無情
啓太は高い壁を見つめた。もう二度とここに戻ることのないようにと、しっかりと凝視した。
誰も迎えに来ていなかった。
啓太の人生の歯車が狂ったのが利久の万引き事件だった。その事がきっかけで利久は退学し、啓太も居場所をなくし、退学して家を出た。職も転々とし、心身共に荒れていた。傷害や窃盗を繰り返し、二十歳で行く着く場所は刑務所だった。
母親は一度も面会に来なかった。その事で恨んでいない。むしろ迷惑をかけた事に心苦しかった。
模範的だったので、啓太は刑期が短縮された。
外の景色が十代の頃とは違うように見えた。やり直しは難しいが逃げてはならない事を学んだ。
母親に会うのが先決だ。だが、気が進まない。拒否されたら困惑しかないので、怖いのだ。
電車は通勤時間外だったので、空いていた。
乗り換えなので、ホームに降りた。
啓太の足は重かった。ベンチに腰かけた。まだ、母親に会うべきか迷っていた。
電車は数本通り過ぎていた。
怒号が啓太の耳に入って来た。耳をすました。
「痴漢!」
と、女性の叫び声だった。
三十代後半のサラリーマン風の男が走っていた。
啓太の前に向かっていた。
男は無表情で顔面蒼白だ。
啓太の前を通り過ぎた。小柄だし、吹けば飛ぶような身体だったので、追いつくのは簡単だった。背後から腰に抱きつくようにしがみついた。
その勢いで二人とも前のめりに倒れた。
「こら! 離せ!」
男は威勢よく暴れた。
「静かにしろ!」
啓太が強い口調で言うと、男は威圧感に負けたのか動くのを止めた。
「違うんです。痴漢なんてしてません。これはえん罪です」
と、男がしんみりと言うので、啓太は掴んでいた手を離した。
「それなら、痴漢をやってないって言えばいいだろう」
「そんなの無理!」
と、男は言った。
「その人、痴漢です」
女性が近くに来たので改めて言った。
啓太と男はホームに横たわっていたので、どちらが痴漢犯か判別は出来ない状態だ。
周囲にいた人々が寄って来た。
男はほふく前進で離れて行った。
啓太も逃げないと安心しきっていたので、身体は動かなかった。
場内のアナウンスは電車が到着する事を告げた。
男はむっくりと立ち上がった。啓太が足の上に乗っていたので、痺れていた。フラフラとバランスの悪い歩き方だ。強引に足を動かしているので、思うよう歩けない。逃げる事しか考えていないので、立ち止まる事はしなかった。
倒れた。
運悪く、ホーム下の線路上に落ちた。
啓太の周りにも人が集まっていた。
「痴漢はあいつだ!」
と、啓太は言ってさっと立ち上がり、男の後を追った。
男は線路上にうつ伏せに倒れていた。
「おい!」
と、啓太が問いかけた。返事がない。
男が落ちた線路はもうすぐ電車が到着する。このままでは男は轢かれる。
啓太の呼びかけに男は反応しない。
「誰か!」
と、啓太が叫んでも誰も助けに入ってくれる者はいなかった。電車が迫っているだけに、怖くて身動きさえ出来ないのだ。
正面に電車が見えた。
啓太は線路上に降りた。男の腕をつかみ、線路から引きずる降ろそうとした。汗が額から流れ落ちるのがわかった。
邪魔だ。今、その事にかまっている暇はない。目の前がぼやけていた。
大きな警笛音が響いた。
運転手も線路に人がいるのを発見したのだろう。
啓太は力を振り絞った。
電車は急ブレーキをかけた。とはいえすぐに停まるわけではない。
啓太に迫って来る電車が段々と大きくなった。
急ブレーキする摩擦音が警笛音と重り、爆音となって耳に響いている。
啓太は少しずつであるが男を線路から引っ張り出していた。
電車は停まった。
啓太と男がいた辺りを数メートルオーバーしてである。
あれほど爆音も一瞬は静かになっていたが、すぐに駅構内は喧騒にあふれた。