揺らぐ時
■揺らぐ時
光は、心を鎮めて言った。
「私たちは、あなたと話をしに来ました」
虹色の怪人は、微動だにしない。
「そう。話をしに」
女性の声が聞こえた。
光は、その声の方を見る。声の主はベッドの上だった。
灯が光を肘で突ついた。
え、何お姉ちゃん。
光は灯の視線の先を見る。
驚きの表情が光の顔に広がった。
虹色の怪人が消えていた。
「あれは、そうね。影」
その声に、光は視線をベッドに戻した。
ベッドの女性はふっと笑った。
「そういう意味では、私も影」
光はその女性が誰か分かった気がした。
「か、香ちゃん?」
光にはそのベッドの女性が、何故か東雲家で久しぶりに会った香と重なったのだった。
ベッドの女性は、知らない人を見る目で光を見た。
「あなた、誰? なんで私の名前を知ってるの?」
光は自分の動悸が強くなるのを感じた。心臓が打ち出す脈の音が聞こえる気がした。
「あたしは、光。あなたの小学校の同級生」
その女性は、少し光を見つめると、小首を傾げた。
「知らないわ」
そう言うと、小さく息を吐き出した。
「だって、私、ずっと入院してて、学校に行ってないもの。同級生なんている訳無い」
悲しそうに、そう言った。
そして、視線を灯の手元に向けた。
「ね。どうしてその本をあなたが持ってるの?」
女性は胸元を掴むと、苦しそうに言った。
光はその時初めて、女性が白い服を着て、腰まで毛布に覆われているのに気がついた。
「その本に願いを書いたら、この部屋に居て、お母さんの影が私を看護してくれてる」
光は話についていけなくなるのを感じた。
「この本は、病院の院長の書斎にありました。火事で表面は焼けて、中の霊脈だけが残っていました」
灯が事実のみの淡々と告げた。
「そう」
女性は少し考える素振りを見せると、薄く笑うように閉じた口を横に少しだけ伸ばした。
「あまりよく覚えてないのだけど、私は体が弱くて、長く生きられない、とお母さんに言われた。お母さんは医者で、今の医学では無理だと。お母さん、医者なのにどういう訳か、オカルトめいたものを集めるのが好きで、その本を書斎に置いてた。私は気分が良い時、お母さんの書斎で遊ぶことが良くあって、その本を見つけた」
そこまで、ぽつりぽつりと話すと、女性は少し俯いた。
長い髪が肩から溢れるのを見て、光はこの女性の髪が長い事に気がついた。
そして、悟った。意識を向けないと、女性の姿を認識できない事に。見えているようで、見えていない事に。
女性は顔を上げると、再び話し始めた。
「理由は分からないけれど、その本が目に入って、吸い寄せられるように手に取ると、あるページを開いていた。外国の文字で読めない筈なのだけど、その下の空白に文字を書くと、願いが叶う気がした。だから」
私を助けて
「そう書いたの」
光は、願いを書いたのがこの女性だと認識した。その言葉は光の心に染み込んだ。
「そしたら、あたりが歪んで、この部屋のこのベッドに居て、もうどれくらい時間が経ったか分からない」
光は尋ねずには居られなかった。
「願いは叶ったの?」
女性は俯くと、考え込んだ。どことなく朦朧としているような印象の動きだった。
「叶ったわね。どれくらい時間が経ったか分からないくらい、生きた訳だから。でも」
女性は頭をゆっくりと振った。何度も。
「でも、何か違う気がする」
女性は、独り言のようにそう言った。確信の無い、小さな気泡のような考えが弾けるように。
「私は助かったの?」
女性は誰ともなく尋ねた。
光は答えられなかった。分からない。光の心はそう感じていた。
その表情を読んで、女性は小さく「そう」と言った。
光が言う。
「今は何を願ってるの?」
女性は少し、はっとしたようなそぶりを見せると、光の方を見た。
「分からない」
女性は俯きそうになる。
光は、女性の心の中から、小さな気泡が立ち上って行くのを感じた。その数はだんだんと増えて行く。その音が聞こえるようだと、光は感じた。
女性は俯きそうになった顔を上げ、光を見た。
「ここから出たい」
小さく、そう呟いた。
女性は、六、灯、光の三人に視線を走らせる、というより漂わせると、こう尋ねた。
「あなた達、私をここから連れ出してくれる?」
光は、戸惑った。
幾つもの考えが同時に頭の中を駆け巡った。
