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第2話⑦ 『③の人』

「あ、当たり前だろ!? 何すんだおまえっ!?」


 神楽坂に掴まれた自分の手を、俺は振り払うように引く。

 なのに、ほんの一瞬、1秒にも満たない時間のはずだったのに、その柔らかくて透き通るような肌の感覚が、俺の脳にはんだごてのように焼き付いてしまっていた。


 心臓がやたら音を立てている。……中学生か、俺は。

 ……いや、中学生以下の経験値しかないんだけどさ。


 そんな俺の心中は露知らず(のはずだ)、神楽坂はむすっした表情を見せる。


「そんなに嫌がらなくてもいいじゃない。苗字が一字違いのよしみでしょ」


 桜坂と神楽坂。さくらざかとかぐらざか。苗字なんて普段は漢字でしか目にしないから坂の字が同じなだけでピンとこなかったが、確かに読みは一字しか違わない。

 ゼミで初めてこいつに会った時、この話題になった。


『名前、似てるわね。私たち』


 神楽坂とぽつりぽつりと会話するようになったきっかけでもあった。

 だが今は。


「そ、それが何の関係があるんだよ」

「そんなムキにならなくても……。ただの言葉の綾というか、会話の流れじゃない。なに、それとも照れてるの?」

「て、照れてなんかない!」


 ついついムキになってしまう。


「だ、だいたい、おまえのほうこそどうなんだよ?」

「私?」

「あ、ああ」


 俺は一つ呼吸を入れ、ワンテンポ間隔を空ける。

 ……しかし、その問いは彼女の目を見て言うことはできなかった。

 まあ、元から女と目を合わせるのは大の苦手教科なわけだが。


「その……もう結婚してるとか、あるいは近いうちに予定があるのか……とか」


 言い方まで気持ち悪くなってしまった。

 そんな俺に引いたのか、はたまた痛いところを突かれたのか、神楽坂は困った笑顔を浮かべた。


「残念ながら、私もいまだに未婚で、特に予定はないわね。向こう(アメリカ)でも忙しくてそんな余裕なかったし。というか、さすがに相手がいたら、さっきみたいな無邪気な真似しないわよ」

「え」


 俺は二重の意味でぽかーんとしてしまった。ただ、もう一つについてはその意味を深く考えることはやめておいた。ドツボに嵌りそうだったから。

 聞いたのは、一つ目の、まず最初に浮かんだ疑問のほうだ。


「大学の時の彼氏はどうしたんだ? その……うまく、いかなかったのか?」


 それでも、腹を括らなければ口にできない疑問だったけど。

 だが、


「は? 何の話?」


 そんな俺のなけなしの勇気はただの空回りに終わった。


「何の話って……おまえ、長く付き合ってる男がいたんだろ? ……あの頃に」

「何それ。ますますわからないわよ。その頃、私恋人なんていなかったけど」

「……え」


 俺はまたしてもアホのように口を開けてしまう。


「あの頃、私は光輝と課題もレポートも論文もたくさんやったし、それなりに話もしたし、結構長い時間一緒に過ごしたじゃない。でも私、一度だってそんなこと言った?」


 …………。

 そりゃ、言われたことはないけど、さ。


「……ゼミの奴らみんながそう言ってたぞ。『神楽坂愛海にはイケメンで年上で結婚を約束してる彼氏がいる』って」


 確かに、デートがあるから、とかって理由で俺との約束を反故にされた記憶もないけど、さ。

 でも、でも……ずっとそう思っていたから、俺は……。


「それ、根も葉もない噂よ。……ああ、そうだ、思い出してきたわ。あの頃、私、ゼミの男子に告白されたのよ。それを断ってからね、その噂が流れ出したの。ちょっとした嫌がらせだったんでしょ。出所がその男子か、彼のことが好きだった子かまでは今となってはわからないけど」


「な……」


 何だよ、それ……。じゃあ俺は、今まで……。


 俺がもやもやと湧き上がる湿度の高い感情を処理しきれず放心していると、神楽坂もまた、むーっと温度の高い視線を向けてきた。


「光輝」

「な、なんだよ」

「私、今ちょっと怒ってるんだけど」

「な、何で」

「そんな噂を真に受けていたこと。……いいえ、違うわね。その噂の相手とそれなりの関係を築いていて、すぐにでも聞ける距離にいたのに、それを確かめもせずに自己完結していたこと、かしら」


 ……そういうこと、言うなよ。また揺れちまうじゃないか。


「……他人のプライベートなことを尋ねるの、苦手なんだよ。知ってるだろ?」

「……ヘタレ」


 神楽坂はその的確な三文字で俺を断ずると、ふいっと顔を逸らしてしまった。



 ×××



 ~Another View~


「……さっきまで仲良さそうにしてたと思ったら、今度は微妙に険悪っぽいムード……。こりゃ単なる同級生とか友達じゃなさそうだね」


 光輝と愛海の会話の一部始終を、ずっと隠れながら見ていた日菜が言った。


「で、でも光輝さん、その……彼女とかいたことないって……」


 心なしか顔を青ざめさせ、結月はおろおろとする。


「別にそれは嘘じゃないと思うよ。光輝くんだし。元カノってほどには見えないし。でも……」


 “好きだった人”ではあるかもしれないよ―――――


 日菜はその言葉は飲み込んだ。これ以上姉を動揺させるのは忍びない。

 しかし、日菜はどうしても、あの夜光輝が吐露した心当たりに行き着いてしまう。


『では、以下問題文。①中学時代、委員会で一緒になった図書委員の子 ②高校時代、バイト先の小さなカフェで働いていた子、③大学時代、ゼミで同じテーマで共同研究をした子。全員、陰キャの俺が好きになっちゃった数少ない子たちです』


『もちろん、その子たちも本命は別にいたし、俺のことなんて何とも思ってなかったよ?』


(どう考えても、『③の人』だよね……)


「……なによ。ただの片想いで、イタいだけの思い出じゃなかったの? ……バカ」


 日菜の、自分でも気づかないほどの気持ちのこもった恨み節は、春の風にかき消されていく。


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