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入道雲

作者: 髙津 央

 「――岳で八月十四日、風水市の小学校教諭ヤマカワ・ワタルさんが、沢で死亡しているのを山岳遭難救助隊が発見。下山中、急激に増水した沢水に流され溺水したものとみられます」


 聞き覚えのある名に顔を上げた。

 社員食堂のテレビが、誰も見ていない昼のニュースを垂れ流す。山の映像に顔写真と名前の漢字表記「山川渉(45)」のテロップが重なった。

 見覚えのある顔は二十年分、老けているが、小学三年の頃の担任に間違いない。


 「――岳では事故当時、急速に積乱雲が発達し、山頂付近はゲリラ豪雨に見舞われていました。複数の登山客から携帯電話で救助要請があり、尾根の岩陰などで動けなくなっていた登山客は全員、無事に救助されました」


 ――だって見たもん。


 頭の中であの日の教室と、山の景色が重なった。

 隣のテーブルで同僚が素麺をすする。飲み下したカラアゲの味が消えた。


 アナウンサーは他のニュースと同じ調子で、淡々と遭難事故のニュースを読み上げる。

 「尾根で動けなくなっていた男性から、救助隊に『四十くらいの男の人が、救助隊を呼んでくるって、一人で沢の方へ降りて行った』との情報提供があり、捜索したところ、山川さんが遺体で発見されました」

 それに続いて、「子供たちがショックを受けてて」「働き盛りなのにねぇ」「熱心な先生だったのに」云々と、夏休みだが緊急集会が開かれた小学校の前で、彼の死を悼む人々の気の毒そうな声が流れる。


 ――だって見たもん。


 あの日は小学校三年生の一学期。

 夏休み目前の理科の授業は、雨が降る仕組みや雲の種類についてだった。

 当時、教室にエアコンはなく、開け放した窓の外を川が流れていた。

 車道一本を隔てた向こうは、コンクリートで固められた都市河川だ。天気のいい日は水位が低く、子供の足首にも満たない。

 岸辺に葦はないが、流れの中で緑の水草が揺らぐ。時々、白鷺が舞い下りて何かを啄ばんだ。魚が居るのだろうが、水草が邪魔でよく見えなかった。

 授業に飽きた時、窓のすぐ下を流れる川のきらめきを視線で辿るのが好きだった。


 まだ若かった山川先生は、そんな態度が気に入らなかったのかもしれない。名指しで当てて、教科書に載っていないことを聞いた。

 「入道雲はどこにできる? さっきまでの説明、聞いてたら答えられるよな」

 「どこにでも。海でも山でもできます」


 即答すると、教室のあちこちから、くすくす忍び笑いが起こった。山川先生は盛大に溜め息をついて、雲が描かれた黒板を指さす。もこもこした雲の下には、雲を指す上向きの矢印三本、矢印の下には波線が描かれていた。


 「雲は海水が蒸発して、その水蒸気が空の高い所で冷やされるからできるんだ」

 一番下の波線は海らしい。授業をまじめに聞いていなかったのは本当なので、しおらしく先生の話に耳を傾ける。


 「だから、入道雲は海しかできない」

 「えっ? 山にもできますよ」


 続きを聞いて耳を疑った。先生の理屈で行くと、山には雨が降らないことになってしまう。思わず言うと、先生は苦り切った顔で、話をロクに聞かないバカな子に教え(さと)し、同じ説明を繰り返した。


 「だから、入道雲は海しかできない。ちゃんと聞いとけよ」

 「えっ……でも、ホントに、山とかも入道雲、できますよ」


 学校の横を流れる川は、かつて天井川だった。

 河川改修で川床を掘り下げられるまで、何度も大きな水害を起こしていた。社会科の地域学習の副読本で、自分たちの小学校の写真が載っていたので覚えている。数十年前の水害では、二階の教室まで水が上がっていた。

 現在は、川床が五メートルくらい下がり、護岸はコンクリートで固められたので、余程のことがない限り越水(えっすい)しないだろう。


 授業が退屈な日、ふと川上の山を見ると青空をむくむく押しのけ、入道雲が(そび)え立っていた。その下はまっくらで、そこだけ雨が降っている。河口に近い小学校の辺りは晴れなのに、ほんの十分くらいで水位が二メートルを越した。

