第3話⑤ 『舞姫』
「高校の頃に現国の授業で習った時は、昔の文語の意味を追うだけで精いっぱいだったんですけど……」
俺の隣に座る結月さんは、懐かしそうに優しくページをめくる。俺と彼女の間にあるかの名作が、ぺらりと乾いた音を立てた。
彼女の意見に、俺も昔の記憶を引っ張り出し、同意する。いや、ホントに昔だな。10年前って……。あれおかしい。
「ああ、そういえばそうだったかも。内容の解説は当然授業であったけど、話そのものに感想を持つ余裕なんてなかった覚えがあるよ」
「ですよね。だから改めて口語訳を読んでみたんですけど……」
「そうそう。ネットで簡単に見れるし、俺も調べたよ。わりと現代人でも共感できる話がたくさん綴られていてびっくりしたな。特に俺みたいな性格だとさ」
例えば、主人公の太田豊太郎はぼっちだったとか。真面目だけどビビりで、同級生のようにはっちゃけって遊べず、馴染めなくて輪に入れなかったとか。エリート面してるけど他人には心の内をさらけ出せないとか。
……どこの誰かさんかよって感じ。
「ふーん……光輝さん、この主人公に共感できちゃうんですか」
「え? なにその反応? 俺なんかおかしいこと言った?」
だからこそ不朽の名作なんじゃない?
しかし、結月さんはむうっと頬を膨らませる。
「私、口語訳読んだときは普通に主人公を許せないと思いました。出世のために平気で恋人を捨てるなんて。ましてお腹に赤ちゃんがいたのに。心まで壊して」
「い、いや俺が共感したのはそこじゃないって。そんなの俺にわかるわけないでしょ。モテない独身男だよ?」
出世も彼女も縁遠いというのに。それ以前に経験な……ゴホンゴホン。
ましてや、人生をかけてどちらかを選ばなくてはいけないシチュエーションなど俺に訪れることは永久にない。どちらも手に入らない可能性が一番高い。
「それはそうかもですけど……。あ、いえ、光輝さんがモテないとかそういうことではなく!」
結月さんは申し訳なさそうに手を振る。……無理に取り繕わなくてもいいんだけどなあ。事実なんだし。
「だいたい、これはフィクションでしょ」
俺がさっくりそうまとめると、結月さんはわずかに眉を寄せた。
「……ヒロインのエリスにはモデルがいたって話ですけど」
「その話よく聞くけど本当なの?」
「最近の研究で存在したとの事実が確定したらしいですよ。エリーゼさんという人だそうです。しかも鴎外を追いかけて日本までやってきたとか」
「え? マジ?」
俺は文学には明るくないのでまったく知らなかった。俺が好きなのは一般小説かラノベだし。根本的には高尚な文章など性に合わない。だから真剣に研究したこともなかった。
「当時の交通文明と時代背景、ヨーロッパと日本の力関係などを考えれば、よっぽど鴎外のことを愛していたと考えるのが自然ですよね」
「ま、まあ今ほど気軽に海外に行ける時代じゃないしね。っていうか、今でも海外に逃げた異性を追いかける人なんてそうそういないだろうし」
かなりハイレベルのストーカーだ。
「……それなのに、鴎外はその女性を追い返したそうです。本当にひどいですよね」
またしても彼女の声のトーンが落ちる。なんだか怖い。
そのせいか、俺は言い訳というべきか、話を逸らす言葉が口をついた。
「……そんな話を聞いちゃうと、ますます俺みたいなのとは違うね」
「え?」
……まあ、内容自体に嘘なんかはなく、ものすごい本音ではあるけど。
そもそも森鴎外は医学者で、当時の『作家=貧乏、変わり者、短命』のステレオタイプなイメージとは違って、超勝ち組のスーパーエリートだ。
……陰キャな俺にも刺さったんだけどなあ。
「俺、そもそもそんなに他人に執着されたことないし、逆に自分がしたこともないよ。そりゃ他人を好きになったことがゼロってわけでもないけど……わりとすぐに切り替えられるし」
共感してくれる人も結構いると思うが、陰キャや非リアやぼっちは、そもそも他人と仲良くなれないので、相手の人となりも長所も知る機会も少ないし、当たり障りのないコミュニケーションしかしないから、こちら側からの情も移りにくい。そのうえ、接する回数も限られているからいい思い出もすぐに薄れる。
要は、人間関係について『熱しにくく、冷めやすい』のだ。根本的に淡泊なのである。
こんな話をしていたせいか、あの夜の日菜さんと同じように、俺は結月さんにも自分の痛い本性が少しだけ露になってしまう。
しかし。
「本当なんですか? その……どちらも」
「え?」
彼女は真剣な……そしてどこか辛そうな眼差しで俺を見ていた。
「本当かって……」
それにどちらも、って……。
「あ……ご、ごめんなさい。何でもないです。……わ、忘れてください」
「へ……う、うん」
結月さんはそれだけ言うと、慌てた様子で再び本に目を落とした。
×××
「……神楽坂さんのこと、引きずってるようにしか見えないです……。何年も会ってなかったんですよね? 全然忘れてないじゃないですか……。それに彼女も……」




