彼女の琴線
まさか今日≪Drops≫に赴いたことがキッカケで、こんな場所にいるようになるとは思わなかった。
冷たい空気のただよう廊下の長椅子に、萌奈美と茉夜、それにおれは医者からの報告を待っていた。
あのあと救急車を呼び、茉夜の母親は苦しそうな顔でストレッチャーに乗せられ、この病院へと搬送される。
その後一時間以上たつが、いまだどうなったか報告はされていない。
今はただおとなしく待つしかないのだ。
おれのとなりでは、肩を落としてしょげこんだ萌奈美が座っている。
「だいじょうぶだ。きっと良くなる」
胸休めだがおれが力強くうなずくと、彼女はちいさく笑ってうつむいた。
少し離れた位置には、壁に背をあずけた茉夜が、こっちなど素知らぬていで中空を見つめている。
その横顔には憂いをふくんでいたが、口元が負けん気を発揮したみたいにやや持ち上がっていた。
じっと眺めていたら視線に気づいたらしく、彼女と目が合う。
瞬間、柳眉をつり上げ、キッと厳しい横目で睨まれた。
べつにこういう場所でけんかをするつもりはない。
おれは治療室の扉に意識を移した。
お母さんは無事だろうか……。
と言うかそもそもなぜ、急に呼吸を荒げて苦しそうにしゃがみ込んだのだろう。
娘の茉夜ならその事情を知っているはずだ。
ツンツンした態度を保ったまま、強気な姿勢をくずさない彼女――。
腕時計を見ると、夕方の五時になりつつある。
店の二人は、帰ってこないおれたちのことを心配していると思う。
おれは黙って床に目を落としていた萌奈美に声をかける。
「ちょっと電話してくるわ。サツキさんたちに連絡しとかないと」
彼女はこくりとうなずいた。
ロビーから戻ってくると、二人はいなくなっていた。
もしやと思い、つきあたりの固い扉を引いて、そっと中を覗いてみる。
茉夜と萌奈美、それに看護師さんが背を向けて立っているのが見えた。
かたわらのベッドには茉夜の母親が寝かされていた。
まだ顔色はすぐれないようだが、何やら話をしている様子。
おれは中に足を踏み入れ、こっちに気づいた看護師さんに会釈をしてから、母親のそばに立った。
「どうですか。具合のほうは」
すでに訊かれたであろう言葉を控えめに送ってみる。
マヤ母は弱々しく微笑んで、かけられたシーツから手を出した。
おれのほうを見つつ、ゆるゆると手招きをしてくる。
何だろう……。
ベッドのはしに身をかがめ、顔を近づけたら――。
ぱちん。
デコピンをされた。
「えっ?」
「どう? びっくりした?」
「あっ、はい。まあ……」
額に触れながら、何事だろうかと拍子抜けしてしまう。
母親はまた弱々しく笑った。
「急に襲ってくるの。なんの前ぶれもなしにね」
言っている意味が伝わらなかったので、首をかしげた。
すると母親はシーツをめくって、自分の左胸に手をそえる。
「生まれつき弱くってね。しばらくは調子がよかったんだけど」
「心臓、ですか?」
声をおさえて問いかけると、彼女はそっとうなずく。
「最近また症状が出てきて、茉夜が面倒みててくれたんだけど、みんなに迷惑かけちゃった」
「いや、迷惑だなんて……」
「さっきは驚いたでしょう? 心配かけてごめんね」
母は申し訳なさそうに目を伏せる。
つまり心臓に病を抱えていたってわけか。
――ということは。
すぐさまムカッ腹が立ってきた。
「じゃあお前があんな事をするのがいけなかったんじゃないか」
仏頂面でおれを眺めていた茉夜を、つい厳しく睨んでしまう。
母親が心臓をわずらっているのを知りながら、バイクで部屋に飛び込み空吹かしをくり返し、挙句の果てにはおれ目がけ突進するような威嚇行為をみせた。
当然、そばにいたお母さんの身体に悪影響を与えたはずだ。
茉夜はおれの視線に動じることなく、むしろ冷えた目つきで睨み返して、口を切った。
「私は邪魔者を追い払っただけ。あんたがさっさと出て行かないのが悪い」
「邪魔なら普通に言葉で伝えればいいだろ。べつに嫌がらせをしたくて家に上がったわけじゃないぞ」
