十五話・カッコ◯◯
アイシャさんに誘われるがままやって来た場所は、町の場末にある古びた宿屋だった。周囲の景観にもれずレンガ造りの二階建てで一階は食堂も兼ねているらしく、店先には本日の定食メニューと書かれた看板が立てかけられている。
倒壊寸前の我が家よりは断然立派な造りをしてはいるが、くすんだレンガの壁や屋根の傷み具合からはかなりの年季を感じる。よく言えば趣がある。悪く言えばボロい。そんな印象だ。
俺はしばらく宿の外観を眺めてから、隣のアイシャさんに視線を移した。
「ここが、アイシャさんの働いてるお店?」
「はい。正直なところ冒険職や生産職ほどのお給料は望めませんが、それなりに働きやすいところですよ?」
「な、なるほど」
二言目に『アットホームな職場』って謳い文句が付きそうだな、と失礼ながら思ってしまった。
いやいや落ち着け。アイシャさんは就活に苦戦する俺に、わざわざ好意で自分の働いているお店を紹介してくださったんだ。この心優しい女性がブラックな企業なんかに務めているはずがない。だってブラック企業って一年くらい働いたら心までブラックになるからね。過酷な労働環境で蓄積したストレスが性格まで真っ黒に変色させるからね。こんな清らかな聖人いない。
きっとアイシャさんの言う通りここは働きやすい場所なのだろう。
もう仕事を選り好みしている余裕などなくなった俺に、決定権など残されてはいない。
こいつらのためにも何とかして食費だけでも稼がないと……。
そう――こいつら。
ちらりと背後を振り返ると、そこにはご丁寧に並んでこちらを見上げる三人娘の姿があった。
「何でお前ら付いて来てんの?」
「そりゃいざって時シグレの就職先知らないと困るでしょ?」
「思ったより家から近い。来られやすい。勤務条件ばっちり」
「遊びに来る気満々だなお前ら」
クルシュとヴィムの主張に不穏な気配を感じて顔を引き攣らせる。
「あとあれです。シグレくんがお世話になるんですから、ご挨拶した方がいいかなと思いまして」
「……どういう立場で挨拶する気なのか明確にしてくれ。返答次第じゃ回れ右して帰らすぞ」
「そう言えばシグレさんとクルシュちゃんたちの関係、私もよく分からないんですよ。昨日は預かってる子供と言われましたが」
嫌な予感を覚えて予防線を張ったところ、まさかのアイシャさんが話に食いついてきてしまった。まずくない?
もしこいつら下手なこと言ったらアイシャさんとの関係に亀裂が生じたりして、仕事の紹介もなかったことになったり、そうでなくても今後の友好的な付き合いに支障をきたす恐れがある。
頼むぞお前ら、余計なこと言うなよ。
目顔で必死に訴えかけるが、当の三人は顔を見合わせてこちらを見向きもしない。「どういう関係かな?」「だから同居中の恋人だよ」「でもそれでさっきにぃにに怒られた」とかごにょごにょ相談が聞こえてくる……大丈夫だろな、本当に。
一喜一憂して待つこと十秒足らず。俺にとっては一時間とも思える長い談話を経て三人がこちらを向き直った。
そして異口同音で放たれた一言は、
「「「ペットです!」」」
「ぶっ……!?」
言ったよ確かに。数時間前確かに言ったよ俺。
でも今言っちゃダメだろ! どう解釈を変えても弁明しようもなく誤解しか発生しないだろ。
「ペ、ペット……?」
どうしよ、アイシャさん顔面真っ青で軽く引いてんだけど。これ以上誤解が進行したら下手すると就職のチャンスがおじゃんになる。ここは何としてもイメージを払拭しなくては……!
思うが早いか、クルシュたちに向き直って小声で告げる。
「お前ら、前の俺の発言は撤回する。お前らはペットじゃない。だからありのままの関係を説明してくれ」
「え? いいの?」
「いいよ! いいから早く!」
必死で頼み込むと思念が伝わったのか、三人は目を丸くしつつもこくりと頷いてくれる。
「アイねえ、さっきの前言撤回」
「私たちペットじゃありませんでした」
「え?」
ヴィムとリヘナがアイシャさんの注意を引く。それから三人は真面目な顔で佇まいを直すとなぜか頬を赤らめた。
「恋人カッコ嫁の予定」
「恋人カッコ将来の妻」
「恋人カッコ許嫁です」
スパン! スパン! スパン!