この女性は、別の時の線の人。
この女性は、長く生きられない事から、助けて欲しいと言う願いで、この部屋に居る。この部屋から出たら死んでしまうかも知れない。
連れ出すことが、助ける事になるのか。
光は、答えの出ない考えの迷宮に囚われた。
だが、それはほんの僅かな時間だった。
連れ出したい。
そういう思いが、光の脳裏を貫いた。
無意識に光は女性に手を差し出す。
女性はゆっくりとした動きでその手を取った。
その手は、実体が定かでないような感触だった。
しかし、光はしっかりと握ると、頷いた。
「連れ出せると思います」
灯と六も反対していない。
光がアリアドネの糸に意識を向けた。
その時。
虹色の怪人が再び姿を現した。
そして、虹色の気脈を体から溢れさせると、光達に向かって放った。
慌てた光は、掴んでいた手を離してしまう。
「光!あの気脈は危険だ!」
灯が叫び声を上げていた。
気脈は、灯が作った風の壁で一度は弾かれたものの、再び、襲い掛かろうとしていた。
「一旦引くが上策」
六が静かだが、断固とした口調で言った。
光は女性の目を見る。
女性の目には、寂しそうな色が広がっていた。
薄く笑うと、「またね」と言った。
光はアリアドネの糸を引くと、三人は、元の隠し部屋に居た。
迫りくる虹色の気脈の脅威も無く、物静かな元の隠し部屋。
まるで先程までの出来事が夢のように感じられた。
光はじっとりと汗をかいているのに気がついた。
「一度、玄雨神社に戻りましょう」
六がそう言った。
灯がそれに同意する。光も頷いた。
三人は来た時のように手を繋ぐと、六のワープで玄雨神社に跳んだ。
■神社の異変
三人が玄雨神社舞舞台前の境内に出ると、異様な空気だった。
「戻ったか」
舞舞台から雫の声が届く。しかし、その声は硬かった。
光は自分達が体験した怪異よりも、その事に心がざわめいた。
「まずは、そちらの話を聞こう」
雫に促され、三人は毎舞台に上がった。
そして、光は隠し部屋から、揺らぐ部屋の出来事を語った。
語り終わると、灯の一言が耳に入った。
「やはり」
その言葉に、光は灯をみる。
「光、私にはベッドの上に女性が居た、とは見えなかった。何かに向かって光が話しているように見えた」
六も同意するように頷いた。
光の顔に驚きの色が広がって行った。
お姉ちゃん達とあたし、同じ場所じゃなくて、違う場所に居たの?
別の場所、でも、アリアドネの糸で戻った。お姉ちゃん達とは同じ場所にいたはず。
光の心は混乱した。
「光」
雫の声が光の耳に届いた。
「おそらく、その女性は見ようとするものにしか、見えず、声も聞こえない、そういう存在、なのだろう」
「え?」
光は雫の言葉に、状況が分かってきた。
灯お姉ちゃんは、虹色の怪人に注意を向けていた。虹色の気脈が危険だと、よく知ってるから。
六の中には、仄がいる。仄と灯お姉ちゃんは、無意識レベルで繋がってる。だから、六も虹色の怪人に注意を向ける。
あたしは、前の時、ベッドの上によく分からない、ぼやけた何かが居たと記憶してる。
だから。
あたしにだけ「見えた」んだ。
そう光は思考した。
そこで、ある事が光は気になった。
「お姉ちゃん、途中で目配せしたのって?」
光は虹色の怪人が消えた時、灯が目配せした時の事を尋ねたのだ。
「虹色の怪人が消えて、虹色の気脈の渦になった」
光は、ここでも認識の違いがあったのだと、知った。
「あたしには、虹色の渦は見えなかった。怪人が消えたから、お姉ちゃんが目配せしたのだと、思ってた」
伝えたい内容は違っても、会話が成立したようになっていたのだ。
光がその事が心に染み込んで行くのを見て、雫が言う。
「その虹色の渦、だが」
雫が眉を寄せて、少し険しい顔になった。
「こちらにも一瞬だが、現れた」
光は何度目かの驚きを覚えた。灯は険しい顔になった。六はほんの少しだけ目を細めた。
「すっごく変なヤツだったよ!」
アカネが場違いな大声で言った。アオイがこら、という感じでアカネを睨む。
「確かに変なやつだったわ」
アリスの声は静かだった。
「確かに。消える前に『またね』という声が聞こえた気がした」
雫が険しい顔のまま、そう言った。
またね。
ベッドの女性が別れ際に行った言葉と同じだ!
