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心の距離



 翌週の日曜日。

 快晴の空の下、おれは峠の喫茶店を目指して愛車を気分よく走らせていた。


 道中これといったトラブルもなく山道を上ったあと、脇の小道に入って木々のアーチをくぐった。

 木漏れ日に迎えられ、広がる敷地に出た時だった。

 なにやら喫茶店の広場に似合わない光景に、おれは車体を停止させて足を着地。


「じゃあ投げるよあいり。三振したら減給。ヒットを打てたら時給二割り増しね」

「ぜったい打つ。何がなんでも打つ。でもサツキさん、もしも林の向こうまで飛んでホームランだったらどうするの?」

「その時は倍額だ」


 プラスチックバットを構えるあいりの両目が荒ぶる炎に変わった。

 ピンクのボールを手にセットポジションに入った雇用主――サツキさんは、キャッチャー役の少女を意気揚々と見据える。

 あいりの足元やや後方には、丸いめがねを掛けた少女が両膝立ちで、ひらいたミットを構えていた。

 正確に言うならば、おびえたように片眼を閉じて、ミットをはめた手をめいっぱい伸ばし、これから飛んでくるボールよりなるたけ距離をとろうと顔をそむけている様子。


 ……明らかに逃げ腰なのが伝わってくる。


 あんな具合では少女の顔面がミットになってしまう。

 そう予想したので、おれはクラクションを二回鳴らして三人に声をかけた。


「おーい。また来たぞー」


 声といっしょに手をあげて注意を引く。

 すると気付いたあいりが、火炎の双眸を打ち消し、攻撃態勢をといて瞳を輝かせた。

 雇用主との対戦をあっさり放棄した彼女は、バットをちぎれんばかりに振り回して、うれしそうに駆け寄ってくる。


「いらっしゃい、お兄ちゃん! ずっと楽しみに待ってたよ」

「おう。相変わらず元気そうだな。ってか何で野球やってるんだ?」


 脱いだヘルメットを手に訊ねると、あいりの後ろからサツキさんがボールを弄びながら近付いてきた。


「やあ少年。一週間ぶりだな」

「あっ、こんにちは。この前はどーも」

「今日は天気がいいからな、退屈しのぎに外で遊んでたんだ。昼食の客がみんな帰って暇だったんだよ」

「アタシがヒットを打ったらみんなの時給を三倍にしてくれるんだって!」


 お元気娘が嬉々とした顔で両手を高らかに広げた。

 ……時給三倍? たしか二割り増しって言ってたぞ。


 勝手に交渉設定を変更している彼女をそっちのけに、雇用主が腰に手をあてて車体を覗き込む。


「バイクは調子良さそうだね。あれから何か不具合はあった?」

「おかげさまで快調です。プラグも新品に交換してくれたんですね。修理代は本当に払わなくても?」

「ああ、別にいいよ。この前みたく店の品を注文してくれればそれで構わないから」


 サツキさんは快活に笑いつつ、顔先で手を左右に振った。


「気前がいいんですね。ヨ、太っ腹」

「大江くんが来るとあいりが喜ぶしな。できれば他のみんなとも仲良くしてね」


 おれはそこではたと思い出したことがあり、その人物がどこにいるか、周囲を眺め渡す。


「そういえば茉夜ちゃんでしたっけ。あの子は今お店の中に?」

「茉夜なら今日は休みだよ。乙四の試験日だからね、そっちのほうに行ってる」


 なるほど。どうやら資格試験のために休んでいるらしい。

 と言うことは今日は会えないというわけか。

 先週のお礼がてら茶菓子を買ってきたんだが、これは直接渡すことはできないな。

 まあ仕方がない。今日はお土産だけみんなに渡すとすっか。


 少し心残りな感じで視線を広場に向けてみれば……。


 おや? あそこにキャッチャー役をしていた子が佇んでいるぞ。

 はめていたミットを胸に抱きこみ、寂しそうな上目づかいでこっちを眺めている。

 まるで置いてきぼりにされた感じ。


 おれは傍らにいるあいりに話しかけてみる。あいりは立てた一本指にバットの底をのせて、バランス遊びをしていた。


