第五章 協力
古い木の床は小柄な少年の体重でもひどく音が鳴る。ギシギシと微かな音を立てながらチェロは通いなれた廊下を歩いていた。思ったよりも時間がかかってしまった。ヴィオラには自分が昼までに戻らないようであれば、いつもの食堂に昼食を取りに行くよう言ってはある。しかし彼女がその通りにすることはあまり多くない。
別に財布をチェロが握っている訳では無い。報酬は常に山分けをしているのだから、彼女自身も食事に困るようなことは無いはずだ。しかしどうやらヴィオラはチェロが居ない時に知らない人間に会うのを好まないらしい。
一度チェロが野暮用で翌朝まで戻らなかったことがあった。その時などは余程他人と関わりたくなかったのか、チェロを探しながら美味いとは言えない非常用の携帯食料をパクついている始末だった。
そんな彼女のことだからきっと今頃は相当腹を減らしているだろう。そんなことを考えながら、少年は足早に廊下を歩く。相棒の居るはずの部屋の前に辿り着き、扉をノックしようとしたその時、部屋の中から男の声が聞こえた。
「……で……れば……」
「……?」
思わず不可解な顔をしてチェロは耳を扉につける。部屋の中の話声がほんの少しだけ、明晰になった。
「これだ。……握ってみてくれ」
「……何か意味があるのか?」
「やってみれば分かるさ」
「!」
チェロは思わずぎょっとして飛び上がりそうになった。その男の声は、昨夜部屋にやってきた魔法使いクラルのものだったからだ。返答するヴィオラの声は心成しか困惑しているように聞こえる。いったい、何の話をしているのだろう。
「害は無い。俺の好奇心だ」
「しかし……」
「そんなに信用できないか?」
チェロの心臓が大きく音を立てる。扉の向こうでは何が起きているのだろうか。一体、クラルはヴィオラに何をさせようとしている?
「……分かった」
困惑を孕んだヴィオラの声の後、少しの間沈黙が流れた。チェロは凍りついた様に扉の前で硬直していた。
「思ったとおり、中々筋が良い」
「……私にはよく分からないが」
「分からなくても仕方がないさ」
クラルの声が続く。あくまで冷静な昨夜と同じ色であったが、どこか声に熱が籠り、興奮しているような、そんな響きがあった。
不安な気持ちが頭を擡げる。クラルはヴィオラに何をさせているのだろう?なぜクラルは興奮しているのだろうか?今すぐに扉を開けたい。開けたほうがいいに決まっている。心の声がチェロに警告を発している。しかしチェロの手も足も、自分の意志とは無関係に全く動けないでいた。開けるのが怖い。もしもこの扉の向こうでチェロが一瞬でも頭に浮かべた通りの光景が広がっていたら、どうすればいい?
「それでは次は……」
ふとチェロは我に返った。どう考えても、消極的なヴィオラにクラルが強引に何事かをさせているようにしか思えない。チェロは思わずドアノブに手を掛け、勢い込んで開くと同時に部屋の中へと飛び込んだ。
「ちょっと!俺の居ない間に何やってるのさ!」
チェロの叫び声が部屋いっぱいに響き渡る。傾きかけた日光の差し込む部屋の中にヴィオラとクラル、二人の向かい合って立ちつくす影が浮かび上がった。
「……あれ?」
逆光に目が慣れ、よくよく見てみると、クラルはヴィオラに一冊の本を差し出していた。ヴィオラはその本の端を受け取ろうとするかのように握っている。チェロが想像したような疚しい雰囲気では到底無いようだった。
「……チェロ?」
ヴィオラが小首を傾げて突然飛び込んできたチェロに驚くようにやや上ずった声で言う。その横ではクラルが顔を伏せ顔を伏せ、空いているほうの手で顔を覆っていた。笑いをかみ殺しているような……どうやら、チェロが聞き耳を立てていることに気が付いていたようだ。
「どうした?そんなに慌てて」
「……えーと……その」
チェロは不思議そうな表情のヴィオラを見てしばし口を開け閉めした後、クラルに鋭い視線を投げた。つかつかと部屋の中へ進み出ると、ヴィオラとクラルの間に入って二人を無理やり引き離す。そんなチェロの勢いにヴィオラが困惑の表情で視線を投げた。
「チェ、チェロ?」
「俺の居ない間にヴィオに妙なこと吹き込むの、やめてくれない?」
自分の勘違いを恥ずかしく思うと同時に、怒りが湧き上がる。言葉は必要以上に刺々しいものになった。しかしクラルは本を胸元に抱え直し、吹き出すのをこらえるような顔をしてチェロの視線を受け止める。
「何を言うんだ?俺はただ君の相棒の魔法の素質を見ていただけだ」
クラルは何てことない様に本をパラパラをめくった。彼がページをめくる度に本が僅かに発光する。どうやら、その本に触れた人間の魔力か何かに反応しているらしい。
「それが妙なことだって言ってるんだ!」
