奇妙の始まり
■プロローグ
「連絡の品、引き取りにきました」
品の良い婦人の言葉に、アンティークショップの店主は笑顔で応じると、カウンターの奥から箱を取り出した。
「こちらです」
年配の店主の手から、百科事典1冊分くらいの大きさの箱がカウンターの上に置かれる。
店主が箱を開けて中身を夫人に見せると、婦人は中身を手に取った。本だった。表紙は革製で大層な年代物の様だった。
中のページをパラパラとめくる婦人の表情は、嬉しそうだった。
表紙とは違い、中のページの紙自体は割と新しい様子だった。どうやら新しい紙に古色を付けたものの様だった。
箱の中には、これも随分と年を経た1枚の紙がクリアファイルに納められていた。
「元の本に残っていたページは、別にこのファイルに仕舞っておきました」
婦人はそのクリアファイルに入ったページの文字を眺める。
「ありがとう」
店主は婦人に紅茶を振る舞い、二人は世間話を始めた。どうやらこの婦人はここの上客の様だ。
「この店の近くに、骨董屋さんがあるけど、あそこはいつも閉まってるのね」
「ええ、あの店、いつ営業しているのか。商店会にも入っていないし、客が来ている様子もないのに潰れもしない。不思議な店です」
「ショーウィンドウに和製の年代物の品があるけれど、まあ、私の守備範囲じゃないし」
婦人の返事に店主は笑顔を作った。そして何かを思い出した様な表情になった。
「ああ、そう言えば、あの店に高級車に乗った、まるでモデルの様な外国の方が入っていくのを見た事があると、前の商店会の忘年会で聞いた事がありますね」
「開いている時もあるのね」
「そうみたいですね。話していたのが、まあ、女性に目敏い御隠居で、金髪の美女、だったとか」
婦人は少し考える様に小首を傾げた後、なるほどという顔を作った。
「ああ、あのお店、日本の古い物が飾ってあったから、外国の方に」
「なるほど、そのようですね」
二人の間では、その謎の骨董店は日本の骨董を外国人の客向けに売っている、という理解が出来上がった様だ。
婦人のカップが空になると、店主はお替りを進めたが、婦人はそれを断り、手提げの紙袋を持って店を出た。中にはあの本が入った箱が入っている。
アンティーク店を出ると、婦人は大通りに向かう。店の面する通りは車二台がすれ違える幅の一車線。歩道は無い。婦人は話題になった骨董店の前を通り過ぎた。やはり閉まっている様だ。その骨董店には、一六堂という看板がかかっていた。
婦人は自分の大分前を中学二年生が歩いていた事も、通りの路地に一人は黒髪、もう一人は金髪の巫女装束の少女達が居て、そしてその姿が急に消えた事も当然知る事はなかった。
大通りに出ると、婦人は大通りに面した駐車場に入る。そして停めてある高級車に乗り込むと車を出した。
婦人が車を運転している頃、一六堂の奥では、不老不死の巫女、玄雨雫が高熱を発し寝込んでいた。
もし、雫が寝込んでいなければ、また、その婦人が持っていた本が完成していたら、その婦人が一六堂の前を通った時、雫はその怪異に気づいたかも知れない。
婦人の車は、深山病院という建物の駐車場に停まった。
婦人は病院内にある自分の部屋に着くと、机に本を取り出した。そしてクリアファイルから古びたページも取り出して隣に置いた。
そのページの文は古い言語で書かれており、部分的にかすれていて、判読するのは難しそうだった。
婦人は、そのページに書いてある文を、別の書籍を参考にしつつ、本のあるページに書き写した。
「なるほど、こういう意味なのね。まるで」
婦人は、書き終えた文の意味を心の中で言った。
そしてこう呟いた。
「まだ、そういう願いは無いなぁ」
婦人はその本を本棚の中に仕舞った。
そして婦人は部屋を出た。
婦人が部屋を出た後、机の上にはクリアファイルと、それから取り出されたページが残っていた。
そのページは、まるで時間が急に過ぎた様に、劣化してく。そして最後はバラバラになった。それはまるで密閉された部屋に保存された古い遺物が、外界の空気に触れて、急速に劣化していく様子を時間を早送りで見ている様な有様だった。
エアコンの風が、バラバラになったページの断片、もはや、塵と化したそれを緩やかに吹き払うと、机の上にはクリアファイルだけが残された。
■夜見
「佳い事だよぅ」
