1.お金を儲けよう 1.2.投資は悪いことではない
お金を持っていても投資を始められないという人は多いと思います。
「なんだかよくわからない」
「ギャンブルはよくない」
「投資は悪いこと」
このような心配を思い浮かべるということは投資について正しい知識がないと言わざるを得ません。
投資とは「生活水準を向上させること」ですが、そこが誤解されているようです。
たとえば「洗濯機を買うこと」も生活水準が上がりますから投資であると言えます。
将来の家事に要する時間を短縮したり洗濯の品質を向上させる目的で購入する洗濯機に対して、「わからん」「ギャンブルだ」「悪い」と言って、ひたすらにお風呂場で延々と手洗いをする現代人がいるでしょうか?
よほどの経済的な理由がない限りは購入しない人などいませんし、いたとしても「いずれほしい」と思っていることでしょう。
それは洗濯機が十分に歴史のあるものであり、生まれたころから洗濯機がある人がほとんどで、正しい知識が浸透しているためと言えます。
残念ながらあまりに浸透しすぎていて、これを「投資」と考えることが無いようです。
逆のたとえを言えば「パソコン」を「わからん」「ギャンブルだ」「悪い」という人は、いまだに多いようです。
それはパソコンが普及してから20年ほどしか経っておらず、生まれたころからパソコンがある人は半数もいません。ゆえに正しい知識が浸透していないためと言えます。
残念ながらあまり浸透していないことから、これをギャンブルのようだから未来の自分への「投資」と考えることが多いようです。
ですが、投資というシステムは始まってから400年もの歴史があります。
システムではなく「良くなりたい」という投資の概念自体は、人類がアフリカの森を脱出した500万年前から常に存在するものです。
これだけの時間が経っているのにどうして知識が浸透しないまま誤解が広がっているのでしょうか?
その理由は日本独特の歴史にあるようです。
日本人は歴史的に天皇を中心に政治を行う文化があったため、投資は政治が行い、平民は仕えるだけで投資の恩恵を受けていました。
貴族政権が日本を治めていた600年間、
軍事政権が日本を治めていた700年間、
帝国主義が日本を治めていた80年間、
常に天皇が中心にあり、政治の主眼は如何に国と国民が豊かになるかに置かれ、ゆえに投資こそが政治の中心にありました。
今は違います。
今は民主主義と資本主義の時代であり、民主が資本で投資を行うことが正しいとされ、政治が税金で投資を行うことは法律などによって厳しく制限されています。政治が税金で投資をするや否や税金の無駄遣いだの政治資金規正法違反だのと税金を使って批判されて税金を使って組織が解体される、非常に合理的ではない社会になっています。
終戦によって帝国主義が解体された後もしばらくは、投資は「政治や上位団体などのお上が行う」という文化が残って正しく機能していたようですが、それも1990年には終わったようです。民主主義としては正しい変化なのですが、しかし一般的には「投資はお上がやるべきもの」という期待だけが今だに残っていますので、ギャップにより不都合が起きてしまっています。
最大のギャップは、投資とギャンブルが同一視されている誤解です。
投資は先述したとおり「生活水準を向上させること」ですが、ギャンブルは「夢を実現すること」です。
どちらも成功する場合と失敗する場合があり、ゆえに同一視されているようです。
しかし両者は明確な違いがあります。
「だれがやるか」が違います。
投資は「物や人」に、ギャンブルは「運」に仕事を任せます。
洗濯機で例えれば投資は「お金を出して洗濯機を購入して洗濯という結果を洗濯機に任せる」と言えます。
対してギャンブルは「高い洗濯機は購入せずに安いお金を出して洗濯という結果だけを得られるかもしれないチャンスを買う」と言えます。
投資とは「労働と等価なお金を出して物や人に労働を任せ、その成果を得る」ことであり、
ギャンブルとは「労働より安いお金を出して労働を運に任せ、たまに大きな成果を得る」ことです。
どいう言うわけか分かりませんが、日本人は古来よりギャンブルが大好物で、なんでもかんでもギャンブルに例えようとする癖があるようです。ゆえに貴族政権時代から法律などによってギャンブルが厳しく規制され、表面的には「ギャンブルは悪いものだ」という教育をされているのです。
確かに「運任せ」のギャンブルに生活を委ねることは危険なので、「ギャンブルは悪い」という教え方自体に問題はないと思います。
しかし、ちょっと似ているという無茶な理由をつけて「投資は悪い」という考え方は問題があります。
決して「投資は良いこと」ではありません。
正しく表現すれば「投資は必要である」ということです。