大海の小瓶
■大海の小瓶
巫女達はそれぞれ自分の部屋、アリスは固定された「空の穴」を使いアメリカに戻った。
雫は自室に戻ると正座する。そして、虚空に「六」と扇の先から気脈で文字を書いた。
すると、六が雫の部屋に現れた。
「お呼びにより、まかり越しまして御座います」
古めかしい言い方をして、ワープで現れた六が雫に言った。
「いくつか六と話をして、此度の事を考えたいと思い、呼んだ」
「はい」
「その前に」
そう言うと雫は、心持ち目を細めると、六を視た。
「やはり」
「はい。仄はあの外殻に移りました。私の中には居りません」
「何か、障りはないか」
「いえ」
そう言うと六は己の胸の辺りに手を当てた。
「もともと仄はあまり表に出ませんし、ほとんど休止しているように思われましたので、変化はありません」
「なるほど。あの外殻、仄のみでも、仄に障りは無いか」
「混戦した時の部屋の女性を移す計画でしたので、予め気脈の経路を仄が作っておりました。私が独立して機能するように調整してあります。もっとも深刻なエラーが発生すれば、私に通知が来るよう手はずは整えております」
コンピューター用語と古い日本語が微妙に混ざった表現で、六は状況を報告した。
雫は頷く。
「単刀直入に聞く。六はあの『本』を作ったものは、何者と思う?」
「『本』の表紙は、おそらく相当古いもの。その当時の誰かが作ったもの。おそらく、表紙だけ作るというのは考えづらいので、中身もあった。しかし、中身は無くなり、別の時代に新しい中身が差し込まれた。それを、『本』を発見した部屋の持ち主が見つけ、『本』を所有した」
雫は黙って六の話を聞いている。
「しかし、雫さんが知りたいのは、『本』を作ろうとさせたものの事で御座いましょう?」
「然り」
六は、左手の人差し指を曲げ、己の顎に添えた。
「おそらく、あの『本』、先に霊脈の本の形状があり、それがトリガーとなって本を作ったものが、『本』にした、と考えます」
六は、顎に添えた手を下ろした。
「もし、『本』を書いたものが霊脈を圧縮したとすれば、相当の巫術師、と言う事となりましょうが、雫さんやアリスさんをして未知の技術と言わしめるとなると、それは人には叶わぬ技。となれば、先に本の形の霊脈があり、それに触れたものが触発されて『本』として形作られた、と」
「となれば、『本』の霊脈はどこから、また、その霊脈を作ったのは誰か、と言うのが私の問いとなろう」
六は、少し目を細め、僅かの間沈黙した。そしてゆっくりと目蓋を元の位置に戻した。
「残念ながら、その問いの回答、私には演繹できません。ただ、仄を超える巫術の使い手、とだけは分かります」
ここまで言った時、六は左の眉を僅かに上げた。
「もしかすると、霊脈自体かも知れません。それと、私達が生まれる前の知性体が考えていた、発想は別の世界からの通信という考えの、その世界の存在かも」
「ミームの発現場所、という事か」
「左様に」
「六は自分たちをミーム、と称した。また、六の仲間は霊脈を基底とする存在となった。ある意味、その世界の存在に近いのではないか?」
「かも、知れません。しかし、私達では無いと考えます」
雫は首肯した。
「時間の経過を考えると、六の仲間、というのは違うとなるが、六は時空移動で既に時の女神と同等の力を有している。時の流れの順番は証拠とならぬ。しかし、事の遣りようが」
「左様に。私達でしたらもっと明確な目的と計画を持って行うと思います」
「私もそう感じる。まるで大海に願いを書いた紙を入れた小瓶を流すような」
雫はそこで暫し沈黙する。
「『道理では叶わぬ切なる願いを書け』この言葉自体がまるで願いのように思うのだ」
「私もそう思います」
「高度な技術と力を持つ存在。しかしその存在が願い事をする」