「その言葉!」
光に、そうだ、というように雫は頷いた。
「事はいまだに続いている、ということのようだ」
雫の言葉に呼応するように、木々の枝が風にさざめいた。
■雫は推理する
「此度の事、少し整理しよう」
雫が言った。
「事は十数年前、光達が遭遇した出来事。そしてその結果、時の守神の予知が外れる事態が生じた」
光、灯が静かに頷いた。
「そして、その光達が遭遇した出来事を当事者である、光、青樹、香のそれぞれが異なる現象と認識していた」
やはり光と灯が頷く。
「問題の場所から霊脈で出来た本が見つかる。まず、この本の脅威だが、神社で仕舞っておく事で、回避できると考えられた」
この言葉に、アリスが噛み付いた。
「ちょっと待って。神社で保管すれば、本の脅威は無くなるの?」
雫は口をへの字、という程ではないが、横に引くと唇を薄くした。
「初めはそうも考えていたが、現れた虹色の渦。あれが告げた『またね』という言葉。その事から先の判断は怪しい、と今は思う」
アリスが同意するように頷く。そうよね〜、と顔に書いてあるようだ。
「それと、光が見たベッドの上の女性、こちらの存在。『またね』という言葉の一致。この女性も懸念される事の一つだ」
そう言うと、雫は一度言葉を区切った。
「本と女性。実際の所、迫りくる脅威、と言うわけではない」
確かに、天変地異の予知や、遠い時の線からの影響を直接、誰かが受けた訳じゃないわね。少なくとも光ちゃんが記憶の違いに気がつくまでは。
そうアリスは思った。
「言い換えると、本を作った者とその動機、そして本の効果の結果の女性、これらをどのようにすると、脅威が無くなるのか。そこが曖昧なのだ」
と雫は締め括った。
確かに。と光は思った。おかしな事があるから調べてみた。でも、じゃあ、どうしたら良いのか、ってあまり考えていなかった。
光はそう考える。そして、ベッドの上の女性の事を思い出す。そしてあの時感じた「助けたい」という思い。
「雫さん。あたし、あのベッドの上の女性を助けたい、と思いました」
光は、心に決め事を言うように続けた。
「今は、はっきりと助けたい、と考えています」
すっと、雫は右手に持つ扇を光に向けた。
「その気持ち、判る。して光、どのようにしたら、また、どうすれば、その女性を助けられると思う?」
雫の言葉に、光は胸を、とん、と押されたような気がした。
分からない。
あの時は、連れて行こうと考えたけれど、本当にそれが助ける事になるのか。
光は下唇を噛んだ。ほんの少し。
「その女性についての私の推論だが」
雫は光が返事に窮しているのを見て、僅かに話題を変えた。
「その女性は、自分が本に願いを書いた、と言っているが、それは絡まった因果の錯覚でなはいかと考える」
アリスが、え〜っと言う顔をする。
「雫ぅ、また、持ってつけた言い回しして。もっと分かりやすく説明してよ」
駄々っ子を思わせる感じでアリスは言った。
「おそらく、母親が本に願いを書いた。そして、反魂は半ば成立して、女性は生き返った。中途半端な存在として」
光はなんとなく理解できた気がした。女性の手に触れた時の感覚。そこに有る様で、無いような感覚。
「また、別の時の線では、父親が娘を反魂しようとした。さらに別の時の線では、女性が弟を反魂しようとした」
光はなんとなく分かってきた。雫の言葉が心の奥底に降りてきて、何かを結びつけるのを感じた。
「時の線の原因、結果が絡み合い、女性は反魂されたと同時に反魂した」
だから、願いを書いた、と言ったのだと、光は理解した。
光の瞳に理解の色が広がると、雫は頷いた。
「自分自身を反魂するのは『助かりたい』という願いと言えるだろう。願いは叶ったが、元からの願望があまりない」
そうか。
光は雫の言葉を聞いて、心の底で結びつきつつあるものが、形になったのを感じた。
死んでいたのが、生き返ったが、生き返った後の願望。それは初めが死んでいたのだから、存在しない。
すると。
そこで光は考え込む。
アリスが言った。厄介事の相談に眉を顰めながら、厄介事の正体を気乗りし無い感じで言うように。
「それって、呪い、みたいなものね。因果でがんじがらめになってて、身動きでき無い状態」
アリスの言葉が、光の心の奥底に差し込んだ。朝日のように。そして、光は一つの答えを見つけた。
「分かりました」
光はそう言っている自分の声を聞いていた。
「因果を解いて、結び目を解いて、混線した時の線を解く。そうする事が、女性を助ける事になると」
一気にそこまで言った後、光は決意を表すように、口を一文字に引く。そして、決意の言葉を口にした。
「そう、私は確信しました」
雫はそれを温かい眼差しで見つめた。そして、話す。その策について。そしてその副作用について。
■時の結び目