気づくと俺はガキ三人の頭を小気味よくはたいていた。現代日本なら虐待だ体罰だ騒がれそうだが、今回ばかりは看過できん。
鬼の形相で見下ろせば三人が頭を押さえたまま凍り付く。
「おい、ありのままを話せって言ったよな? 誰が未然形で説明しろって言ったよ?」
「未然形ってことは将来的に完了形になる気が――」
「……」
「ごめんなさい、何でもないです。ごめんなさい」
無言で睨み続けると揚げ足を取ろうとしていたクルシュもさすがに空気を察したらしく、肩を震わせてうつむいた。
まあ、灸を据えるのはこれくらいでいいだろう。こいつらも悪気がなかったのは認めてやる。
ただ……終わった。完全に終わった。誤解が修復不可能な領域にまで到達してしまった。
ここからどう言い訳して足掻いたとしても、起死回生なんて望めない。
俺とアイシャさんの関係は本日をもって崩壊した。
絶望感に苛まれ下手に彼女の顔を直視できずにいた俺であったが、なぜか先ほどからアイシャさんの反応がまるでない。
もしやあまりのドン引きに声すら上げられないのかと、不安が募ってたまらず顔を隣に向けると、アイシャさんは直立不動で硬直していた。
「アイシャさん? え、アイシャさん!?」
慌てて体を揺すってみるが、アイシャさんは遠い目をしたままうんともすんとも言わない。どうやらあまりに投下された爆弾発言の衝撃が強すぎて、キャパシティを超えて意識が吹っ飛んでしまったらしい。
地蔵のように動かなくなった彼女を前にして、俺は対処に困った。
「すごい、立ったまま気絶してる」
「感心してる場合か。お前らが変なこと言うからアイシャさんフリーズしちまったじゃねぇか。どうすんだよ、Windows95みたいになってんぞ」
興味深そうにのぞき込むクルシュをたしなめると、横からヴィムが拳を握って提案してくる。
「叩いたら、直る」
「昭和のテレビか。さすがにご近所さん叩いちゃダメだろ」
「じゃあ、撫でる?」
「それも相当失礼だぞ」
「そんなことありません。頭を撫でられればアイシャさんも嬉しいに違いありません」
根拠が微塵もない推測を述べ立ててリヘナが目を輝かせる。
するといつの間にか背中に翼を生やしたクルシュが、俺の右手を握ってアイシャさんの頭頂部へと誘導しようとしているではないか。
「まあまあ物は試しってことで」
悪戯っぽく笑うクルシュに促されるも、俺はしばしアイシャさんの頭の上に手を置いて逡巡していた。
だが、どうせ彼女の意識を戻す方法が思いつかないのだから、やるだけやってみるのも手かとすぐに考えを改め、半信半疑で慎重に手を動かす。
すると、
「…………はっ!」
「うわっ、びっくりした」
突然目の焦点が合ったかと思うと、いきなりアイシャさんが声を上げて復活した。それに驚いて俺は反射的に手を離してしまう。
本当に頭を撫でて意識が戻ったのか、たまたまタイミングが重なっただけなのか判然としないが、もし前者ならどういう原理なのか詳しく知りたい。
しかしそれよりまずアイシャさんの具合を尋ねるのが先決であろう。
「アイシャさん? 大丈夫ですか?」
「えっと、あれ? 私は何を……?」
「その……宿屋の前で話してる最中に突然アイシャさんボーッとされてたんですよ」
アイシャさんがフリーズした元凶である会話の内容は、個人的に極めて都合が悪いので伏せさせてもらおう。
俺の説明を受けるとアイシャさんは「そうだったんですか」と少し申し訳なさそうに苦笑した。そんな表情されるとこっちが申し訳なくなってくる。
「すみません、もしかしたら疲れてたのかもしれませんね」
「その年齢で一人暮らしされてるんですから無理もありません」
俺はとりあえず固い愛想笑いを挟んで相槌を打ちつつ、一番気にしている問題に触れてみた。
「ところで、さっきの話なんですが……?」
「お話ですか? ……すみません、どんな内容でしたっけ?」
小首を傾げるアイシャさんを見つめて、俺の心中では安堵と驚愕が同時に湧き上がっていた。
すげぇよこの人。今までの一連のやり取りだけピンポイントで記憶消失してるよ。よっぽどクルシュたちの発言が衝撃的だったんだな。
俺が他人事のように分析している傍らで、アイシャさんはアゴに手を当て、視線を斜め上に飛ばして記憶を掘り起こそうとしていた。
「そういえば確か、クルシュちゃんたちの話題をしていたような……?」
「わおっ!? いやいや、大した話じゃないです! 面白くもなんともないですから忘れましょう!」
危うく記憶の扉が開きかけ、慌てて話題の方向を逸らす。
「それより早くお店に入りましょう。こんなところで立ち話していても他のお客さんに迷惑ですから」
とっさの閃きで案内を急かすとアイシャさんも快く頷いてくれた。
「それもそうですね。では中に入りましょうか」
そう言ってアイシャさんが宿の扉へと進んで行くので、俺とクルシュたちもそれに追従する。
宿で面接を受ける前からすでに俺の精神的疲労はピークに達していた。