九話・幼女の太もも
翌朝。目が覚めてすぐ自分の顔の上に何かが乗っかっていることに気が付いた。ほっそりとしていて柔らかく、それでいてある程度の重みを備えた物体。
胸元から伸びているその物体を目線だけで辿ると、正体はすぐに判明した。
俺の上で安らかに寝息を立てるクルシュ。こいつの太ももが俺の顔に被さり鼻と口を塞いでいたのである。というかちょっと待て。こいつ昨日寝る前俺と同じ方向に頭向けてたよな? なんで朝になったら逆向いてんだよ、どんな寝相してんだ。
いつまでも顔の上に居座り続けるあんよに苛立ちを覚え顔を逸らそうとするのだが、これがまたびくともしない。ふくらはぎなら容易く対処できたのだろうが、今俺の顔に乗っているのは太ももだ。片足の全重量が顔に乗っていると言っても過言ではない。子供でも意外と重い。
クソ、だったら手で払いのければいい。そう思い腕に力を込めるも、なぜか両腕が意思に反して全く動かない。
いったい俺の腕に何が起きてるんだ。混乱のままに視線を左右に送れば、すぐ至近距離にリヘナとヴィムの寝顔があった。
その瞬間俺は自分の置かれている状況を悟った。俺の腕は今、こいつらに抱き着かれて拘束されているのだ。腕から伝わってくる彼女たちの体温がその証拠。
しかもリヘナに至っては俺の手を抱き枕よろしく股に挟み込んでおり、ヴィムはヴィムで何と勘違いしてるのか耳たぶにかじりついている。
これは非常にまずい。幼女という名の拘束具に自由を奪われ身動き一つできず、その間にも俺の酸素濃度は徐々に低下している。今はまだわずかに開いた隙間から辛うじて呼吸ができるが正直息苦しい。呼吸困難になるのも時間の問題だ。
さらに言えば太ももに鼻息が直撃するせいで、傍からは幼女の太ももに興奮して鼻息を荒くしているようにしか見えない。社会的にも非常にまずい。
どうする、などと迷っている余裕はない。こいつらを叩き起こしてでもこの窮地から脱しなければ命が危ない。
「んん~!」
思うが早いか、俺は塞がれた口の中で叫び声を上げると同時に全身の筋肉を駆動して上体を起こそうとした。だが…………あれ?
いくら全力を出しても、幼女三人の体をはねのけることができない。そんなバカな。幼い少女たちに力負けしてるというのか……。眠ってるのにどんだけパワーあんだよ。
くぐもった声で叫んでも三人はまるで起きる様子がなく、しかも無駄に声と力を使ったせいでなけなしの酸素は枯渇寸前に陥ってしまった。苦しい。
……かくなる上は、かなり屈辱的だが試してみるか。これだけはしたくなかったけど、せっかく手に入れ二度目の人生、幼女の太ももで窒息死などという不名誉極まりない死因で終わらされては敵わん。
朦朧とする意識の中、俺は最終手段に打って出る覚悟を決めた。
プライドを対価に生きながらえるべく、唇から舌を差し出す。そして……、
ペロッ。
「フフ……」
くすぐったさにクルシュが身をよじり俺の顔から太ももが離れた。
数分ぶりの新鮮な空気を体に取り込む。
「ハアハア……どうにか命拾いした」
呼気が整い安堵する。一時は死ぬかと思ったが、なんとか難を逃れることができてよかった。
ほっと息をつく俺。
そこに、寝ぼけたクルシュの足蹴りが襲い掛かった。
俺はアゴに直撃を喰らい、しばらくの間声も出せず悶絶したのは言うまでもない。
◆◆◆
「……朝っぱらから死ぬかと思った」
「何かあったの?」
テーブルに肘をついてうなだれる俺の隣席で、クルシュがすっとぼけた顔で首を傾げている。いや、本人には自覚がまるでないのだが。
未だひりひりとする舌の痛みに顔をしかめる。
「どっかの誰かに足で窒息されかけた挙句、アゴを蹴られて舌噛んだんだよ」
「それはお気の毒」
おめぇのせいだよ! 自覚がないのは再三認めるがこうにも他人事のように扱われるとさすがに苛立ちを禁じ得ない。しかし恨みの念を込めてクルシュの脚を睨んでいると、思い出されたのはもう一つの記憶だった。早朝目が覚めて最初に映った少女のたおやかな太もも。