「結び目が解けると、どうなるか、について。私はこう考える」
雫は静かに言った。
「それぞれの時の線で、反魂は起こらなかった状態に戻る。反魂が結び目を作った原因だからだ」
雫は、座の中央に置かれた霊脈の本を扇で指し示した。
「結び目の怪異は、この本が引き起こしたもの。そして、それに影響を与えたのが」
雫は僅かばかり肩を落としたように見えた。
「この時の線の香に、私が巫術の手ほどきをした事だろう」
本の力と結び目の要となる香、その香に巫術の力。それが怪異の原因だと、雫は語ったのである。
「さて、この事から結び目を解く方法が分かる」
再び雫は扇で本を示す。
「本に願いをかける前に、この本を回収する事。さすれば結び目は出来ず、という事になるはずだが、これは下策」
六が、いや、仄が言う。
「はい、雫さん。その場合、新たな時の分岐が生じ、結び目の無い時の線が生まれるに過ぎません。結び目はそのまま残ります。滅んだ地球の因果を超えて残る私共のように」
太陽のスーパーソーラーストームで焼き滅ぼされた地球。その時の線から仄を構成する二十三人の灯りたちは来た。その因果を超えて。
「結び目を解くには、あの女性を部屋から連れ出すのが正解と、私は考えます」
仄が言った。
「要が結び目の部屋から無くなれば、結び目自体が消滅する」
雫も仄の言葉を肯定した。
「その場合、反魂が無かった時の線に変わるのではなく、時の線はそのままに、結び目のみ消滅する」
この事は重要だわ。
もし、反魂が無かったとすれば、混線した時の部屋に光は入る事は無く、その結果、光に宿る灯は光と融合し、仄の予知通りになる。しかし、そうすると、今の灯が消える事になる。もちろん、灯は時の女神。消え無いようにする事はできるが、改変前の時の線から、改変後の時の線に移った存在になる。また、光も融合した光では無く、今の光のまま止まろうとすれば、灯と同じく改変前の時の線から移った存在になり、光が二人、存在する事になるわね。
その複雑な時の変化を考えているアリスの耳に灯の声が届く。
「しかし」
灯は眉根を寄せて、険しい顔をしている。
「あの虹色の怪人が、邪魔をします」
雫は頷いた。
「故に、まずは虹色の怪人の執着を解かねばなら無い」
光は、自分の心の中にある、淀んだ大海に鮮烈な太陽光が降り注ぎ、浄化してく、そんな心象を抱いた。
「あの女性を完全に反魂するのですね。半生者から完全な生者に」
雫は頷いた。
仄が考え込んだような表情を作った。
「連れ出した女性を如何いたします? あの女性、以前の私と同様、気脈のみの存在。生き返ったとて、気脈のみには変らないと思うのです」
仄がそう言った瞬間、仄から六へと変化した。
「仄と同じように現身があれば良いと考えます」
雫が六の言葉を吟味するように繰り返した。
「現身か」
六と同じ異星のAIの外殻は、内部のAIが霊脈ベースに移行し、竜の星にある天の竜から六達の母星に移動した。そして外殻も同じく天の竜に落ちて行った。
その外殻を回収すれば、現身の代わりになるが、天の竜を超える事は生命体には出来無い。
灯と雫は、天の竜を超える方法を知っている。しかし、それを禁忌とした。故に、外殻の回収を策として出すわけには行かなかった。
六は言う。
「竜の星の私のベースユニットには、予備の私の外殻があります。それをゴーストモードで起動して、女性の気脈を移す、というプランです」
なるほど!という表情を雫がする。
これを見て、アリスは少し気になった。ちょっと雫の反応が変だな、とアリスのアンテナが小さい声で囁いたのだ。しかし、アリスの心は六のプランへの興味が勝り、小さい声は忘れ去られた。
何しろ、六の言葉に過敏に反応した女神がいたのだから。
「竜の星に行くの!? あたし行きたい!!」
アカネだった。
雫はやれやれ、という顔をする。
「アカネ、その話は六の策を全部聞いてからだ」
アカネは、あ、と自分の口を右手で押さえる格好をした。隣のアオイが肘で突く。もうこの子ったら、という風情である。
「ゴーストモードで起動した外殻、おそらく仄が操れると思います」
六から仄へと変わる。
「なるほど。私の気脈を使い、外殻に気脈の経路を作る。そこに女性の気脈を注ぐ。という方法」
そこで仄は光を見る。
「私が六に宿ったのと同じ手順を行うにあたり、術を行うのは光が良いと考えます」
仄にそう言われ、光は驚いた。
「六に術を施そうとしたのは灯。その灯に力を貸す形で、私が行いました。強い思いを持つものが術を行うのが肝要。よって此度は光が行うのが良いかと」
そう言われ、驚きに開いていた光の双眸は決意の力を帯びる。
灯が頷いているのを光は見た。
光はしっかりとした口調で言った。
「その役目、私が行いたいと思います」