1-1 それは突然に
「すげぇよ。やっぱりベン師匠はすごいや!」
夕陽に照らされた道を並んで歩く影二つ。背中に長剣をさげた黒髪の……先程の試合で勝利を収めた剣士と、まだ幼い少年だ。連れ立って歩く姿はまるで親子のよう。ベンと呼ばれた男はやれやれと肩をすくめながら、自分の弟子を見下ろした。
「ったく、また練習サボって見に来たんだな。」
「あぁ!」
まったく悪びれる様子も見せず、少年――セミリオは言う。純粋にその緑の瞳を輝かせて。
「サボってばかりだと、あっという間に周りから置いていかれるぞ。」
「と思って今日からは絶対に行かないんだって決めてたんだけど……やっぱり見に行きたくなっちゃった。」
「……まったく。」
苦笑しながら、ベンはセミリオの柔らかな茶髪をくしゃりと撫でた。鷹のように鋭いその眼がふっと和らぐ。闘技場で行われる試合を見に来て抜けた練習の分を取り戻す以上に、コイツは誰よりも早く起きて剣を取り、誰よりも遅くまでその腕を振り続ける。
分かっているのだ。差が開くなど、有り得ないと。
「セミリオ、今日の試合はどうだった?」
「楽しかった!」
即答するセミリオ。だが急に悪戯っぽい笑みを浮かべて見上げてくる。
「師匠、今日も遊んだでしょ?相手の右腕ばかり狙うなんて。」
「……敵わないな。遊びじゃない、鍛練だと言ってくれ。」
ただでさえ重量のある長剣を利き腕ではない方で裁くことのできる剣士は少ない。逆に利き腕ならば、片手でも十分に長剣を扱うことができる。今回の剣士は左構え、サウスポーだった。腕を狙うなら左腕だ。利き腕ではない右腕を狙ったとしても、柄から手を離されて逃れられてしまう。ところがベンはしつこく右腕ばかりを狙った。結局相手の剣士はバランスを崩し、ベンは見事勝利したわけだが。
「えー、でも楽しんでたでしょ?」
うぐっと声をくぐもらせ、ベンはまたも苦笑するしかなかった。
いつの日からだろう。セミリオは毎日のように闘技場へ通うようになっていた。そして最前列で観客に揉まれながらも、目の前で繰り広げられる二人の剣士の戦いに胸を躍らせるのだ。ここイルスの闘技場は小規模なため、剣を用いた試合しか行われていない。しかし一口に剣と言っても様々だ。大抵の場合、ベンの用いているような剣士の背丈ほどもある大きな長剣、腰に差して丁度良いほどの中剣、それより小さい短剣に区別される。セミリオはベンが出場する試合は勿論、それ以外の長剣試合、果てには中剣や短剣の試合まで観戦することもあった。
剣を教える「師匠」としての仕事に慣れ、小遣い稼ぎに勧められた闘技場での試合。相手は同じように金稼ぎを目的とする剣士、かと思えば実力を試しに来る剣士と様々だった。次第に物足りなさを覚えて思いついたのが、「鍛練」と称して自らにハンデを課すというもの。我ながらにいいアイデアだと思った。そうして初めての「鍛練」を終えた試合の後――いつものように賞賛の拍手を掻き分け――家路に着こうとした足を止めたのは、囁くような小さな声だった。
「師匠は突き技が苦手なのですか?」
振り返るとそこには、にっこりと微笑んだ弟子の姿があった。
「いや、寧ろ得意技のはず。長剣を操っているとは思えないほどの鋭く速い突きで勝負を仕掛ける、それが師匠の流れだと思っていたのですが。」
どうやら違ったようですね、そう呟くセミリオ。
内心焦った。今回の試合で決め技の一つである「突き」を封印していたことはともかく、自分の得意な流れまで読まれていたとは。ただの飲み込みの早い弟子だと思っていたが、こちらの思い込みもどうやら違ったようだ。一本してやられた、と思った。
「いや、あれは意図的にやったものだ。」
「じゃあ、遊んでいたのですね?」
「遊びじゃない、鍛練だと言ってくれ。」
弱りきったベンにセミリオは悪戯っぽそうに笑って言う。
「えー。でも師匠、楽しそうでしたよ?」
以来、セミリオはベンの「鍛練」を尽く見破るようになった。控え室から出るとにっこり笑って立っているのだ。橙色に染まった道を二人で歩いて帰るようになったのも、丁度この時からである。
「師匠……今日使ってる剣っていつものと違う?」
「どうしてそう思うんだ?」
「振りが大きいような、溜めが長いというか――いつもより重い剣を使ってるみたい。」
「……まぁ、正解だな。」
ベンが袖をめくりあげると、そこには鈍く光る黒い籠手が装着されていた。
「へぇ、師匠すごい!いつもと変わらなかったのに!」
師匠すげーっ、と走り去る後ろ姿。誰にも気づかれないようにそっと苦笑する。
