◆ 第二章 偽りの錬金術妃(2)
少女はそれに躓き、勢いよく前に倒れる。
ガッシャーンと大きな音が廊下に響く。少女の持っていた小箱が落ち、箱の中身が周囲に散らばった。
「痛ったー」
うつ伏せに転んだ少女は上半身を起こし、床に打ち付けた肘をさする。
「あらあ。大丈夫? 突然転んで、どうされたのかしら?」
足を引っかけた女官はくすくすと笑う。そして、床に落ちたものを拾い上げた。
「どれどれ……あら。何かしら、これ?」
てっきり宝石などの宝飾品か衣が入っていると思っていたのに、散らばったのはただの木片だった。四角柱の形状をしており、それぞれに異なる模様が入れられたものがいくつもある。
「ああっ。大切な算木が!」
少女は顔を上げ、周囲に散らばった木片を見て青ざめた。
「……算木?」
女官達は目を瞬かせる。
必死に木片を集めている少女の姿を見て少し気の毒になり、いくつかを拾って少女に手渡す。
「ありがとうございます。助かりました」
少女はぺこりと頭を下げた。
「いいわ。それより、これは何?」
「これは見ての通り算木でございます。とても大切な品物でございます」
少女は得意げな顔をしてそれを見せる。
「算木……」
女官達はぽかんとした顔でその木片を見つめる。もしかして、これは特別な算木なのだろうか。
「何に使うの?」
「何って、もちろん算術です」
「高いの?」
「いえいえ。銅貨二枚あれば買えます」
「あ、そう」
銅貨二枚。つまり、庶民でも買えるような品であり、至って普通の算木だ。
なんと返せばいいかわからず、女官は「大切な宝物なのだから、気をつけなさいよ」と無難な言葉をかける。
「はい、ありがとうございます。では、私は急いでおりますので。ごきげんよう」
少女は朗らかに笑い、片手を振る。
その後ろ姿をふたりは無言で見送り、顔を見合わせると頷き合った。
「間違いなく、変人だわ」
「ええ、そうね」
銅貨二枚で買える算木が宝物の妃など、聞いたことがない。
◇ ◇ ◇
玲燕は算木の入った木箱を大切に胸に抱え、自分の殿舎である菊花殿へと戻った。
「ただいま!」
「お帰りなさいませ、玲燕様」
慌てたように立ち上がり出迎えてくれたのは、天佑が手配した玲燕付きの女官──鈴々だ。くりっとした大きな瞳が可愛らしい美少女で、少し高めの鼻梁と切れ長の瞳は周囲に知的な印象を与えている。
「随分とお時間がかかりましたね。女官のふりをして出かけるなど、本当に心配しました」
「ごめん、ごめん」
玲燕は笑って誤魔化す。
玲燕は先ほどの女官を思い出す。
(新人に手荒い洗礼をしてやった、ってところかしら?)
十中八九、玲燕が新入りの妃付きの女官だと判断して、わざとやってきたのだろう。
(鈴々に行かせなくてよかった)
玲燕は、ふうっと息を吐く。
人の悪意には慣れている。父が斬首されたあとしばらくは、世間もその噂で持ちきりだった。天嶮学士は稀代の大嘘つきだと。
故郷に戻った玲燕は周囲に後ろ指を指され、とても辛くて悲しかったのを覚えている。
それに比べれば、先ほどの女官がした嫌がらせなど痛くも痒くもない。
(どうせすぐにここを去る身だし、放っておけばいいわ)
玲燕は大切に胸に抱えていた木箱を机に置くと、蓋を開けた。
先ほど急いでかき集めたせいで、中の木片は乱雑に散らばっていた。
鈴々はひょいと首を伸ばし、中を覗く。
「どうしても自分で運ぶと仰るから何かと思えば。これは、算木でございますか」
「ええ、そうなの」
玲燕は木箱から四角柱の木をひとつ手に取る。四角柱の側面には、数字の「一」を意味する横棒が一本書いてあった。