「なあ、あの子ってたしか、熊谷萌奈美ちゃんだっけか?」

「そうだよ。萌奈美ちゃんはね、今日は特にガンバッたの。茉夜ちゃんのぶんをカバーするために、調理とオーダーどっちもやったんだよ」


 と、今度は両手を水平に伸ばし、つま足にバットをのせて、難易度の高い芸当にチャレンジしている。

 おれは輪から外れているめがね少女を誘ってみることにした。


「なあ、キミもこっちに来いよ。お土産があるんだ」


 呼ばれた少女は驚いたように肩をビクンと跳ねさせ、気まずげな顔で指先をもじもじ絡めはじめた。

 なんだか人見知りの激しさがよく伝わってくる佇まいだな。


 おれは背負っていたデイパックを下ろして手を入れる。

 すると『お土産』という言葉に反応したのか、バランス遊びをつま先からおでこに移していたあいりが、バットを地面にコトリと落とした。

 そして期待に満ちた星粒だらけの目で、うれしそうに自分の両脇を開け閉めする。


「なになになに? なにを持って来てくれたの?」

「いやお前に渡すために持って来たんじゃないんだ。茉夜って子のお礼のためにだな」

「いいから見せて。早く早く」


 まといついてきたお元気娘を腕で押しのけつつ、めがね少女にもう一度声をかけてみる。


「来いよ萌奈美ちゃん。そんな所につっ立ってないでさ」


 水を向けてみたが、どうしようか戸惑っているらしく、地面とこちらを交互に見ているだけ。


 ほどなく経って決心がついたのか、緊張感のある歩調で、ゆっくりと足を運んできた。

 まるで自分の歩幅で距離を測るみたいな、慎重な足どり……。

 サツキさんは身体をよけて彼女の入るスペースを作った。

 けれどそのスペースの手前で立ち止まった彼女は、ガチガチ震えながら、カタイ目鼻立ちで小さくお辞儀をしてくる。


「い、いらっしゃいませ……」


 消え入るような声のあと唇をきゅっと結び、おびえたみたいにうつむいてしまった。

 伸ばした指先を擦り合わせて、気づまりな感じにまた上目づかいをはじめる。


 そういえば前回、初めて会った時はホウキを落として逃げていったんだよな。

 あの反応と比べたらまだマシだろうが、そろそろ馴染んで欲しいぞ。

 こちらが心を開いて接しているのに、警戒心丸出しな態度なんて正直悲しいものがある。


 あいりは油断したおれから菓子箱を素早くうばいとり、戦利品よろしく頭上にかかげた。


「おぉ! ひよこまんじゅうだあ。ひよまんぴよまん!」


 暖かい陽射しを受けながらその場をくるくる回りだす。

 サツキさんはそんなおれたちを楽しそうに見てきびすを返した。


「じゃあわたしは仕事があるから、そろそろ部屋にもどるよ。大江くん、ゆっくりくつろいでいってね」


 そう言い残して店の入り口へと向かっていく。

 遠ざかる後ろ姿に見惚れたわけではないが、ホットパンツで引き締まった部位が印象的だった。

 見送ったあと、片手で菓子箱を抱いたあいりに手を引かれた。


「ねえお兄ちゃん、お昼ごはんもう食べた?」

「いや、まだだ。今日もこの店で食べようと思ってたんだよ。腹が減ってるから何か作ってくれ」

「わかった。じゃあアタシたちも中に入ろ。萌奈美ちゃん、出番だよ」


 調理担当の友人に声をかけて、おれの背中をぐんぐん押していく。



 店に入って以前と同じ席に案内された。

 お元気娘がとなりへジャンプ座りして、開いたメニューをテーブルに置く。


「今日は何食べる? お兄ちゃん」

「待て待て。おまえまた横に座ってくるのかよ。おいこら、窮屈だからくっついてくるな」

「ここがいちばん落ちつくの。ねえねえ何にしようか?」

「仕方ねえな。……じゃあ今日はこれだ。ハンバーグステーキセット」


 がっつり食いたいので迷うことなく指をさし、一緒にコーヒーを注文した。

 っていうか、こいつの慣れ慣れしさをあの萌奈美ちゃんに少しでも移せたらいいんだがな。

 あいりがおれの腕に肩をくっつけたまま片手をあげて、大声でオーダーを入れた。


「萌奈美ちゃん。コーヒーとハグステ一丁!」


