十二話・ガルム
そよ風に揺れる木々のざわめき。森を飛ぶ小鳥の鳴き声。土と草のにおい。大自然の貴さを肌身に感じながら、俺は地面にうつ伏せで寝転がっていた。この大地に足が着く安心感。地上で暮らせることがこんなにも幸せなことだったのかと、人生二度目にして思い知らされた。
「生きてるって素晴らしい~」
「大袈裟だなぁ」
大自然を堪能している俺のすぐそばからクルシュの呆れ気味な声が飛んできた。
「シグレってホントに高いとこ苦手だったんだね」
「毎回階段降りるときへっぴり腰になってるとは思ってた」
「今のシグレくん、ちょっとカッコ悪いです」
「うるさい、ほっとけ」
子供三人に好き放題言われようと怖いものは怖いのだから仕方ない。こっちだって好きで高所恐怖症になったわけではないのだ。
内心ぶつぶつと不満をこぼしながら、渋々体を起こして立ち上がる。
「で、お前らどこまで飛んできたんだ?」
周囲を見回しても辺り一面樹木だらけ。あいにくと飛んでいるときの記憶がほとんどないためここが森のどこなのかまるで分からない。
「森の真ん中らへんだよ」
「またえらく深いとこまで……帰りどうすんだよ?」
「そりゃあまた飛んで帰るに決まってんじゃん」
「また、飛ぶのか……」
あの地獄のような体験を帰路でも味わうのか、想像するだけで再びあの気持ちの悪い浮遊感が思い出されそうになり、力なく首を振って思考をかき消す。
「安心して、にぃに。飛ぶ前に気絶させるから」
「お前はさらっとエグいこと言うな」
胸の前で拳を握るヴィムに軽い恐怖を覚えた。こいつ意外とアブノーマルな性格してるよな。
もはやいろんな意味でモチベーションが下がってしまったが、かといって今さらここで任務放棄すれば俺の飛行体験が無駄になってしまう。ここはもう無心で薬草採集に専念した方が得策だろう。
ある種諦念にも似た境地に至り、決意に首肯してるのか憂いに項垂れてるのか自分でも分からず頭を落とす。
「とっとと終わらせて帰るか。森の奥ってことは薬草もそこそこ生えてるだろ」
今の状況をむしろ利点と考え周囲を見回す。辺り一面雑草だらけでどれが薬草なのかパッと見判別不能だが、これだけ生えてりゃ一本くらい薬草はあるだろう。
「そうですそうです。私たちは薬草な多そうなとこに着陸したんです」
「我ながら見事な機転ね」
「ファインプレー、かな?」
「嘘つけぇ! 大方下りやすそうなとこにテキトーに下りただけだろ!」
三人のとってつけたような理由に反論すれば、三人の目が一糸乱れず泳ぐ泳ぐ。シンクロか。
「もう言い訳とかいいから、無駄口叩いてる暇があったら薬草採集に尽力してくれ」
三人の取り扱いに難儀しながら自分もとりあえず探索しようと一歩踏み出した直後、その声は不意に届いた。
『グルルル』
「……」
何か、獣の唸り声的な音が聞こえたような気がして俺の全身は硬直した。
落ち着け、たぶんクルシュの腹が鳴ったとかそういうオチだろ。努めて楽観的な思考に立ち直り、改めて背後の三人を振り返った。
「誰か今、腹鳴ったか?」
俺の問いに三人はほぼ同時に首を横に振った。違ったようだ。どうやら俺たちは今、楽観視できない状況に立たされているらしい。
そしてその予想を裏付けるかのように茂みの陰から突如として何かが現れる。
俺はとっさに正面に向き直り、その魔物の正体を視界に捉えて瞠目した。すぐ背後では三人の少女が特段怯えた気配もなくひそひそと会話を始める。
「あれ何だっけ?」
「ガルムだよ。山や森に生息する中型の魔物。」
「主に集団で狩りをするけど稀に単独で狩りをすることもあるみたい。冒険初心者にはちょっと手ごわい相手かも」
はい、解説どうも。ヴィムとリヘナの端的な説明を耳に入れながらも、俺はガルムと称される眼前の魔物から目が離せなかった。
体高約一メートル。外見はド―ベルマンを二回りもデカくしたような容姿をしており、黒い体色にところどころ茶色が混じっている。膨れ上がった強靭な筋肉と歯茎を剥き出しにして覗かせる鋭い牙が否応なしに捕食者であることを伝えてくる。
そんな魔獣の姿に目を奪われたまま、俺は率直な感想を述べた。
「可愛いな」
「「「え?」」」
そばで少女たちが驚愕する声が聞こえた気もしたが今はそれどころではない。あんなにも愛らしい姿をした犬を前にして感情を抑えられるはずがない。というか触りたい。
意を決し、なるべく刺激しないよう慎重に歩み寄る。
「ちょっ、シグレ!? 危ないよ!」
背後でクルシュが呼び止めるが俺の足は止まることなく進み続ける。悪いなクルシュ、男には無謀と分かっていても行かなきゃならない時があるんだ。振り返ることなく心の中でクルシュに詫びを入れ、ガルムとの距離が二メートルほどまで縮まったところで片膝をついた。
「おいで~」
敵意がないことを示そうと、口調を和らげ両手を広げて待ち構える。
するとどうだろう。ガルムは唸るのをやめて口を閉じると、そろそろと俺の方まで近づいてきたではないか。
『クゥ~』
それからガルムは甘えたような声を出して擦り寄ってきた。この愛嬌のある仕草はまぎれもなくイヌのそれである。可愛い。
「可愛い」
思ったことがつい口にも出てしまったが、構わずガルムを撫でまわす。毛は短いが滑らかで触り抱き心地が素晴らしく、いくらでも触れていたくなる。
こんな愛らしい生物が魔獣呼ばわりされている事実が甚だ理解不能だ。俺にはこんなにも人懐っこい生き物を討伐することなんてできない。
どうやら俺は、冒険者には向いていないらしい。もうどうでいいけど。
そんな結論を頭の片隅に浮かべながら、ただひたすらにガルムと戯れ続ける。そんな俺の背中に三つの冷たい視線が突き刺さった。
「……なんか」
「ヴィムたちと」
「扱いが全然違います」
背後で三人の少女が不満の声をもらしたような気もするが、目の前のワンコに夢中な俺の心にまで届くことはなかった。