雫は両手をそれぞれ反対の袖に通した。
「奇妙な事だ」
六は首肯する。
「それと仮定ですが、この『本』。一冊のみではないのかも知れません」
雫の六を見る目に力が篭った。
「大海に放つ願いを書いた小瓶なら、多数の方が」
「願いが成就する可能性が上がる、と」
雫の両眼が大きく見開かれた。雫は背筋に悪寒にも似た痺れが走るのを感じた。
「六。もしかすると、その何者かが放った『本』。それがいくつもの時の線で時を経る内、たまたま、あの病院に集まり」
雫を見る六の目にも力が篭っているように感じられた。唇が薄く引かれている。
「時の線の混線を引き起こした。なるほど。大海の潮の流れで、潮のたまりに瓶が集まった。しかも、異なる時の線の同じ場所に。そこに類似した願いが書かれ」
雫は首肯する。
「混戦が生じた。そこに巫術を学んだ香、そして時の女神を内包する光が現れる」
ここまで言った後、雫は押し黙る。少し眉が寄っている。
「本来消えていたはずの二十三人の灯たちに囁いたのは」
雫の脳裏の奥に過去の出来事が、まるで星が頭に降り注いだように思い出された。
「灯が、純の母親と私の遺伝子が同じ事を調べようと、過去に飛んだ時、その時」
雫は両手を袖から出すと、片手を六に向けた。
六はその手を取った。
雫から六へ、気脈を伝って青白い光が流れていく。流れが終わると、六は首肯した。
「なるほど。時の流れが空間的な波のようなものと考えれば、それはあると考えます」
雫は六から手を離し、膝に置いた。
「仄と話す必要がある。そして、その準備が整った、という事だな」
「まさしく」
「六、礼をいう」
六は首肯すると、消えた。
雫は立ち上がると、障子を明け、廊下に出た。
月明かりで雫の部屋の前の庭は静謐な空気を纏っていた。
雫は障子を締めると、舞舞台へ向かった。
■舞舞台にて
雫が舞舞台に着く。
「お待ちしておりました」
下手奥から、雫に声が届いた。仄だった。
雫は仄の前に進んだ。
「雫さんがお話しになりたいと思われると、此方でお待ちしておりました」
雫は正座する。
「私からもお話したい事が御座います」
「どちらが先が良いか?」
「まずは、雫さんのお話を伺いたいと」
「承知した」
雫は仄の目を見つめた。しかし、厳しいものではなく、穏やかなものだった。
「色を付けたのだね」
「はい」
「その方が仄らしい」
仄が宿る六と同じ外殻は、元は白い色。しかし今は、他の巫女と同じように色彩を帯びている。
「私も、この方が馴染みます」
雫は静かに頷いた。
「さて、私の話だが」
雫はすっと背筋を伸ばした。
「私と純の母君の遺伝子が同じと判明し、それを灯が調べに過去に飛んだ、あの時。何があったのか、と」
「その雫さんの問いは、なぜ私が消えなかったのか、という問いと同じ」
雫は頷く。
「あのもう一人の光は、本来消える筈だった二十三人の灯が消えずに留まった、と告げた。私はその話を聞くまで、特に疑問を持たなかった。しかし、聞いた今となっては、事の次第が知りたい」
「地球を救った後、私達はこの時の線から消え、時の間を気脈として漂っておりました。そのまま消える事も構わぬ、と思っておりました」
仄は遠い昔を思い出すような表情を浮かべた。
六歳に成長した灯が時の狭間に現れるのを、二十三人の灯達は目撃する。そして、その灯は光と再開した記憶を持っていた。その記憶が、同じ灯としての二十三人の灯の意識に入り込む。輝く記憶の結晶が、灯から二十三人の灯達の意識の中で、再結晶するように。
仄はその時の事を思い出していた。
「時の間に灯が現れ、光と再会した事を知りました」
仄は少し俯き、その唇をひき結んだ。深く心をかき乱された事を思い出しているように。
仄は顔を上げた。
「私は、光と一緒に居たいと、切に思いました」