礫はそう呟く様に言うと、電子タバコの煙を細く噴き出した。切れ長の目が色っぽい。
ここは「夜見」という礫がやっているバーの様な店である。
白鳥礫は死に神である。悪党に鬼を憑け、改心したらそれを払う、という理を執り行なっている。
礫が言葉を投げた先には、光とそして灯が居た。
「姉妹揃って実家に帰る。純ちゃんも喜ぶよぅ」
光は少し気恥ずかしい様に唇を軽く結んだ。
「お姉ちゃんが戻って来て、私、少し里帰りする気持ちになりました」
光は礫に頭を下げた。
「礫さん。お久しぶりです。光がお世話になりました」
灯の言葉を聞いて、礫は微笑んだ。
「何言ってるのさぁ。灯の妹だ。あたしが大事にするのは当然じゃないかぁ」
灯は、小さく微笑むと、丁寧にお辞儀をした。
「実家に帰って、純ちゃんに甘えると良いよぅ。特に」
礫は優しい眼差しで灯を見つめた。
「灯は、あんまり純ちゃんと一緒に居なかったからねぇ」
今度は灯が気恥ずかしそうにする番だった。
「あんまりからかわないでください」
灯の照れ隠しだった。
灯は、自分の右手が光に握られるのを感じた。
二人は顔を見合わせた。
「それじゃあ、礫さん、お姉ちゃんと一緒に、久しぶりに東雲の実家に遊びに行って来ます」
光は灯の手を離し、扇を取り出すと短い舞を舞う。そして二人は再び手を取り合う。一歩前に進むと、二人の姿は消えた。
久しぶりに実家に戻る灯と光の姉妹が、かつて光に実家に顔を出したらどうか、と言った礫にその事を伝えるため、「空の穴」で現れそして消えた、という顛末だった。
礫は二人が居た場所を暫く見つめていたが、何を思ったのか、プラスチックの透明なダイスを取り出すと、カウンターに投じた。
そして、その出目を見る内、礫の目は細くなり、眉根を寄せて行った。
ぼそりと呟く。
「おかしな目だねぇ。何かの予兆、とでも言う様な」
そう言うと、礫は再び二人が居た場所を見つめた。
■玄雨仄
『玄雨灯、貴方とお話をする機会を得たいと考えています』
元竜の星の管理プロセスで異星のAIである玄雨六は、自分の中に居るもう一つの知性と話をしようとしていた。
わかりやすく言えば、脳内会議である。
もう一人の知性とは、二十三人の灯の集合体、以前の名前は玄雨灯。地球をスーパーソーラーストームから救うべく、地球が滅んだ時の線から時を渡った存在。今は、六の外殻の中の気脈として存在している。
六は、何かがもぞもぞと動いているような感覚と、もしかすると、という考えを持った。そして行った。
『素粒波を検出する機構を更新しました。玄雨灯、貴方が私に伝えたいと考えれば、その内容を検出できます』
六は、返答を待った。
『き、聞こえますか?』
小さい言葉が、六の意識に届いた。
『聞こえます』
六は、素粒波検出機構を微調整しつつ、言葉を聞いていた。言葉の初めはチューニングの合っていないラジオ放送のようだったが、終わりの方は明瞭に聞こえる様になっていた。
『玄雨六。あなたと直接話すのは、初めてですね』
『はい、玄雨灯』
『玄雨六、多分、あなたが私の事をどう呼んで良いか分からないから、以前の玄雨灯という名前で呼んでいると思います。でも、今はそれは最後の灯の名前』
『今は名が無いと』
『そうなります。それに灯では、最後の灯と区別しづらいでしょう』
『確かに』
六は、思った事を言葉として意識に乗せてみた。
『雫さんに名を付けて貰うのはどうでしょう?』
元玄雨灯は、当惑した。新しく名を付けて貰う。当惑した感覚が遠のくと、嬉しい気持ちが意識の内に湧いてくるのを感じた。さながら、心の奥の草原が春を迎え、色鮮やかな花々が咲き乱れていく様に。
こうして、六は舞舞台下手袖に位置を変えた。
「どうした六」
毎朝雫は舞舞台で安寧の舞を舞う。その舞が、安寧の霊脈の流れを整える。その舞が終わった時、舞舞台に六が現れたのだった。
「お願いがあって、まかり越しました」
「如何な願いか」
雫は静かに舞台中央から、下手袖に進んだ。
「私の中の玄雨灯、彼女には現在、名前が御座いません」
雫は確かにそうだな、と思った。はっと思った、というのとは違うが、それに近い感覚だった。
雫は六の前に正座すると、静かに頷いた。
「私は、彼女と話をしたいと思いました。ですが」
「名が無いと、話がしづらい、と」
「左様に」
雫は、少し考えた。そして告げる。
