プロローグ
照りつける真夏の日差しが肌を焼き、湿った温い空気が気管を通り肺へ送られる。
何度も何度もむせ返り、それでも走ることはやめない。
建物と建物の隙間を潜り抜け、大通りへ出ると後ろを振り返る。
隙間に見えるのは、赤く殺気に満ちた獣の目と唸り声。
全身に悪寒が走り再び足を動かす。
かつて国道であった道の中央分離帯の残骸の上を走ったが、いくらか進んだところで足を止める。
限界だ。もう15分は走り続けている。
息は上がり、心臓が爆発しそうなほど激しく動いている。
「はぁ・・・はぁ・・・くそッ!振り切れなかった・・・!」
後ろの気配にゆっくり振り返ると、そこには異形の姿をした化け物がこちらを睨み付けていた。
見た目は猪に酷似しているが、サイズが違う。軽トラックほどはあるかというような巨体に爛々と輝く深紅の瞳。
その奥からは沸き出る殺意が私に向けられている。
「・・・まだ合流地点までかなりあるのに!」
大通りに出たのは明らかに失敗だった。
隠れる建物も、利用できる障害物もない、
つまり、この化け物との一対一は避けて通れない。
どうする、未だに私の心は少しの迷いがあった。
だが異形の獣、アニマと呼ばれるその生物は待ってなどくれない。
姿に恥じぬ猪突猛進の体当たりを私目掛けて一直線に繰り出す。
単調な動き、避けることにそう苦労はしない。
ギリギリまで引き付け、一気に横へ飛びやり過ごす。
攻撃を空振りに終えたアニマはのそのそとした動きで振り返っている。
「やるしか・・・ないか!」
私は深呼吸をすると意識を右手に集中させる。
体の奥底から何かが沸き上がり、その後右手に青い粒子が集中する。
その粒子はある形を形取ると霧散し、後には透明な刀剣が私の手に握られていた。
「3班 水鳥雨音、戦闘を開始します・・・!」
獣が咆哮をあげ再び突進を繰り出した。
しっかりと見切り、横に跳躍して避けると右手を地面につけ、それを軸にして即座に切り返しアニマを追う。
さすが猪と言ったところか、直線の速度は車にも引けをとらないほど高速の突進、
だが動きが単調だ。
突進の後は振り返るまでに大きな隙が出来る、
そのときに攻撃なんか入れ放題だ。
「せやあああああ!!!」
叫び声を上げ剣を掲げてアニマの胴体目掛けて振り下ろす。
完璧に入った・・・と、錯覚した。
下ろされた剣は鈍い音をたててアニマの体を鳴らした。
その切っ先は体毛一つ切断出来ていない。
「くそッ!またなの!?」
攻撃を受けた猪が前足を上げ、落下の反動で後ろ足を蹴り上げ私の体を狙う。
バケツのような大きさの蹄、当たれば無事では済まない。
「ぐっ・・・ッ!!!」
反射的に後ろに飛び退いたが、わずかに先端にかすってしまう。
それだけなのに、体は大きく後退させられ衝撃にむせ返る。
「・・・落ち着け、落ち着け。」
剣を握る手が焦りで汗ばむ。
どうしてうまくいかない、
あのときはどうだった、
わからない、
思い出せない。
落ち着こうとすればするほどに不安と焦燥が胸の中を黒く染めていく。
自らの事に完全に気を取られていた。
その隙を突かれアニマの体躯による突進が、既に目前に迫っていた。
「しまっ・・・!?」
判断が一瞬遅れた。
この速度では避けられない・・・!
「うりゃああぁ!!!」
甲高い叫び声と共に桃色の一撃がアニマを吹き飛ばし、壁に叩きつける。
危機一髪無傷で済んだことに胸を撫で下ろし周囲を確認すると、幼い容姿の女性がハンマーを片手に持ち立っていた。
「ごめんねぇ、思ったより手間取っちゃってさぁ。」
「すももさん、ありがとうございます・・・」
「すももでいいよぉ・・・おっとぉ?」
彼女は壁の奥のアニマを見て再び構える。
土煙の向こう、赤い眼光は輝きを失っていなかった。
「しぶといなぁ。でももうそんなに長くないよねぇ。雨音、行くよぉ。」
「すももさん、私・・・」
「大丈夫、状況は理解してるし想定内だからさぁ。雨音は一瞬、注意を引いてくれればいいよぉ。」
「・・・わかりました。」
情けない。
こんな結果を招いてしまって。
申し訳ない気持ちで胸が押し潰されそうだ。
「気負いすることないよぉ。私も新兵のときは役立たずだったからさぁ。」
「・・・すももさんは、いつから戦場に?」
「二年くらい前かなぁ、なかなか能力に目覚めなくて・・・って雑談は後にしないとねぇ。」
アニマが動き出した。
同時にすももは駆け出し、アニマの側面へ回り込む。
私は正面で対峙。
アニマは、動物が生物兵器として改良されたものだ。
運動能力や生命力は強化されていても、元々の生態や大まかな身体的特徴は残されている。
あれが猪と同じ生体なら、立体的に見えるのはほぼ正面のみ。
すももの場所なら、視界には入れども距離感までは分からないはず、
ならばと、私は剣・・・ただの棒を握り直し、思いきり大きく動く。
大袈裟に突進しては撤退、これを繰り返せばやつも動くはずだ。
「こっち見ろ!!!」
半ばやけくそに近い声の上げ方だが、どうやら意識はこちらに向いたらしい。
先程と同じ構え、高速の突進が来る。
そして、予想通り直線的な突進が迷いなく私に襲い来る。
「避けられるっての!」
何の変化もない、直線の突進・・・
そう思っていた。
物体をとらえられなかったその獣は足を巧みに駆使し、ほぼ半回転に近い切り返しを見せた。
完全に油断と虚を突かれた私は正面からモロに喰らってしまう。
「がはッ!?」
間一髪ガードは間に合った。
間に合いはしたが、人の数十倍はある重量が加速という力を加えてぶつかったのだ、
私の体は後ろに大きく吹き飛ばされ、建物に衝突して停止した。
「くっ・・・何なのあのでたらめな攻撃は・・・!」
体が建物にめり込んでいて抜けない・・・?
いや、強烈な一撃で体が痺れているんだ。
生きているだけましだが、どうしたものか。
眼前で鋭い眼光が私を見つめていた。
生臭く温い鼻息が吹き掛ける。
「ぐ・・・ッ!」
ダメだ。指先一つ動かせない。
諦めるしかないのか。
・・・いや、
どうにか助かりそうだ。
「ナイス雨音。お陰で十分すぎる溜め時間だ・・・!」
アニマのすぐ横に、彼女は立っていた。
いつものゆったりとした話し声ではない。
落ち着きのある、それでいて情熱のこもった声、
その豹変様に軽く恐怖してしまいそうだ。
「潰れろ・・・!!!」
手にしたハンマーを大きく振り上げる。
見るとその形の周りにはオーラのようなものが漂っている。
そして、
アニマ目掛け一気にそれを振り下ろした。
「完全玉砕!!!」
放たれた全てを粉砕する彼女の一撃は、容易く巨体の息の根を止めた。
・・・が、そんな化け物じみた破壊力の一撃、衝撃で私の意識は軽く吹き飛んでしまったのだった。