲燕は鬼火事件解決のために色々と情報を集める必要がある。お茶をできるのは願ってもいないことだ。
「やったあ! すぐに準備させるわ。雪、お願いできる?」
雪と呼ばれた侍女は「はい。すぐに」と笑顔で頷く。
通された部屋には既に茶器が用意されており、よい香りが漂っていた。程なくして雪が運んできた菓子は、蓮妃が言うとおり流行の粉食だった。小麦を練った生地を焼き上げて作っており、遠い外国から伝わってきたものだという。
「たくさんあるからいっぱい食べてね」
「ありがとうございます」
玲燕は礼を言い、棒状の生地をねじったような形に焼き上げた菓子をひとついただく。柔らかなそれは甘みを帯びていて、少し苦みのある茶とよく合った。
「美味しいです」
天佑の屋敷に居候するようになってから粉食を何度か食べたが、やっぱり美味しい。故郷の東明にいる頃には一度も食べたことがなかったものだ。
「よかった!」
蓮妃は玲燕の反応を見て、嬉しそうに笑う。
「新しく入宮した方が菊妃様でよかった。すれ違っても口も利いてくれない人もいるから」
蓮妃は菓子を頬張りながら、口を尖らせる。
「そうなのですか」
「そう。陛下にそれを言ったら、気にするなって仰っていたわ」
玲燕は苦笑する。
後宮は皇帝の寵を得るための、女の戦いの場所だ。よその妃に敵対心を持っておりそういう態度を取ってしまう妃がいても不思議はないのだが、まだ幼い蓮妃にはそれがわからないのかもしれない。