「名と体を返した玄雨灯に、新しい名を授ける」
一呼吸分、間を開けると告げた。
「玄雨仄」
その口調は、柔らかなものだった。
雫が六の返事を待っていると、六の様子が少し妙な事になっていた。体の表面が微妙に振動している。
「雫さん、玄雨仄に外殻を移譲する権限を与えました。現在、移譲手続きを最適化しています」
という事は。
「最適化終了しました」
と六が言った途端、雫は六の体を流れる気脈の色合いが濃くなったのを視た。
「雫さん、良い名を付けて頂き、有難う御座います」
そう言うと、六はお辞儀した。
「仄、なのだね」
六、いや、仄は頭をあげた。
「はい」
雫の瞳に映るその顔は嬉しそうだった。
「気に入ってもらえて、何より」
雫の声もまた、嬉しそうだった。
「私からもお礼申し上げます。それでは、部屋に戻ります」
そう言ったのは六である事を、気脈の色から雫は判じた。そして六は消えた。
そこに、お茶を持ったアオイが現れた。
アオイが正座し、雫の前にお茶を差し出す。雫はお茶を飲む。
「仄、良い名ですね」
アオイは優しく微笑んだ。
自室へと位置を変えた六は、再び玄雨灯改め玄雨仄と会話を始めた。
『玄雨仄、あなたとお話ししたいと考えています』
『はい』
六は相手からの返事に少しの間があることから、何か障りがあったかと思った。
『玄雨仄、もしかすると、仄さん、とお呼びした方が宜しいでしょうか』
また、相手からの返事が遅いと感じ、六は用件を先に言うことにした。
『玄雨仄、私はあなたに感謝しています。その気持ちを伝えたくて、お話しする機会を得たいと思ったのです』
六は相手の返事を待った。そして六が聴いたのは、気恥ずかしそうな声だった。
『玄雨六。正直に言います。名を貰ったことが嬉しくて、その気持ちをどう言ったら良いか、分からなかったのです』
六は意外な感想を持った。驚いたと言って良い。あれ程の能力を持つ知性体が己の感情で返答を逡巡している事に。
『会話のプロトコルを提案します。提案の理由は、互いに外殻を共有している事。私は気脈を有する事になった事を感謝しています。その原因があなたである事。その他、あなたに感謝する事が多数あります。それらが提案の理由です。そして』
仄は気脈を通じて、六から温かい気持ちが伝わってくるのを感じた。
『それにも増して、あなたの事を大切に思っています』
仄は心の奥底にある氷の結晶が少しだけ解けた様な気がした。
『提案する会話のプロトコルです。感情に正直に話す事。不満があればいう事。そして一番重要なのが硬い喋り方をしない事』
六は、笑い声に似たものを検出した気がした。笑い声は不快なものではなかった。
『玄雨六。あなたの方がずっと硬い言い方をしていますよ』
『プロトコルの提案ですから、文言が形式的になるのは仕方ありません。それと、お互いの呼び方ですが、玄雨はなくて良いと思います』
仄は、六の気脈から少し拗ねた様な印象を覚えたが、それにはいくらか態とやっている、という感じも同時に覚えていた。
『分かった。六。これで良いですか?』
『はい、仄』
仄は、六の気脈から春の風が木々を揺らす様な息吹を感じ取っていた。
『仄、私はあなたを友と思って良いですか?』
『六。ありがとう。そう言って貰えて』
『感謝しているのは私も同じです。理由もうお伝えしました』
六は、仄が何か大事な事を言おうとしている感じがした。
『六。私はこの神社に戻って来たかった』
六は黙っているべきだと思った。
『あなたが、この神社に来た。だから私は戻って来れた。そして名を得る機会をくれた。感謝しています』
六は仄が言わなかった事を理解した。人は察して言わないのが常だが、六は相互理解を重要と考える。
『たとえ私がこの神社に来た事が、あなたの計画の内、だったとしても、私はそれを容認します』
仄は衝撃を受けた。その衝撃は短い時間に大きな力が加わった、というものではなく、緩やかに力が大きくなり、ピークを迎え、そして去っていく、そういうものだった。
私はそれを容認します。
それを知って、許してくれる。
仄は、胸の中に暖かい感覚と、胸の奥に少しの痛みを覚えた。
気脈である仄には六の外殻があるが、本来の意味での体は無い。だから、この表現は矛盾しているのだが、彼女はそう感じたのだった。
『六。あなたは私の友です』