ぼんやりとした二十三人の灯達の気脈を一つの光りの流れが照らし抜いた。
「時の間に、通常と異なる時の線が現れました。それはまるで、時の間の龍脈のようでした。それは私に触れました」
雫は静かに仄の話を聞いている。
「触れた途端、私は灯の中に居たのです。そして知りました。いずれ灯と光が共になるという事を。その事を通じて、間接的にではありますが、私も光と共にある、という未来を知ったのです」
雫は、深く息を吐いた。
「なるほど。だからあの時、光の中に灯が宿り、いずれ一つになると、強く言った訳、か」
雫は思い出していた。二十三人の灯が宿った灯に、雫が純の同意は得ているのか、と問うと、神の事、人の同意は要らぬ、と灯が言った時のことを。
「はい」
仄は肯定した。しかし、その言葉には少し力が無く、少し項垂れているようにも感じられた。
「責めているのではない。事実を確認しただけだ」
雫の言葉の裏側にある暖かさに触れ、仄は心の芯が温まる気がした。
「その、時の間の龍脈、それが、もう一人の光が言う、其方に囁いたもの、と言う事か」
「そうだと思います。そして、もう一人の光の中にある、と言いますか、やはり影響を与えたものも、その時の間の龍脈。そしてそれは」
仄は扇を取り出すと、目の高さに持ち上げた。
「時の線の中では、このように視えます」
扇の先端に、あの虹色の気脈が現れた。大きさはごく小さく、掌程のものだったが、雫は目を見開いてそれを見た。
「もう一人の光と一つになった事で、時の中の龍脈と私の一部が繋がったようです。それでこのように」
雫は見開いた目を、細めた。
「なるほど。この時の線に、一部を招き入れる事ができるようになった、と」
「はい」
仄の扇の前から、虹色の気脈が消えた。仄は扇を持つ手を下げた。
雫は、唇を薄くした。まるで何かの考えを飲み込むように。
「聞きたい事が新たに出てきたが、それより先に、仄。其方の話を聞く方が良い気がする」
仄は首肯した。その目には何かの決意にも似た力が篭っていた。
「もう一人の光と共になり、もう一人の光の記憶も得ました。その記憶の話です」
■もう一人の光の記憶
月も南中を遥かに過ぎ、玄雨神社舞舞台の気温も低い。だが、寒く感じるのは気温のせいだけでは無い、と雫は感じていた。
「光が混線した時の部屋に入った時の話。また、もう一人の光が話した混線した部屋での事、それを併せて、さらに、その先の、もう一人の光の話です」
仄は、扇を持ち上げると、その先から気脈を伸ばし、雫の額に結んだ。
「言葉だけでは不足すると思いますので、もう一人の光の記憶を追体験した方が良いかと」
雫は頷くと、目を閉じた。雫は別の場所に居た。その場所はあの混線した時の部屋だった。
そして、雫は自分が二つに分裂したように感じた。
一人は、ベッドに。もう一人はベッドの前に。自分が自分を見つめている、そういう状況だった。
ベッドの自分は、もう一人の自分、しかしその姿は小学校四年生の光の姿だった。その光が驚いてベッドから逃げ去る様子を、ベッドの上の自分が見つめている。
逃げ去る光の方は、逃げる途中で意識が濁る。視界がぼんやりとしてあやふやだった。
そうか。灯が出てきたのだな、と雫は思った。
そして、背中あたりに衝撃を感じると、逃げる自分の姿を後ろから見ており、さらにその姿が動画の逆再生のようにベッドに向かって戻っていくように見えた。
これが、もう一人の光が言っていた、時間が逆回転しながら、引き戻された、と言う事か。そう雫は思った。
そして、もう一人の自分、ベッドの上の自分と、時間を逆回転しながらベッドに近づいていく自分の意識が重なり合った時、部屋は漆黒に包まれた。
雫が辺りを見回すと、あの渦巻く虹色の気脈があった。
雫は周り全体に、ノイズが走ったように周囲が歪むのを感じた。
