◆ 第二章 偽りの錬金術妃(3)
算木とは、複雑な計算を行う際に用いる計算道具の一種だ。四角柱の形をした木には一から九までを示す図形が描かれており、これを横一列に置くことで数字を表現する。
錬金術師には必携の道具で、これは玲燕が幼い頃から使っている品だった。
「鈴々はよくこれが算木だって知っていたわね? 一般の人はあまり使わないのに」
「天佑様が執務の際に時々使っていましたので」
「天佑様が? そうなの」
玲燕は聞き返す。
「はい。色々と計算することも多いのですよ」
「ふうん」
玲燕は相槌を打ちながら、算木を見つめる。
天佑が手配してくれて玲燕付きの女官となった鈴々は、元々天佑の元で働いていたそうだ。きっと今まで、天佑の仕事する姿を色々と見てきたのだろう。
玲燕は気を取り直し、ぐちゃくちゃになった算木を数字の順に綺麗に並べてゆく。
「あら? 『二』と『七』がないですね」
鈴々が声を上げる。鈴々が言うとおり、二と七の場所だけが、ぽっかりと空間になっていた。
鈴々は床に落ちていないかと、周囲を見回す。
「どこへ行ってしまったのでしょう」
「大丈夫。どこに落ちたかは予想が付くから、あとで探しに行くわ」
玲燕はおろおろする鈴々を安心させるようににこりと笑うと、算木の入れられた木箱に蓋をする。
算木は複雑な計算をするための道具であり、錬金術師の大事な商売道具。ただの木なので特段高価なものではないが、長年使ってきたものなので愛着はある。
「初っぱなから、やってくれるじゃない」
放っておけばいいなんて思ったことを、撤回する。
あの女官達、許すまじ。
「そうそう、玲燕様。早速、天佑様からの連絡です。後程会いに行くと」
「え? わかったわ」
玲燕は頷く。
玲燕がここに来たのは、皇帝の妃になるためではない。あやかし事件の真相を解明するためだ。
そのための算段を相談する必要があった。
(でも、会いに行くって、どうやって?)
後宮は皇帝の妻子が住む場所。
光麗国の後宮の出入りはそこまで厳格ではなく、女官であれば出入り可能だ。
しかし、男性となると話は別だ。
皇帝以外の男性は、皇帝の護衛をする武官、宦官や医官など、ごく限られた人間しか立ち入ることができない。いくら天佑が皇帝の側近であろうと、自由な出入りなどできないはずだ。
「どうやって来るつもりか知らないけど……何時頃かしら?」
「恐らく、夕刻ではないかと」
「じゃあ、まだ時間はあるわね」
玲燕は外を見る。太陽が沈むにはあと数時間ありそうに見えた。
「さっき落とした算木、探しに行くわ」
玲燕はすっくと立ち上がる。
「お供します」
鈴々も慌てて立ち上がる。
玲燕は鈴々を連れて、先ほど女官に絡まれた場所へと向かった。
「えーっと、この辺のはずだけど……」
玲燕は周囲を見回す。
先程まで立ち話をしていた女官達の姿は既になく、辺りには人気がなかった。
「落としたのはこの辺りで間違いありませんか?」
鈴々も周囲を見回し、玲燕に尋ねる。
「ええ。でも、ないわね」
廊下の床面を見る限り、算木の木片はなさそうに見えた。
「ここはあまり具合がよくありません。早く探して戻りましょう」
「具合がよくない?」
どういう意味だろうかと、玲燕は首を傾げる。鈴々は真剣な顔で床を眺めていた。
(廊下にはなさそうね。ということは……)
玲燕は渡り廊下の手摺りから、下の地面を見る。廊下にないなら、地面に落ちた可能性が高いと思ったのだ。
「よく見えないわね。よいしょっと」
玲燕はひょいっと手摺りを飛び越え、地面に降りる。
「玲燕様!?」
玲燕が地面に降り立ったことに気付いた鈴々がぎょっとして声を上げる。
「探したらすぐ上がるわ」
玲燕はなんでもないことのようにそう言うと、周囲を見回す。すぐに黄土色の木片が落ちているのを見つけた。