仄は、六の気脈が嬉しそうに振動しているのを感じた。
■アリスの疑問
『メタアリス、時間を巻き戻す、ってどういう事だと思う?』
アリスは、自分の執務室で音声を使わず、脳内言語でメタアリスに質問した。
メタアリスが思考しているのを、アリスは感じた。チェック用のフィードバックがオンになっているためだ。
『文字通り、時間を巻き戻して、世界をその時点の状態にする、という意味だと思っていましたが、違うのですか?』
『いくつか、気になる事があるのよ。そうね』
アリスは少し考えると、思考を整えた。
『時間移動を行う場合とは、生じる事象の大きさが違いすぎる事。もし、大量とはいえ有限量の霊脈でそれが行えるとしたら、という点。それと、世界、つまり宇宙全体をその時点に戻す、となると、本当にそれが可能なのか、という疑問、かしらね』
『確かに、宇宙全体を一度、特定の時点までリセットするのに等しい、と考えると、内包する霊脈でそれが可能と考えるのは』
『そう、なんとなく矛盾しているように思えるのよ』
でも、とアリスは考える。
それは過去何度も行われている。だから、出来る、出来ないではなく、何故それが行えたのか、という原理に疑問があるのだと。
『アリスの疑問は理解しました。すると、時間を巻き戻した、という結果ではなく、何故それがなし得たのか、その仕組み、つまり、時間の構造とは何か、が疑問の中心となると推論されます』
『そうなるわね』
脳内での会話のため、執務室はもとよりしんと静まり返っているが、一層に包まれたようにアリスには感じられた。
『アリス、残念ながら私にはこの問題を解決する情報が不足しています』
私には?
アリスはなんとなく、メタアリスの次の言葉が予想された。
『六、時の女神の皆さん、そして』
あとの言葉をアリスは引き取った。
『雫に、やはり相談しないといけないわね』
■奇妙の始まり
アリスが固定された「空の穴」を使って玄雨神社舞舞台上手に現れると、その場の空気が妙な事に気がついた。
重たい、というか、渦巻いている、というか、なんとも居心地の悪い感じなのだ。
その雰囲気にアリスは気圧される。
「ど、どうしたの〜、みんな〜」
じろり、という感じで舞舞台下手袖にいる玄雨雫がその視線を下手側から上手側へ動かしてアリスを見た。
「どうした? アリス」
なんとなく、ぎくり、とした後、アリスは言う。
「え、え〜っとぉ、ちょっとした好奇心からみんなに質問したい事があって〜来たんだけどぉ」
まったく勘が良いのか、間が悪いのか、などと雫が考えていると、車座になっている席の一つから声が上がった。
「アリスさん、ちょうど良かった。アリスさんにも聞いて欲しかったんですよ」
六だった。すっかり現代人のような喋り方が板に付いている。
異星のAI。来た当時はメタアリスにある古い日本語のデータベースを使っていたため、まるで江戸時代の人のような喋り方だったのだが、すっかり普通の喋り方になっていると、アリスは思った。
キャラ設定が弱くなってる、訳ないか。
そう思うアリスの視線の先に居る六は、白装束の巫女服で、その上、髪も肌も純白。やはり異彩を放っている。白いのだが。
舞舞台下手袖で車座になっているのは、雫、六の他、灯、光だった。アカネ、アオイの姿は無かった。
「話が込み入っているので、アカネとアオイの二人には、席を外して貰った」
あー。アカネが居ると話がこんがらかるものね。で、アカネだけ外すとあの子へそ曲げるから、そのお守りでアオイもいない訳か。
アリスは理解した。
という事は。
こっちは、こっちで相当面倒な相談事をしている最中、そこにあたしは来ちゃった、という事かぁ。
「アリスも来た事だし、経緯の順番にもう一度、話をするのが良かろう」
雫の一言に、光が頷いた。
「話の途中で、それぞれ思う事があっても、終わるまでは口を挟まぬよう」
そう言うと雫は、「分かったなアリス」とやや睨むような口調で言いそえた。
「分かったわよ」
アリスとはそう言うと、舞舞台下手袖の車座に加わった。
光はアリスが座るのを見届けると、お腹のあたりに重たいものを感じながら口を開いた。
「それでは、事の発端からお話し致します。先日、東雲の実家に戻りました。その時、弟と香さんと話した内容が」
ここで光は少し顔を曇らせると、「奇妙なのです」と続けた。そして、「とても」と言添えた。