そして、自分の周りに他の何か、いや、人の気配を感じた。何人か、複数の人の気配を感じるのだが、その場所は定かでは無く、あちこちに点在するようでもあり、一箇所にまとまっているようにも思えた。
周りの一部が急に明るくなった。
そこには、光の姿が映っていた。
口が動いている。何か語りかけているように見えた。
その光景が小さくなり、また暗闇に戻った。
そして、また、別の光景が現れた。
雫はその光景の中に、自分達の姿を見た。そう、玄雨神社境内で、光達を送り出したあの時の雫達の姿だった。
その光景も小さくなり、また、周囲は暗闇に包まれた。
そして、周囲の一部が明るくなり、再び、光の姿が現れた。周りが徐々に明るくなっていくのを感じた。周囲が真っ白になった後、雫は自分が玄雨神社境内に立っている、いや、宙にわずか浮いているのに気づいた。目の前に、扇を構えた自分の姿があった。
「この後は、ご存知の通り」
仄の声で、雫は目を開けた。
「お見せしましたのは、多少編集した記憶です。実際には、漆黒に覆われた後、初めの光、次の光、初めの玄雨神社、この3つは同時に起こったように、もう一人の光は記憶していました」
「なるほど。混線した時の部屋では、同じ時間で停止していた、とでも言うべき状態だった訳か」
「雫さんのご推察の通りです」
「すると。見せていない記憶があるな」
雫は少し目に力を込めたように見えた。
「あの、もう一人の光が初めて暗闇にのまれた後、周囲がまるでノイズが走ったように歪んだ。あれは、何かあったのを見せないようにした結果では無いか?」
「おっしゃる通りです。そこがお話ししたい、最も重要な点。そこは、情報が多重に重なっており、体験として上手く伝達できる自信がありませんでした」
一呼吸開けて、仄は言葉を続けた。
「そこで、見たものを私なりに整理した物語として、お話ししようと思った次第で御座います」
こうして仄は語り始めた。語り始めると同時に、雫の周囲は玄雨神社舞舞台から、時の間のようになった。
時の間に移動したのでは無いな、仄がそう視せているのだと、雫は思った。
「ここでは、私は語り部。そして周囲に視えますのは、物語の舞台。こういう趣向にございます。ある意味、私は『世界の読み手』としてお話しする事となりましょう」
雫は、以前仄と話し合った時に出た、「世界の読み手」という言葉が仄から語られるのに、意識が集中するのを感じた。
「以前お話しした時には、あの『本』を書いたものを『世界の読み手』と称しておりましたが、ここでは、別の世界、別の時の線、あるいは、遥かに遠い時の線の出来事を、突然、記憶として持ってしまう者の事を称しております」
「六の世界の知性体が、アイディアは別の世界から来る、という話と通じる、と」
「はい雫さん。おそらく福音書記者や神話を書いたもの達も、『世界の読み手』だったのだろうと」
本来知り得ない情報、体験、記憶を持つ者。それが『世界の読み手』だと、仄は言っているのだった。
「この異なる世界の記憶は、大なり小なり人の中に混ざります」
「それは、夢。だな?」
「まさしく。人の見る夢は、他の世界の記憶が混ざります」
「なるほど。すると、『世界の読み手』は、その読み取る力が」
「はい。常人を超えて強いのです」
雫は、少し左の眉をあげた。
「大きな力は、それを呼ぶ」
仄は頷いた。
仄の背後から雫の右側を、あの時の間の龍脈が流れている。
「この、時の龍脈からの」
「ミーム」
「ええ。あるいは、大海に投じた瓶に詰められた手紙を」
「香の父親、母親は『世界の読み手』だったのか?」
「そうではありませんでしたが、読む力は強かったようです」
「なるほど。読む力と『世界の読み手』の違いが判った」
仄は小さく頷く。雫は言う。
