黒髪少女と暴るる鉄の馬
「さあ。どうぞ上がってね」
萌奈美と二人で靴を脱いで、勧められるまま廊下を歩いた。
そしてちゃぶ台のある和室へと通されたおれたち。
ざぶとんの上でおとなしく待っていると、湯気のたつ日本茶をおぼんにのせた母が、笑顔をたたえて入ってきた。
「お茶でよかったかしら? コーヒーや紅茶もあるけど、どうする?」
あまり気を使わせるわけにはいかないので、おれは萌奈美のぶんも含めて、「これでいいです」と返答。
それからたわいのない世間話をした。
三人でお茶をすすって、ちょうど始まった午後のニュース番組を観ながら世情について意見をのべ合う。
つづいてマヤ母いわくお気に入りで大得意のボードゲームがちゃぶ台にひろがった。
萌奈美もまじえ、三人でそれなりに盛り上がりつつ、ルーレットを回しコマを進めて一喜一憂する。
数ゲーム楽しんだあと、今度はちゃぶ台の下からジェンガが登場した。
みんなでブロックを積んで、誰から引こうかジャンケンをしようと――
「ちょっと待ってくださいお母さん!」
こんな調子ではいけないと思い留まり、手首をクロスして穴をのぞいていた母親を差し止めた。
「おれたちはお茶を飲んでゲームに興じるために今日ここに来たんじゃないんです」
積み木の垂直具合を調節していた萌奈美は両手を引っこめて膝にのせた。
それからおれの意見に同意するようにふんふんとうなずく。
マヤ母はきょとんとした顔で手首のクロスをほどいた。
「そうなの?」
おれは居ずまいを正して、本日来訪した理由を説明する。
なぜ茉夜が突然バイトを辞めたのか知りたかった。
同じ屋根の下で暮らす母親なら、なにか心あたりがあると思う。
もしかするとヤツを連れ戻すきっかけだって見つかるかもしれない。
そういった展開に期待して、説明し終えたところ、階段を下りてくる足音が聞こえてきた。
となりの台所兼食卓を仕切るガラス戸に、ぼやけた人影がうつる。
「ねえお母さん。おやつ買ってきてくれた?」
聞き覚えのある声だが口調は違っていた。
食卓にのったビニール袋をがさがさとかき混ぜる音がする。
あわせて機嫌の良さそうな鼻唄も聞こえてきた。
「これ袋があいてるけどもらってもいい?」
おそらくさっきのキットカットのことを言っているのだろう。
母親は明るい声で、「いいわよ」と返事をした。
そして、なぜかおれたちに向かって唇に一本指を立て、静かにするよううながしてくる。
「ありがとう」
向こうの部屋でお菓子の包みを二つ三つとる様子があった。
次いで人影が横に移動し、
「今日の晩ごはんは何にするの? 私も手伝――」
Tシャツに短パンの茉夜が姿をあらわす。
言葉を途中で止めて、食べかけのチョコ菓子がぽろりと床に落ち。
ざぶとんに座るおれに視線を張りつかせた状態で、凍りついたみたいに固まった。
「……」
「やあ。おじゃましてるぞ」
片手をあげて挨拶したものの、彼女は口を開いたままで、とくに反応は示さない。
おれは母親にどうするべきかと目をやったが、平然とした顔で小首を倒された。
正座をするめがね少女のふとももには、いつのまにやら白黒の猫が寝そべっていた。
背中を優しくなでられ気持ちよさそうにあごをくっつけ喉をごろごろ鳴らしている。
なんだこの状況……。
茉夜の顔がみるみる真っ赤になっていく。
うつむいたあと、肩をわななかせていたと思えば急におもてを上げて、
「いるならいるって、先に言え!」
嘆くようなセリフを残してドタバタと駆けていった。
「お、おいおい」
制止の手を伸べたが時すでに遅く、彼女はどこかへ行ってしまった。
母親はしかたなさそうな顔で肩をすぼめ、欧米人みたいにゆるゆると首をふる。
めがね少女は猫を愛でるのに夢中のようだったが、茉夜が駆けていったことを気にしはじめた様子。
どうしよう……。
今日はもう帰ったほうがいいのだろうか。
しかし何の情報も引き出せないまま手ぶらで帰ったりしたら、サツキさんに申し訳がたたない気がする。
それに泣く泣く留守番をあずかることになったお元気娘にもわるいような感じだってする。
どんな行動をとろうか思案していた時、どこからともなく力強いエンジン音が鳴り響いた。
庭のほうからだ。
おれたち三人は何事かと首を動かした。
勇ましい空ぶかしが数度続いたあと、うなりが静まったと思うや否や、アクセルを一気に吹かす音が耳をつんざく。
瞬間、前輪のもち上がったバイクがふすまをブチ破って飛び込んできた。
「うわあ!」
ブレーキをかけて止まりはしたものの、バイクにまたがる茉夜の目は完全に据わっていた。
ここは畳の敷かれた和室だという認識を無視して、おれ目がけて突っ込みそうな威勢があった。
口をへの字にして、憤怒をあらわすみたいにアクセルをくり返しひねり、混合気を燃却室に送り続けている。
どうやら母親と接していた光景は、見てはならないものだったらしい……。
仏もびっくりするような仏頂面だ。
「おい。落ちつけ。ここは部屋の中だぞ。場所をわきまえろ」
焼けたオイルの混じった白い排気ガスに咳き込みそうになった。
萌奈美は正座のまま、おびえたように口を真一文字にしてあっけにとられている。
寝ていた猫は目を覚ましたが、のんびりと後ろ足で耳もとをカツカツ掻いていた。
茉夜の怒りは鎮まりそうにない。
おれが戒めても絶対に聞きそうにないので、いい加減お母さんに注意してもらおうと思った。
困惑した目を送ると、その訴えが功を奏したのか母は腰を上げて娘に近づく。
「茉夜ちゃん、ダメでしょ? お客さんが来てるんだから」
エンジン音のやかましいなか、やわらかい口調でそう伝え、落ちていたキットカットを拾って娘の口にもっていった。
茉夜は憮然とおれを見据えたまま、お菓子をくわえもぐもぐと噛む。
「どう? おいしい?」
「……」
無言でおれをロックオンした状態をくずさない茉夜。
代わりにクラッチレバーを離して、駆動系に動力を伝達し、タイヤを高速で空回りさせた。
後輪が激しい擦過音を立てて、削られた畳のちりが中空に舞い上がる。
まったく、なんてヤツだろう……。
いったんキレると、すぐには収まらない性質をしているらしい。
っていうか、母と仲良く接している姿を目撃されるのがそんなにショックだったのだろうか。
彼女の頭の構造がよく読めない。
おれがこれ以上ここに居ると、ふすまや畳のみならず、部屋の中の物がどんどん破壊されてしまう。
そうだ。原因はおれにあるのだ。
さっさと出て行けという意思表示を、茉夜はバイクで暴れることによって伝えているのだ。
よっておれはすぐさま座を離れ、動揺するめがね少女の手を引いた。
「萌奈美。外に出るぞ!」
拍子に猫が「みゃおん」と畳に転がったが、構わずお母さんに一礼してその場をあとにする。
案の定、部屋を出ると茉夜の怒りはいくぶん鎮まったようだ。
暴威の音を立てていたエンジンがようやくおとなしくなった。