 調理場の入り口に佇んでいた萌奈美ちゃんは、おずおずと目を泳がせて、コクンと小さく応じる……。

 おかしな略称で注文したあいりは楽しそうに頬杖をつき、それから足をブラつかせてこっちに世間話を振ってきた。

 おれはそんな問わず語りをそらで聞きながら、他に客のいない店内を眺めた。



 いくらか時間が経ち、コーヒー片手に腕時計を見ると、もうかれこれ十五分になる。


「――でね。アタシ、ねりハミガキはだんぜんパイナップル味がいいの」

「なあ、あいり」

「なぁに? お兄ちゃん」

「注文した料理、ちょっと来るの遅くないか?」


 ハミガキの味について得意げに語っていたお元気娘が返答する。


「あっ、ハンバーグはね、少々お時間がかかるのよお兄ちゃん」

「そうなのか?」

「アタシは詳しくわかんないんだけど、なんだかいろいろと手間どるメニューなんだって」

「へえ。だったら焼き貯めしとけばいいんじゃねえの」 

「萌奈美ちゃんはそのへん律儀だから、こだわりがあるみたいよ?」


 てっきり冷凍ものをレンチンしてすぐに持ってくると思ったが、ここの料理はあの子が一から作って提供してるんだとか。


 そして、となりから聞こえるよもやま話に適当な相槌を打ちつつ、コーヒーを味わって飲んでいると、めがね少女が中から姿を見せた。

 銀のトレイをそろりそろりと慎重に運んでくるのはいいが、まるで平均台を渡っているみたいな足どりだ。


 注文の品をテーブルに並べるや、そそくさと小走りで去っていこうとする。


「待ってくれ。せっかくだからキミもここに座れよ」


 うしろ姿に呼びかけると、はたと立ち止まった萌奈美ちゃん。肩をすくめた姿勢でこわごわ振り向く。


「……」

「あっ、もしかして他に用事があったりすんのか?」


 訊ねると何を慌てているのか首をせわしく横に振った。ふたつに結んだみつ編みがその慣性で、右へ左へふるふる舞う。

 どうやら特に用事はないらしい。

 おれは掌を差し出して対面の席をすすめた。

 少女はいくらか逡巡してから、油の切れたロボットみたいに、カクカクとしたぎこちない動きでそれに従う。



「じゃあ。いただきます」


 手を合わせたあと、作り手が目の前にいることを忘れ、焼きたてのハンバーグを夢中でほおばった。

 ちょうど空腹だったし、待ち焦がれていたし、こんなにうまいハンバーグは人生初だったから、フォークで差しては口に入れて熱さと戦いながらもぐもぐ噛む。

 少しはしたないが、かまわずライスや付け合せの野菜もじゃんじゃん食う。人目を気にしていちゃうまいものが堪能できない。

 あいりが横から紙ナプキンを差し向けつつ、「そんなに急いで食べるとノドに――」と心配されるや、本当にそうなってしまい「うっ!」と呼吸が詰まった。

 ナイフを下ろし、サッと受け渡されたお冷をあおって、つっかえつっかえ腹に流し込む。


「うおーやべえ。一瞬息ができなかったぞ」

「くふふ。お兄ちゃんはハンバーグがとっても好きなんだね」


 一部始終を眺めていたお元気娘が、楽しそうな声で口端についたソースをコシコシふいてきた。


「いや、好物というか、本当においしかった。でもちょっと行儀がわるかったな」

「他に誰もいないから気にしなくていいよ。ねえ、萌奈美ちゃん?」


 やや呆気にとられていた少女は数度まばたきを返す。

 ちょうどその時、入り口のカウベルがカラコロと高い音を鳴らして、来客を告げた。

 誰だろうと見ると、おれと同じ年齢くらいの女の子がドアを押して入ってきたところ。

 すぐにあいりが反応してソファから勢いつけてピョコンと飛び降りる。


「いらっしゃいませー」


 遅れてめがね少女も立ち上がろうとした。

 しかしふり返ったあいりが、「アタシがやるから座ってて」と、一度ぱちりとウインクで制止する。

 そしてお客のほうにスタタターッとすばしっこく駆けていって、客数は何名かとスマイルをまじえてたずねた。 

 どうやら女の子は一人で来たようだ。


