四話目
まだ雨は止まない。重苦しい空の色に相応しいのではと考えてしまうような暗雲が男の心にかかっていた。
思い出すのは先日の宿での一件。既に日が沈み、そして昇ったというのにそのことで支配されている。
まるで自分には冒険者はもう務まらないかのように捉えてしまう。
勿論、彼女にそのような意図があったとは男も思ってはいない。
自分の被害妄想じみた何かだということも、分かっている。
水に黒いインクを零したかのように暗い感情がじわりと広がる。
分かってる、分かってる、分かってる。
彼女は純粋に、心から自分のことを思っていることは、分かってる。
それでも、雨は止まない。
そんな憂鬱な気分から抜け出せないまま、男は街の外へ出た。
途中、昨日の兵士に顔色が悪いと心配されたが、特に問題はないと少し突き放すような言葉と口調で言ってしまった。
「ああ、やっぱり……俺には荷が重いのかね。冒険者もあの娘も、何もかも」
思考がまとまらない。だからだろうか、いつもよりもネガティブな感情に支配されているのが理解できる。
「駄目だな、俺は」
そう、きっと自分は愚かなのだろう。それでいて、臆病だ。10年以上も前からずっと変わってない。
変わるのが怖いのだ。既知が未知になるのが恐ろしい。
だから、彼女の好意に甘えながらも見ないふりをしている。自分の感情にさえ蓋をして。
昨日も来た草原男は今日もここに訪れている。ここにファングウルフはよく出没する。見通しが良いように見えて、実は緩やかな丘が複数あるせいで隠れる場所が多い。
これによって新人は背後を取られるなどして全滅することがままある。
しかし、裏を返せば丘の場所を完全に憶えてしまえばいい。それが男には可能だ。
何せ10年、20年近くザルツを拠点としてきたのだ。
丘の場所も、奇襲に適した場所も全て頭に入っている。
だからこそ、分かるのだ。
何処から魔獣が自分の様子を伺っているのかが。
なら、後はこちらから行ってやればいい。
「やっぱりいるか」
男がファングウルフの隠れている場所、つまりは獲物を待ち構える場所には予想通りそれがいた。
その巨体を見せびらかすかのように泰然としている。
「強化種……か」
通常のファングウルフよりも一回りは大きいその体躯と黒く変色した毛に男はそうあたりをつけた。
強化種とは通常種よりも成長し、強靭な肉体を手に入れた魔獣のことを指す。
その大半は群を作らずに単独で行動する。
向こうはこちらに気がついていない。当然だろう、気がつかれないようなルートを通って接近していったのだから。
「……行くか」
そう呟くと両脚に力を込めて地面を蹴りつけた。
男の熟練と言えるであろうその技は、地を蹴り草を踏みしめて走っているにもかかわらず、ほんの僅かしか音を立てない。
だが、相手は魔獣である。ファングウルフは発達した聴覚と嗅覚によって己に接近せんとする者の存在を感知した。
そして、感知した存在の大地を踏みしめる、しかし軽やかな足音から相手をかなりの強者だと瞬時に判断した。
そう、魔獣には人類に匹敵するほどの知性がある。
それによって長らく人類は魔獣との戦いに終止符をつけることが出来ずにいたのだ。
ファングウルフは己の五感に従い、接近する者を感じ取った方向に身体を向けるとともに、意識を集中させる。
「グガァァァ!」
咆哮と同時に駆け出す。そうだ、待ち構える必要はない。こちらから行って敵の喉を喰い破ればいい。
偶然だろうか、男とファングウルフは同じ考えに至り、そして実行した。
「フッ!」
短く、それでいて鋭い気合いの入った声が男の喉から自然と吐き出される。
ファングウルフよりも早くに駆け出していたからだろうか、魔獣を超える速度で迫っていた男は更に両脚に力を込める。
どん、そんな風に聞こえてきそうなほどの音が男の加速とともに辺りに響いた。
「ガァ!?」
ファングウルフは己が幾度となく食い破ってきた獲物とは隔絶した速度を出しながら駆けてくる何かに驚愕の声を上げる。
それはほんの僅かに隙となってしまう。
「シィ!」
男もベテランと言われるほどの熟練した冒険者だ。
ファングウルフの隙を見逃さなかった。
素早く抜き放った剣で横に薙いだ。その軌道は正確にファングウルフの喉を搔き切らんとするが、一瞬速く己の死を感じたファングウルフがその巨体を捻りながら飛び退いた。
確かな強者、ファングウルフは自身が感じていた己への警鐘が間違ってなかったと嫌が応にも理解した。
力は十全に漲っていた。確かに奇襲はされたが、それも途中で気づいたため半ば失敗に終わっている。
だと言うのに、ファングウルフは己がこの草原の大地に死体になり倒れ伏している姿を幻視した。
「ガァァァァァ!!!」
その瞬間、草原の強者、駆ける狩人が獲物へと変わった。