「いつもと変わらないって……お前は見抜いただろ。」
流石のベンも、この時ばかりは内心肝を冷やしたのだった。
「師匠、どうかしたー?」
「いや、少し昔のことを思い出しただけだ。」
最初は重量のある剣を振りかぶるのもやっとという状態だった。しかし今では確実に、自分の弟子の中では頭一つ抜け出ている。その実力は紛れもなく、努力の賜物と称するにふさわしいだろう。
こいつは将来、凄腕の剣士になる。俺をも凌ぐほどの。
そうなった時、俺は……全てを託そう。ベンの顔はいつになく険しいものだった。
ふと人通りが多くなっていることに気付く。色々なことに思いを馳せながら歩いているうちに家々が見えてきていた。大通りに渡された吊り下げ式のランプに明かりが灯っているのが見える。
「俺は夕飯の用意を買ってから帰るが――」
「分かった。先に帰って稽古しとくよ!」
ベンが頷くと、セミリオは辺りでも一回り大きな道場へと走って行った。ベン曰く、この街に「流れ着いた」際に立ち上げたものらしい。年を重ねるにつれ弟子の数は増えて行き、今では街でも有名な剣術道場の一つになっていた。人々からは親しみを込めて「リーベ」――師匠であるベンの姓である――と呼ばれていた。
「さてと、今晩は何にしようか。」
大通りでは夕方からの市が始まっていた。出並んだ屋台を見渡し、ベンは懐から巾着を取り出した。
▽
「やぁ、先生か。いらっしゃい。」
ベンが入ったのは馴染みの屋台だ。恰幅の良い女主人が笑って出迎える。
「どうも。いやぁ、少し来るのが遅かったか。」
店棚に並べられているのは色とりどりの野菜。しかし普段よりも種類が大分少ない。目の前にあったジャガイモと人参を何個か手に取り見定める。目当てのトマトが無かった。今晩はスープにでもしようか、と頭の中でレシピをめくる。
「売り切れですか?惜しいことをした。」
「んー、売り切れってのもあるけど…。」
難しい顔をして黙りこむ女主人。怪訝そうなベンの視線に気付くと、店棚の下から新聞を取り出してポイっと放った。手に持っていた野菜を渡し、新聞を覗き込むと。
「んなっ!」
「物騒な話だろ?お陰で仕入れ先も全部パァさ。」
一面で大々的に報じられていたのは。
「第一中枢都市オルド、崩壊だと?」
ざっとベンが新聞に目を通した頃を見計らって、女主人は野菜の入った紙袋を差し出した。
「家々は吹き飛ばされ、地は裂け、至る所に火の手が上がっていた。住民の約半数近くが……逃げ遅れたそうだ。何が原因かは分かっちゃいないんだとさ。」
「信じられない。発行は一週間前か……難しいな。」
新聞の角に印字された発行日は今日より一週間ほど前だ。
「しょうがない。全ての情報は城下町からしか回ってこないんだから。こんな田舎の僻地に一週間遅れとはいえ新聞が届くだけでも奇跡ってもんさ。」
城下町という言葉に眉をひそめるベン。
「城なんて、お飾りみたいなものだ。」
「どうかしたかい?」
声をかけられ我に返る。
「いえ。少し考え事を。」
「そうかい。そういやァ、先生はこれ以上弟子を取るつもりは無いんで?」
「え、まぁ……弟子は多い方が賑やかだとは思いますが。」
「そうか。ただでさえこんなご時世さ。世の中の親たちはみんな、自分の子どもに戦う術を身に付けて欲しいと願っているんだ。」
話が見えず首をかしげる。
「もし先生が弟子を増やしても良いって言うなら、客たちに伝えておこうと思ってさ。」
「そうですか……ありがとう、その気持ちだけで充分嬉しいです。」
野菜の代金を払いながらベンは続ける。
「俺は、厳しいことを言えば、見込みのある奴にしか門をくぐらせる気は無いんで。」
自分の腕に自信があるから、そんな馬鹿げた理由で言っているのではないと女主人は感じた。鋭いその瞳に揺るぎない信念を見て、微笑む。
「成る程ね。客たちがああ言うのも分かったよ。」
「へ?」
「いやァ、実を言うとさ。子どもをリーベに入れたいって客が多くて。きっと師匠である先生の人柄に惚れたんだろうねぇ。」
はっはっは、と大笑しながら女主人は紙袋を手渡してきた。怪訝に思いながらも受け取る。
「分かった、そう伝えておくよ。この街にはほかにも剣を習う道場はあるし、困らないだろうから。」
「ありがとう。そう……俺が伝える剣は護身用としては危険すぎる。一歩でも間違えれば強力な殺人剣となり得るんだ。」
「そういう所がシビれるねぇ。それはサービスだ。毎度ありがとよ、また来てくんな!」
先程渡された紙袋の中には、真っ赤に熟れたトマトがいくつか入っていた。