 カウンター席に腰かけたあと、コーヒーサーバーを手にしたあいりから接客を受けはじめる。

 あまりじろじろ見るのも変なので、おれは対面で気まずそうにしている萌奈美ちゃんへと視線を移した。


 むぅ。やっぱ二人っきりなのは居心地がよくないらしい……。


 内股でとじた太ももの間に両手を差し込んで、うつむきがちに眉根を下げたまま、こっちを観察するみたくじっと見つめている。

 視線が合ったとたん、ハッと弾かれたように慌てて真下を向く。

 耳たぶまで染まっていく赤ら顔を悟られたくないのか、おもてを上げようとしない。


 オイオイ。そんなにおびえなくてもいいんじゃなかろうか。


 おれは食べ終わった食器を横にずらし、やっぱり元の位置にもどして声をかけてみる。


「萌奈美ちゃんはホント料理が得意なんだな。すごくいい味だったぞこのハンバーグ」


 彼女は平らげた皿やプレートをちらちら見つつ、素直に「はい」と返事をしてくれる。

 おっ、そんなわるくない反応。

 調子を良くしたおれは、まだ温かみのあるコーヒーカップをかかげて一口飲んだ。


「うん。このコーヒーもいい味してるよ。コクと深みがあってなんとも芳醇な味わい」


 などと、気どった口調で伝えてみる。

 ところがあまり反応が芳しくない。


「おや、どうしたんだ?」

「コーヒーは……」

「うん?」

「あの、コーヒーはサツキさんがいれたもので、わたしは……」 

「そ、そうなんだ」


 いけない。軽くすべってしまったぜ。

 おれは気を取り直して、にぎった手を口によせてコホンとひとつ咳払い。

 せっかく良い店を発見したんだし、ここのみんなとは仲良くなっておきたい。サツキさんからもそう勧められたしな。


「他に得意な料理はあるのか? このまえ食べたエビピラフも良かったし。あっ、もしかして食べ物を作ること自体、得意分野だったりするん?」


 問いかけに彼女は思案する表情のあと、口を小さく開く。


「はい。だいたいなら」 


 遠慮がちにか細い声でそう答えた。


「へえ。ところで萌奈美ちゃんはなんでこの店でバイトをはじめたんだ?」


 前にあいりからその理由は聞いていた。

 だけど話のきっかけ作りのために、本人から直接教えてもらおうと思った。

 彼女は戸惑っているのか、両手を太ももに差し込んだまま身を縮めて言葉を発する。


「人と、うまく話せるように、なるためです」

「そっか。でもそれって何か理由があるの? 萌奈美ちゃんは昔から人が苦手だったとか」


 眉尻を下げて困ったように目を横にそらした。

 どうやら慣れない相手には言いづらい話のようだ。

 おれはコーヒーカップをかたむけて、また一口飲む。


「わるいな。質問ばっかして」

「……」


 どんな理由があるにせよ、こんなに神経の細い性格で送る人生は、さぞかし気苦労が多いだろう。

 対人関係を克服するため、ここで働くことになったとはいえ、実状ではほぼ調理にあたり、客と接する機会がなさそうだ。

 このままだと治るものも治らない。

 消極的なのは何かと損をすることが多いと思う。現にこの子はあまり幸せそうに見えない。


 峠にあるこの店で出会ったのは何かの縁かも知れないから、ひとつ力になれないだろうか……。


 おれは天井を見やりながら、良い方法はないかと思考を働かせていた。

 とりあえずアイコンタクトをとってみようか。

 言葉をかけるよりも目は百を語るらしいからそっちのほうがいいだろう。


 よっておれは彼女と仲良くなる意味も含めて、目と目で語らってみようと思った。

 コーヒーカップをそっとテーブルに置く。

 彼女はこっちの視線に気付くと、弱々しくまばたきをした。


「な、何ですか……?」

「いいかい? おれの目をそらさずによーく見て欲しい。ここはいっちょ人に慣れるための練習をしよう」

「えっ」

「目線を合わせるのに慣れれば、人とうまく話せるようになる。自分の気持ちだってしっかり伝えられるようになる」

「えっ、えっ」


 気まずそうにしていた顔がサッとこわばった。まるで銃口を向けられたように警戒の色をあらわにする。

