24:10 蛇の家令
温かな気持ちで読書を終え、日付が変わったころ。
雪椿に一人の来客があった。
以前ミコトに蛇の長者が縁談を持ち掛けようとしているという噂が聞こえてきたが、その来客は蛇の長者の元の家令だった。
かすかに顔を引きつらせる名付け親に、サクラは淡く苦笑して私が応対します、と言って家令へとタオルを差し出す。
「やぁ、これはありがとうございます。水神ともいわれる蛇の眷属とはいえ、本屋に水気が大敵なのはわかっていますからな」
「ようこそお越しくださいました。本日はどのようなご用件でしょうか?本をお探しですか?」
長者様のお屋敷からは遠いですし、少し休んでいかれますか。
そう問いかけたサクラに家令は口元をほころばせる。
「サクラ様は気立てがよろしいですね。当家の主人がミコト様に持ち掛けているお話は聞き及んでいらっしゃいますでしょうに」
「はい、人づてに耳に挟んではおります。客商売ですからいろいろな話は聞こえてくるものでして。ご不快な思いをさせてしまったのでしたら、忘れる努力はいたしますが」
ふむ、と家令は蛇族特有の黒目がちな目でじっくりとサクラを眺める。
「サクラ様はミコト様が結婚されるという話が出たことをどう思いますかな?あなた様にも犬神の若君が結婚を申し込んだと聞きましたが」
「私のほうはお断りいたしました。貴き龍の方に舞い込んだ縁談については、私が口をはさんでいいのかどうか」
ミコトに肩入れすることも、蛇の長者をないがしろにすることもないという姿勢を暗に見せるサクラに家令はゆっくりと瞬きをした。
「実に聡明なお嬢さんだ。犬神族の若君がぜひと思う気持ちがこの老骨にも伝わります」
「有難うございます」
お互い、軽く会釈をして相手に対して敬意を払った後、家令は水気を吸ったタオルを使用済みのものを入れるかごへと丁寧な手つきで入れた。
「ミコト様は乗り気ではないと伺っておりますが」
「もったいない話だとは思っているのだが、身を固めようという意思は俺のほうにはなくてな。申し訳ない話だが」
「そうですか……身を固める意思がないということは、決まったお相手もいらっしゃらない?」
「心に決めた女性がいるのであればその旨しかとお伝えして断るのが筋ではないだろうか」
さようですな、と家令はおとなしく引き下がる。
「あいにく、この年になっても俺には色恋沙汰というものがよくわからない。気も効かなければ武骨で不愛想な俺が婿入りしては、伴侶となる女性が気の毒というものだ」
愛を囁くほど相手を知っているわけでなく、ミコトの性質として上辺だけ、形だけの思いを告げるほど器用な男ではない。
気心知れない相手との新婚生活はお互い疲弊するだけに終わる気がしてな、とミコトは言葉を結ぶ。
「ミコト様は、今まで本当に一度も恋をしたことがないのでしょうか。ぶしつけな質問ですがお聞かせ願いたい」
「恋をしたことはない。恋をするより先に、護るべきものに出会い、今もそれは変わらない。それだけのことだ」
長く孤独だった龍人に寄り添ったのは、無垢すぎて虚ろな幼き魂だった。
それが恋に変じることは決してなく、恋に変じないからこそ、思い出として色あせることもない。
「サクラ様、御身にとってミコト様とはどのような存在ですかな?」
「そうですね……貴き龍の方は、私にとっては……光、でしょうか」
貴方が私の太陽です。この土地が太陽に縁遠いのは私のそばにいつもいるからでしょうか。
そう思うほどには。
「では同じ質問を、ミコト様にも」
「……光、だな」
お前が俺の月なのだろうか。たとえ一生この夜が明けなくても、お前という光に支えられている。
そう思うほどには。
二人にとってはお互いがお互いを照らす光で、道標。
「どうも分が悪いようですな」
「申し訳ない」
愛ではないし、恋でもない。それよりずっと深く、強いところに先に絆の糸が結ばれてしまっただけ。
誰もがこの二人を見て、最初はかみ合わないと誤解をする。
けれど二人を通して知るのだ。
これほどかみ合っていないくせに、理解しあっている二人はそうはいない、と。
ミコトとサクラだけではきっとぎこちないままだっただろう。絆がこれほど強くなることもなかっただろう。
「すべては、私たちをつなぐものが本だったからだと思うんです」
サクラがそっと口をはさむ。
「染物をするとき、糸や布と、染料と、媒染が必要でしょう?私たちにとって、きっと媒染が本だったんです」
そして、まっさらな心が染め上げられたからこそ、今の自分たちがあるのだと。
今の自分たちを大事に思ってくれるなら、自分たちに見どころがあると思ってくれるなら、どうかこの色(自分)を作った相手を奪わないでくれと願われているようで、家令は淡く苦笑した。
「貴方たちのありようは私にはわかりかねますが、なぜでしょうな。わからないなりに、最上の出会いをしたのだと思えます」
長者様には今はまだ分が悪いようですと伝えておきましょう。
そういって家令は本を選んでいただけますかな、と首をかしげた。
「傷心の心に寄り添う、やさしい物語があれば、ぜひ」
「はい。お手伝いさせてください」
二人に舞い込んだそれぞれの縁談は、二人の絆を壊したくないという良心によってひとまず白紙に戻ったのだった。