「やっぱりあの時、タイヤで踏みつけておけばよかった」
「いい加減にしろよ。おれにだって切れる堪忍袋の尾はあるんだぜ?」
「フン」
このままだとヤバイ。
相手が女の子だから口論だけのやりとりになっているが、もしも男同士なら外に出てつかみ合いになっているだろう。へたすりゃ殴り合いだ。
茉夜が頑なな態度で退きそうにないため、おれは憤った感情をのみ込んだ。
張り詰めた空気のなか、母親が肘に体重をのせて、ゆっくりと上体を起こしてくる。
おれに対し、何か話したいことがあるらしい。
めがね少女に介助され、こっちを見て微笑しつつ、まだ色のよくない唇を開いた。
「茉夜はね。小さい頃からこうなのよ。暴れん坊で火が着きやすくて、ワガママで無愛想で、自分のいけ好かない相手にはとことん心を開かないの」
一度息を吸って、続きを話す。
「訪問販売で家にあがったセールスマンが帰らない時に、テーブルひっくり返して追い出したことがあったわ。あと猫を捨てていた男にドロップキックして喧嘩をふっかけたり」
何を言うかと思えば、娘の悪口めいたものを並べている……。
しかも本人を前にしてそういう話をするかと、おれは思わず吹き出しそうになった。
現に黒髪少女のおでこにピキリと青筋が立つ。
眉や口の角度がぐっと吊り上がり、なぜか怒りをおれのほうに向けてきた。
母親はそんな憤慨する娘の頭に、そっと手をのせる。
やわらかそうな髪を撫でつつ、相手の表情を落ちつかせた。
「でもね、この子は短所ばかりじゃないの。いいところだっていっぱいある。……大江くんって言ったっけ?」
問われたおれは、黙ってうなずいた。
「これからこの子、茉夜のことを見て、いろいろと知って欲しいの。そして大江くん自身で、茉夜のいい所を見つけてくれるとうれしいわ」
優しい手つきで娘の頬に触れた。
「人付き合いがぶきっちょで、怒りっぽくて愛想がぜんぜんなくて、目つきが悪いからたまに不良に絡まれるけど」
茉夜はほのかに顔を赤らめ、その手を受け入れている。
そして母親は、疲れたように身体を沈めて、あおむけになった。
「茉夜のことよろしく頼むわね。男の人のこと毛嫌いしてるけど、大江くんなら、なんとかしてくれそう……」
だんだん声音が落ちていき、精魂つきたように喋るのをやめて、すっと目を閉じた。
白い壁にかこまれた治療室に、水を打ったような静寂がただよう。
どうやら眠ったらしい。
それまでやりとりを見守っていた看護師さんから、そろそろ退室してほしいと伝えられた。
「おまえがバイトを辞めた理由、なんとなくだけどわかったよ」
先に部屋を出てこっちに背を向けている黒髪少女に話しかけた。
「お母さんの身体が心配だから、なるべく一緒にいる時間を増やそうと思ったんだろ?」
返答せずに、ただじっと立って沈黙を保っている茉夜。
その背中から、勝手な推測をするなという拒絶じみた態度が感じられた。
おれは鼻からため息をついて、窓の風景に目を移した。
陽の暮れた空は赤紫色に染まっており、広がる建物には灯りが点々とともっていた。
茉夜が足を踏み出して、帰るようなしぐさをみせる。
母親が入院することになったため、彼女はこれから自宅に着替えを取りに行かなければならない。
よっておれは去っていく姿を黙って見送ろうと思った。
思ったのだが、その時、となりにいた萌奈美が前に進み、茉夜の正面に立つ。
おびえた表情をしているが、どこか決意めいた強さが目にふくまれていた。
「あの……ハルキくんと……」
「何よ」
茉夜の凛とした声音が言葉をさえぎった。
「だから、あの……」
視線を床に下げためがね少女であったが、手をぎゅっと握ったあと前を向く。
「ハルキくんと、仲良くしてくれると、うれしいの」
か細いながらも真摯な口ぶりでそう伝えた。
茉夜は威圧的な態度で腕を組み、片足を横にずらす。
「それだけ?」
「う、うん……」
「仲良くしなきゃいけない理由なんてないわ」
答えを待っていた萌奈美に、茉夜は睨みを利かせすっぱり言い切った。