 橋の傍の護岸には、水位を示す目盛がペンキで書かれている。黄色いラインを舐める茶色い濁流が、上流から太い枝や自転車を運んできた。


 「今の説明、難しかったか? 何でそう思うんだ?」

 「なんでって……見たから」


 あの日は恨めしいくらいの快晴で、川の水はほとんど干上がっていた。


 「見たって、そんなんじゃダメだろ。証拠は?」

 「えっ……証拠とかそんなの、何も……写真とか、ありません」

 「だから、そんなんじゃダメなんだって」

 「……だって見たもん」


 「だから、そんなんじゃダメなんだって。証拠もなしに何言ってんだ」

 先生が畳みかけると、教室のあちこちから(はや)し立てる声が上がった。

 「いつ見たんですかー?」

 「何年の何月何日の何時何分何秒ー?」

 「山の入道雲ってどんな形ー?」

 「俺見たことないー。お前は?」

 「いや、全然。見たことない」


 「こーら、お前ら! 授業中だぞ。静かにしろ」

 山川先生は明るくて頼もしくて、子供たちに人気があったから、みんなはその一言ですぐ静かになった。


 「みんなに質問だ。山で入道雲を見たことある人、手を挙げてー」

 先生が、場の空気を変える明るい声で言った。

 みんなはきょろきょろ周囲を窺い、唯一人、小さく手を挙げた奴で視線を止める。ニヤニヤ笑いと共に向けられる目、授業をちゃんと聞かないバカを見る目、軽蔑しきった目が刺さった。


 先生はしばらく待って、他に誰も手を上げないのを確認すると、逆の質問をした。

 「じゃあ、山で入道雲を見たことない人、手を挙げてー」


 みんなの反応は早かった。先生の声と同時に一斉に手が挙がる。

 唯一人、手を挙げない者へと向けられる視線は、侮蔑と優越感の糸が()り合わさって一本の綱になった。

 教室内に「偉い大人の先生と三十九人のみんな」対「授業をちゃんと聞かない一人」の図式ができあがる。


 「みんなも、見たことないって言ってるぞ。それでも、見たのか?」

 「……だって見たもん」


 小学三年生。まだ九歳の子供は、それ以外に反証の言葉を持たなかった。


 「今度からちゃんと授業を聞くように。今日のとこは教科書でちゃんと復習しとくんだぞ」

 小学三年生の理科の教科書には、雲の発生位置が載っていなかったが、その話はそれで終わってしまった。


 あの頃、「教室で一番偉い人」は、先生だった。その後もしばらく、それをネタにからかわれたが、先生がたしなめるとみんな言わなくなり、いじめには発展しなかった。



 ――だって見たもん。



 あれから二十年。三十歳を目前にした今なら、先生と同級生三十九人が相手でも、きちんと事象の観測を行い、データと理論を使って反証できる。

 大学の理学部と今の職場で、数多くのことを実地に学んだ。

 地方自治体と合同で行う住民説明会では、具体的なデータのグラフと模式図、写真をたっぷり見せる。専門用語は避け、なるべく簡単な言葉で語るよう、気を配った。



 入道雲……積乱雲は、強い上昇気流で急激に発達した雲だ。

 上空の冷たい空気と地表付近の暖かい空気、湿度、これらの気象条件が組み合わさり、大気の状態が不安定な時に発生しやすい。


 海でも山でも平野でも冬でも、条件が揃えば発生するのだ。


 積乱雲の下では、突風、雷を伴う大雨、(ひょう)など、短時間に狭い範囲で激しい悪天候に見舞われる。

 山中で出食わせば、(ガス)に包まれ方向を見失う。

 霧に濡れた服が突風に晒されれば、低体温症で生命も危うくなる。

 雷は横方向にも落ちるが、尾根付近には身を隠せる安全な場所がほとんどなく、山の神に祈る他ない。



 理科――科学で重要なのは、偉い人の意見や多数決の意見ではなく、事象の観察とデータの積み重ね、検証と考察だ。


 ――だって見たもん。


 環境防災関連のコンサルティング会社に就職し、防災部門に配属された今なら、先生が山でどう行動してあんな最期を迎えたか、よくわかる。

 あの時、きちんと説明できていたら、先生はまだ生きていただろうか。



 ――だって見たもん。



 過去の声に耳を塞ぐ。

 もうすぐ昼休みが終わる。窓の外は、夏を照り返すビルの陰影。隙間の青空を積乱雲が埋めた。

 同僚が次々と席を立つ。

 災害の予兆や発生があれば、監視や対策で盆暮れ正月の休みさえ吹き飛ぶ部署だ。

 感傷に浸る時間はない。

 定食を胃に詰め込む。ご馳走様の手をいつもより僅かに長く合わせ、ヘルメットを掴んで立ち上がった。

 夕凪もぐら氏主催の勉強会、短編企画「とこしえの夏唄 小説祭」参加作品です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 冒頭のニュースから、鮮やかによみがえる夏の教室の記憶。 自分が教室にいるような不思議な感覚になりました。小学生の考えというか、教室の雰囲気というか……。 そうだったよなと光景を共有できたの…
[一言] うみのまぐろさんの活動報告で紹介されていたのを辿って覗きました。 スルスルと頭にはいる読みやすい文章で、展開もキャラクターの性格もブレなく自然に理解できました。 少しハラスメントなことをし…
[良い点] 理科嫌いにはキツい説明でしたが、面白かったです。 あらすじまで含めた試合巧者っぷりも素晴らしい。 ワンテーマでの走りきるスタイルも好感です。 [気になる点] あらすじ以上の展開がない。 起…
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