俺は彼女の太ももを、いったいどうやってどけたんだったか……。
「……」
「どうしたの?」
「……何でもない」
不思議そうに見返され思わず顔を逸らしてしまった。
あれはもう忘れよう。いくら生死に関わるとはいえ、あれはさすがに変態的過ぎた。今度からはもっと紳士的な方法で解決しよう。そもそもあんな事態に二度も遭いたくはないが。
あまりの羞恥心に暴れ出したい衝動に駆られかけたところで、対面に座るヴィムが声をかけてきた。
「それより今日はどうするの?」
「ん? 今日か……」
重大な話題を持ち上げられて、俺の思考も自然と切り替わる。実は今日行う内容については昨日のうちにあらかじめ決めていた。
「今日はとりあえず、昨日の反省を活かして食料調達から始める」
「どうやって調達するんです?」
「それはまだ決めてない」
実は具体的な計画までは決めてない。昨日眠かったんだから仕方ないだろ。
最悪女神がくれた銀貨十枚を使えば買えないこともない。ただ収入源がない現状、あくまでそれは最終手段だ。
「それよりお腹空いたー」
クルシュが腕を伸ばして机に突っ伏す。だよな。昨日パン一個しか食ってないもんな。
いきなり所持金を使わざるを得ない局面に立たされ、どうしたものかと思索していたちょうどその時、玄関の扉を叩く音が聞こえてきた。
この控えめな叩き方はもしや。
聞き覚えのあるノックに俺はささやかな期待を寄せ、すぐさま玄関に向かった。
「おはようございます」
果たして我が家を訪れてくれたのは昨日同様、笑顔の似合う可憐な少女アイシャさんであった。
「どうもアイシャさん、おはようございます。今日はどうしたんですか?」
「は、はい。あの……朝食ってもう取られましたか?」
「いえ、まだです。というか無いです」
「そうでしたか。もしかしたら今日もシグレさんたちが食事がないのかなと思いまして、朝食をご用意したのですが……ご迷惑でしたか?」
……何だと。聖人かこの子。
「とんでもない。むしろこんな見ず知らずの我々のために、一度ならず二度までも食事をいただけるなんて恐縮です」
「そ、そんな大げさですよ。食事と言っても本当に簡単なものですから」
「それでも嬉しいです。このご恩は一生忘れません」
感激のあまりまたしても手を握ってしまい、はからずもアイシャを照れさせてしまう。いけない、過度なボディータッチは嫌われる恐れがある。今度からなるべく自重しよう。
「それで、みなさん、今から私の家に来られますか?」
「もちろんです。ガキども連れてすぐに行きますので先に戻っていてください」
「では、お待ちしてますね」
アイシャさんはにこりと微笑んで目礼し、そのまま自宅へと戻って行った。
本当に、親切な人が隣でよかった。
現代日本では久しく感じることのできなかった隣人の温かみに一人感涙しつつ、テーブルで待つ少女三人に声をかける。
「お前らすぐに準備しろ。アイシャさんが朝飯を作ってくれたそうだぞ」
全員大喜びするだろうと朗報を運びリビングに戻るが、なぜか三人とも俺を見る視線が冷たい。昨日もあったなこんなこと。
「どうかしたか?」
「……シグレってさ、アイシャお姉ちゃんと話すときだけあたしたちと態度違ってない?」
「なんだかアイシャさんの時だけ口調が柔らかです」
「ニヤけてる」
「そりゃそうだろ、アイシャさんはお隣さんでしかも友好的な客人なんだから。それに――」
「「「それに?」」」
「アイシャさんが美人というのも少なからずある」
この時、正直な本音を語るべきではなかったと、のちに俺は反省する。
発言したその直後に俺のスネを襲ったのはクルシュ渾身のローキックだった。
「いってぇぇぇ!?」
完全無防備状態からの襲撃に俺はなす術もなく、スネを押さえて床を転がり回る。なまじ身体能力が高いだけに、ガキの一撃といえどかなり痛い。
そんなもがき苦しむ俺のそばを、三人は冷たく素通りして玄関から出て行った。