「異なる世界、知識を読み取り、それを記す、あるいは伝えるもの、それが『世界の読み手』。読むだけでは」
「『世界の読み手』とはなりません」
「だから、語り部、と」
「左様に」
「だが、力が強ければ」
「呼び寄せます。時の龍脈からの贈り物を」
それがあの「本」。
仄は雫の顔に、得心の色が広がるのを見た。
「そうか。だから『ソロモンの鍵』だった訳だ」
仄が怪訝な顔をした。
「『ソロモンの鍵』の別名は『知恵の鍵』」
仄の顔にも得心の色が広がった。
「ああ。別の世界の知恵への鍵、という」
「そういう隠れた洒落のようなものが折り込まれていたのだろうよ」
雫は少し微笑む。
仄も微笑む。そして、その微笑みが消える。
「では、『道理では叶わぬ切なる願いを書け』、こちらの意味、意図について、私が光の記憶の中から読み解いた事をお話しいたします」
雫は居住まいを正した。
「先ほど申しました通り、もう一人の光、今では私と共にある光の記憶。虹色の気脈に絡め取られた後の断片的な記憶を、私が物語として再構築したもの。それをお話し致します」
仄と雫の周囲が、宇宙空間のようになった。
星々が輝き、さらに銀河が煌めいている。
それが収縮するように小さくなっていくと、一つの玉になった。輝く光りの玉。
見渡すと、あちこちにそれらの玉がある。無数に。だが、その輝きは星々とは違う。球体の周辺がぼんやりと光っているように見える。
仄が扇を取り出し、一振りすると、それらの球体が流れ、光の筋を作った。光の筋が無数に雫達の周囲にある。
雫は気がついた。それらの光の筋が、直線ではなく、少しだけ湾曲していることに。
雫は思い出していた。かつて灯が、時渡りをする時、時の線が少し湾曲しているように感じると言っていた事を。
「この光の筋は、時の線、か」
雫は独りごちた。
「左様に」
仄は扇を振る。すると、光の筋の群れが、まるで二人の間に収縮するように集まってきた。
そして、それらは一つの塊になった。
「鞠だ。まるで」
雫の言葉に、仄は頷く。
「例えて言うなら、『時の鞠』。この宇宙の一つの形のありようで御座います。そして」
仄が扇を振る。すると、今度は鞠が拡大していく。鞠の表面辺りは光の筋が密集していたが、中心に向かうに連れて、密度が薄くなる。やがて周囲は漆黒に変わった。
漆黒。そう雫が思った時。二人の間に、何かが現れるのを雫は見た。
「この時の鞠の中心にある、何か。光はとある昔話と関連して記憶しておりました。そのため、実際の形とは別に、その昔話に登場する形状として見えています」
二人の間にある何かは、二つの円盤が重なった形状。円盤自体は直径の半分ほどの厚みがあり、円盤は互いに逆方向に回転しているように見えた。
雫がそれをよく見ようと目を凝らすと、その表面が小さい光の粒で拡散して、その形状があやふやに感じられた。目を凝らすのをやめると、再び二つの円盤に見えた。
雫は目を凝らさずに、霊脈を見る要領で全体を視るようにしてみると、二つの円盤が接している所から、光の筋が流れ出ているのが視て取れた。
雫は驚愕した。
「これは、時の霊脈では無いか」
そう。二つの円盤の間から流れ出ている光の筋は、あの時の霊脈だった。それが周囲に流れ出ている。
「光がこの形状で記憶した昔話。それは、海の水がどうして塩辛くなったか、と言う昔話」
雫は理解した。
回せば願いを叶える石臼があり、それを盗んだ者が船で海に出た。塩気を欲した盗人は石臼に塩を願い、石臼を回す。たちどころに塩は船いっぱいになり、石臼もろとも船は沈む。海の底で石臼は回り続け、海の水は塩辛くなった。
そういう昔話。
「光はこれを『塩の石臼』と呼んでおりました」
時の龍脈を生み出す石臼に似た何か。
雫は物語との符合を考える。
「この『塩の石臼』も、願いを叶えるモノなのか?」
仄はゆっくりと目を閉じると、開いた。