めがね少女はおびえたように身をこごめる。
「理由って」
「ただバイト先で顔を合わせただけの客じゃない」
「でも……」
「あんたやあいりで勝手に友達でも何でもなって仲良くしてればいいのよ。私まで巻き込もうとしないでくれる?」
辛らつな口調で言い込まれている。
萌奈美はこれ以上どう喋っていいのか戸惑うように、胸の前で指先を絡めた。心なし瞳がうるみ――
だが気丈に、また口を開く。
「茉夜ちゃんも楽しいと思うよ? お店にだって、もどればいいと思うし」
「そんなの自分で決めるわ」
「せっかく続けてたんだから、サツキさんも心配してたし、その」
不器用に、しかし懸命に言葉をつむいだ。
「お店に茉夜ちゃんが居てくれたほうがいいって、言ってたよ」
「本人に承諾もらって辞めたんだから問題ないじゃない」
「それはそうだけど」
「バイト辞めた人間追い掛けまわして何がしたいわけ?」
「だからハルキくんと……」
「私とは関係ないわ。正直そういうの興味がないもの」
思いを伝えようとするが、何を言っても冷たく返される。
「また、いっしょに働こうよ。そうしたらきっと、興味も出てくると思うし」
「あまりしつこく言うと怒るよ。いっぺんぶたれたい?」
「茉夜ちゃん……」
萌奈美はだんだん自分の不甲斐なさが悲しくなってきたらしく、泳いだ目で閉口して下を向いてしまった。
手や膝がちいさく震えている姿におれは胸を打たれた。
もう見ていられない。
おれは二人の間に進み寄った。
足音に気づいた茉夜がめんどくさそうにこっちを見る。
「何?」
「ちょっとおれの思っていること、喋ってもいいか?」
「いらない」
厳しく目を細め、あっさりと断じられてしまう。
しかしそんな邪険な対応を無視して、話を続けてみることにした。
「おまえの人生だから何をしようがおまえの自由だ。バイト辞めるのも自由。おれを毛嫌いするのも自由。……そうだろ?」
「知らない」
「まあ聞け。話は変わるけど、高校時代なんて多分あっという間に終わるよ。そのあと進学したり社会に出たり、人それぞれだ」
茉夜は訝しそうな表情で、「だから何なの」とぶっきらぼうに返す。
「つまりだな。高校時代にしかできないことってあると思うんだ。いずれ大人になったら、たまに高校の頃をふり返る時だって来るはずなんだよ」
おれは一拍置いてから、言葉を続けた。
「要するに仲間だ。あいりと萌奈美。それにサツキさんやおれ。あとは茉夜が加われば、きっといい思い出作りができると思うんだ」
もう一人、ゆらながいたが、言い忘れていたことによりここは省いた……。
「おまえ、おれのバイク修理してくれたじゃん。おまけに洗車してワックスまでかけてくれたじゃん。わるい奴ならそんな気遣いはしないと思うんだよ」
「……」
「おまえのそういうところ、ずっと感謝してたんだぞ」
礼が遅くなったのを一言わび、「ありがとうな」と、ようやく謝意を述べることが叶う。
「こういうふうに助け合って、いろんな思い出を作ろうぜ。みんなといっしょに」
茉夜は目を閉じて静かに聞いていた。
気のせいだろうか……。
お礼を告げたとき、それまで尖っていた目尻が一瞬、やわらいだように見えた。
てっきり鼻を鳴らしてかわされると予想していたのに、ちょっと意外である。
おれは息をついて、彼女の肩にポンと手を置く。
「言いたいことはそれだけだ。まあ、おまえの好きなようにすればいいさ。しつこく話しかけてわるかったな」
案の定、肩にのせた手はあっさりと打ち払われてしまう。
そして茉夜は身をひるがえし、長い廊下を綺麗な姿勢でこつこつと歩いて行った。
彼女を説得したつもりだが、おそらく思いは通じていないだろう。
もしかするとこれが最後のお別れになるのかも知れないな。
それはそれで仕方がないと思う。
人の気持ちを動かせず、どうにもならないことだってある。
その後。
車で到着したサツキさんとあいりに経緯を話し、ほどなくして四人で帰途についた。