 なんか窮地におちいった小動物みたいになったな。

 人と見つめ合うのは慣れていないのか、動揺の色が隠せない模様。

 強引なやり方かもだが、少しでも性格改善のためになるならガマンしてもらおう。


 数秒たったあと、対面のめがね少女は観念するみたいに、目線を力なくテーブルに下げた。

 眉間にしわを寄せ、唇を引っこめて、なんとも居心地わるそうにしている。


 あっ、いかん。これは失敗かもしれんな。やり方を間違えちゃったか……。


 ややあって、彼女はフラフラとよろめくようにして立ち上った。

 ぎこちなく手を前にそろえて頭を下げてくる。


「わ、わわわ」

「ん?」

「わ、わたし、そろそろ行きます」


 ふるえる声で伝え、おぼつかない動きで踵をめぐらせた。

 足先はあいりのいるカウンターのほうに向いている。


 うーむ。こりゃもう解放したほうがよさそうだな。

 あまり無理をしてここに居続けさせても、はなから嫌がっている子を長らく押しとどめておくのはかえって良くない。

 おれは最後にコーヒーカップを持ち上げ、カチコチとカタイ動きで一歩ずつ離れていくうしろ姿に声をかける。


「おかわりくれないか? 帰る前にもう一杯飲みたいんだよ」


 呼びかけると、上体がビクリと跳ね、前進していた足がひたと止まった。

 めがね少女は首だけでゆっくりとふり返り、コクンと小さくうなずく。

 つづいて逃げるような小走りでコーヒーサーバーを取りに向かった。


 そしてあいりから手渡された目的の物を、大事そうに持って駆けもどってきた時――。

 持っていた容器が、宙を舞った。

 自分の足につま先をひっかけた萌奈美ちゃんは前のめりに倒れていく。

 飛んできたサーバーがテーブルに音をたてて、中身を派手にぶちまけた。

 少女はうつ伏せで床をすべり、ソファのカドに頭をぶっつける。


「だいじょうぶか萌奈美ちゃん!」


 テーブルから落ちるコーヒーを間一髪かわしたおれは、すぐさま近寄って呼びかけた。


「おい。しっかりしろ。意識はあるか?」


 声をかけると、彼女は床からむっくりと身体をはがした。

 次いで頭頂部をおさえつつ、ずれためがねの位置をもどす。

 そして顔が一瞬泣き出しそうに、「ふえっ……」とゆがんだが、唇をぎゅっと縛って涙を耐えたようだ。


 あいりはどうしているかと顔を上げてみれば、遠くのカウンターから客と一緒にこっちを眺めているだけ。


 どうしてだろう。

 こんな事態が起こった場合、あいつならすぐに飛んできて仲間を介抱しそうなものなのに……なぜ離れた位置で見守っているだけなのか。

 なんとなくだがカウンターに置いた手を強くにぎっているように見えた。


 上着に何かが触れる感触……。おれは目を移す。

 両膝立ちになった萌奈美ちゃんが、まなじりを下げてすまなそうな面持ちをしていた。

 手にはハンカチがあり、おれの衣服についたコーヒーの染みをぬぐいとっている。 


「いや、おれのことは気にしなくていいぞ。こんくらい洗えば落ちるからさ」


 そうやんわり伝えるも、めがね少女は布地をトントンとあてて汚れをとろうとしてくる。


「ホントにいいから。それよりもケガはないか?」


 知らないまに浴びていたコーヒーの飛まつなんかどうでもいい。

 おれが手で制すと、彼女は素直にハンカチをおろして悲しそうにうつむいてしまう。


「これくらい問題ねえよ。ほら、いつまでも床に座ってると衣装が汚れるぞ。早く立て」


 ケガはないようだから、とりあえず立たせようと思った。

 しかし手をヒジに近づけたところ、触れられるのに抵抗があるのか、瞬間的に身をかたくこわばらせる。


「あっ、わるい。でもこりゃまいったな」


 こんな時、どう扱えばいいのだろう……。

 言葉をかけても返事はしないし、さわろうとすればすぐに拒絶される。

 しかたなくおれはため息をこぼし、彼女の気持ちが回復するのを待つことにした。


 するとなぜか、めがね少女がゆっくりとおもてを上げてきた。