「分かりません。ただ」
扇で石臼を示す。
「この宇宙の秩序を司る何か。六であれば統治機構、システム、とでも呼ぶでしょう。そういう何か」
雫は石臼を見つめた。
「しかし、この『石臼』には意識があるようです。光はこの石臼が苦しんでいる、悩んでいる、と感じました」
「なんと」
時の鞠を司る宇宙の中心、統治機構、そのシステムに悩みがあると。悩んでいると、そう仄は物語る。
「光は時の霊脈に触れ、『塩の石臼』の悩みを知りました。その悩みは、苦しみは、自分は不完全では無いか、というもの」
世界の中心の、石臼に例えられるのならば、万能の器物である石臼が、不完全だと悩んでいると、そう仄は物語る。
「そして、石臼は不完全であるから、自分を完全にする方法が見つからない、のだと、悩んでいると」
仄は、少し項垂れるように首を傾げた。
雫は、頭の奥が痺れるような錯覚を覚えた。
矛盾だ。
もし、石臼が完全なら、不完全な部分は無い。ならば、それは見つからない。だが、それが見つからないから石臼は不完全だと思っているのかも知れない。
あるいは、石臼は不完全で、その部分が見つからないのは、不完全だからかも知れない。
どちらが正しいか、証明のしようが無い。
「長い年月、石臼は悩み続け、一つの手段に出ました」
仄の眉根は寄り、唇は薄くなっている。まるで石臼の苦しみを共感しているように。
「小瓶に願いを詰めて、大海に送り出したのです」
雫は目を見開いた。
「まさか、それは」
仄は頷いた。重々しく。
「溢れ出る時の龍脈に、ある問いを載せて、数多の時の線に届けたのです。その問いは」
雫の口から、その言葉は自然に滑り出ていた。
「『道理では叶わぬ切なる願いを書け』」
「左様。石臼は、己の不完全を照らす鏡として、同じ不完全な者が抱く悩みを知ろうとしたのです。それもその文言通り、まさしく悩める者の切実なる願いから、己の不完全な部分を見つけ出そうとしたのです」
雫は塩の石臼を見つめた。そしてそこから溢れ出る時の霊脈を。
「あの『本』は、霊脈が圧縮されたのではなく、元々あの密度の霊脈だったのだな」
「おそらく。時の霊脈はあの密度か、それ以上の密度だったのでしょう。あの『本』の密度でさえ、薄まったもの、と考えられます」
雫は眉を寄せ、目を細め、口をひき結んだ。
「光は、石臼の悩みをこうも考えたようです。ああ、あの混線した時の部屋では、時間は在って無きが如き。反面、無限とも言える時がある」
仄は扇で石臼から出る時の霊脈を示した。
「石臼は宇宙の要。しかし、時の鞠の時の線からも、このように」
時の霊脈の中を石臼に向かって進んでいく小さな光の数々が見えた。
「知性体へミームが届き、そしてまた、ミームもまた石臼に戻る」
心臓の動脈と静脈のように。
その流れを見つめながら、雫はひっそりと言った。
「その悩み、晴らせるなら、晴らしてあげたい」
「光は、こう考えたようです。塩の石臼は己が生み出しているものが、世界を苦しめているのでは無いか、と疑っている、と」
塩の石臼。
誤った指令を繰り返す万能の器物。
なるほど。だからそう名を付けたのか。
雫は、少し哀しい目をすると、小さく言った。
「完全な世界、など無い」
雫は、何かが脳裏に閃くのを感じた。
「光は、あの『本』に、真なる願いを書けば、塩の石臼の悩みを取り除ける、と考えたようです」
そう仄が言った時、石臼の前に、一つの輝く人型が現れた。
その人型は、石臼に何かを告げているように見えた。
「その女神の言葉に、石臼は耳を傾けると、時の霊脈に悩みを投げるのをやめました」
そう語り終わると、仄は両手を床に付け静かに一礼した。まるで物語を語り終えたように。
雫は、仄が頭を上げると、こう告げた。
「あの『本』に、願いを書こう」