 唇を締め、勇気をふりしぼった感じに、おれの目をまっすぐ見つめてくる。

 人を正視するのにおじけているのか、瞳が弱々しく揺れていた。


 なぜいきなりこんなことをしてきたのか、おれは意味をはかりかねた。

 しかしどんな意味があるにせよ、今はこの子から注がれる真摯な気持ちを、正面から受け取らねばならない気がした。

 たぶんさっき、おれがやろうとした見つめ合うことを再開したんだと思う。

 彼女なりのチャレンジ――。だからおれは、その目を無言で見つめ続けた。


 ところがふいに……毅然とした態度がスッとくずれる。

 少女の目は心が折れたようにして下がってしまった。

 それまで必死に保とうとしていた心の線が切れたらしく、瞳がうるみ、口を薄くひらいて吐息がもれる。


「だいじょうぶか? 萌奈美ちゃん」

「……」


 もう我慢の限界が来たらしく、涙の玉がぶわっと広がった。すぐさまそれがぽろぽろと落ちていく。


「ちょ、おい。泣くなよ。元気を出せ」


 少女はうつむいたまま、両手で顔をおおってしまった。

 華奢な肩を揺らせてしゃくり上げる姿を前にして、おれは他にどんな言葉をかければいいのか迷った。


 ただ自分がうまく取り計らえなかったことを悔やんだ。


 彼女の背後から、あいりが駆け寄ってくる。

 横にしゃがんだとたん、背を丸めて小さくなっている少女に優しく手をあてた。

 おれは反省しつつ、指先で自分のこめかみをかいた。


「すまん。おれがしつこく引きとめたのがいけなかったんだ」


 友人を泣かせたことにあいりは怒っていると思った。

 ところがそんな様子はなく、おれの言葉に対してゆるゆるとかぶりを振る。 


「お兄ちゃんは何もわるくないから」


 そう一言告げて、エプロンから抜いたハンカチを使い、少女のめがねを外してやって嗚咽をあげる顔にあてがった。

 顔から離れてふとももに落ちた掌は濡れていた。

 先ほど調理場でうまいハンバーグを作ってくれた手が、今は冷え冷えとしているように見える。


「萌奈美ちゃん、いつまでも泣いてちゃだめ。もっとしっかりしなきゃ」


 ハンカチで涙を丁寧にふきながら、あいりが諭すような口調で言った。


「ほら、お店では泣かないって約束したでしょ? 萌奈美ちゃん、もっと強くなろうよ」


 少女はなぐさめの言葉を受けるも、感情のおさえ方を忘れたみたいに、さめざめと泣き続けた――。



 まだ日暮れまで時間は充分にあった。

 だけどおれは店を出て、今日はもう峠を下りることにした。


 帰り際、外で一人バイクのヘルメットをかぶろうとしたところ、店からサツキさんが出てきた。


「大江くん。また来てくれるよね?」


 建物の手すりに触れつつ、心配そうな声音で訊かれた。

 どうやら先ほどの様子を二階に続く階段の途中から見ていたらしい。


 森の奥から冷えた一陣の風が吹き、周囲の木々がざわめいた。

 おれは少し間を置いてから、言葉を発する。


「はい。また必ず来ます。だってこの店ってお客が少ないでしょ」


 そう言うと、どんな意味かというふうに首をかしげて、こっちを見ている。


「おれのような常連候補が一人でも減ると、サツキさんが食いっぱぐれるかもしれませんからね。がんばって店の売り上げに貢献しないと」 


 冗談まじりにそう言った瞬間、サツキさんは腰に手をあててからからと笑った。


「うんうん。それだけ元気があるならだいじょうぶだな。次に来る日を待ってるよ。大江くん」


 おれはヘルメットをかぶりアゴひもを締め、愛車にまたがったあとエンジンをかける。

 そして右手をシュタっとあげて、別れの挨拶をした。

 車体を発進させると、バックミラー越しに、彼女たちのいる店がどんどん遠ざかっていく。



 帰り道。

 流れる峠の景色のなか、おれはあの少女の心をどうやって開こうかと思案するのであった。

 



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