チェロが今にも噛み付かんばかりの勢いでクラルに詰め寄る。しかし悲しいかな、身長があまりにも足りずに見上げる格好になってしまって迫力の欠片も無かった。
「それに!昨日の夜言ったよね?ヴィオの部屋に来たらたたき出すって!」
「君の部屋を訪ねたが不在だった。そこにヴィオラが帰ってきた。仕方ないだろう?」
「そういう問題じゃない!」
チェロが嫌がることを分かっていて部屋に入ってくるクラルもクラルだが、招き入れるヴィオラもヴィオラだ。彼女が性別や立場というものに無頓着なのは今に始まったことではないが、そろそろチェロが嫌がっていることを理解しても良いのではないだろうか。チェロは苛立ちの混じったため息を一つ吐き、クラルの背後に回るとその背を力いっぱい押した。
「おいおい、押すなよ」
「話なら俺の部屋で聞くから!出て!」
そんなチェロにヴィオラは更に困惑の顔をする。無表情が崩れ、苦く笑っていた。
「チェロ、別に何処でも良いだろう?」
「よくないの!ヴィオはもうこの人と二人で話すの禁止!」
「……はぁ?」
ヴィオラは疑問を音にして首を傾げるが、それ以上は続けずに素直にチェロに従った。
少年は魔法使いを促して廊下へと押し出した。チェロが危惧しているのは決して、男女が一つの部屋で……ということだけではない。クラルが信用に値する人物かどうか、それはまだわからないのだから。確かに彼が語った神隠し事件の状況と、捜査本部の調べ上げた内容に齟齬はなかった。だからと言ってまだクラルを信用して良い訳ではない。
彼が言葉にしなかった四年前の事件。その真実を聞きだす必要がある。その上で彼の差し出した手を取るかどうかを決めなければならない。それまではヴィオラをクラルと二人きりにするのは危険だ。魔法の効かないチェロがその場にいれば魔法に対抗できるが、ヴィオラは魔法の影響を受ける。クラルと二人きりにしておく訳にはいかない。
そう。それは危機意識の問題であって、決してチェロがこの二人を自分の目の届かない場所に置きたくないから……という理由ではないのだ。断じてそんな理由ではない。
自分に言い訳するかのようにそんなことを考えながら、チェロは自室の鍵を開けてクラルを中へ押し込んだ。
「ずいぶん手荒いな。これから行動を共にする仲だろう?」
「まだそうと決めたわけじゃない」
動転は収まったものの、チェロの気が晴れたわけではない。ここに来るまでは協力するしかないと心を決めかけていたチェロだったが、クラルの顔を見て決心がぐらつきつつあった。底が見えない。まだ何か腹に抱えているような、そんな気配がある。
「まぁ、君がそう言うなら俺は俺でやるさ。……努力はするが、魔人の儀式を本当に防げるかは、わからないな」
チェロは渋い顔をした。クラルがチェロとヴィオラを頼ってきたということは、彼一人では魔人の儀式の阻止が難しいとクラルが判断したということだ。つまり彼への協力を拒めば、魔人の儀式が完成してこのアリアの町が危険に晒されるということでもある。
クラルは涼しい顔で、傍にあった椅子を引き寄せて腰を下ろす。
「……俺が阻止したいのは弟が魔人になること、それだけだ」
「……」
傾いた日光に、真剣なクラルの目が微かに輝いた。チェロは静かにその顔を見つめる。
彼にとって最大の優先事項はただ一つ。弟を魔人にしないことだけなのだろう。クラルの重要とするものはチェロとは全く違っている。だが目的が一致するのは確かだ。
「……?」
ふとチェロは背後のヴィオラの気配が遠いことに気がついた。振り返ると、ヴィオラは扉の取っ手に手を掛けたままチェロを見つめている。その表情は何か言いたげだった。
「ヴィオ?」
「……少し、良いか?」
ヴィオラはチェロの答えを待たずに扉を開けて、一人外へと出ていった。クラルに聞かれたくない情報があるのだろう。チェロはクラルに向き直り、にらみを利かせる。
「聞き耳、立てないでよ?」
「誰かじゃあるまいし、そんなことはしないさ」
チェロはクラルに向かって舌を出した後、ヴィオラに続いて扉の外へと出た。
「どうしたの?何かあった?」
チェロがあたりを素早く見回してから小声で言う。
「ギルドに伝言があった」
「!」
ヴィオラが懐から小さく折りたたまれた紙のメモを取り出した。チェロはそれを受け取る前に、目を細めて紙片を見る。
「……聞き耳」
「?」
チェロが紙片を受け取って表面を払うと、折りたたまれた紙の間から白い霞が霧散して消えていく。それは午前中、もう一人の魔法使いが訪れた後にヴィオラの肩に乗っていたものと同じものに見えた。
「あの人が一番盗み聞き好きなんじゃないかな」
聞き耳の魔法の有効範囲を考えればライアは近くに居るのかもしれない。しかし魔法が解除された以上、探し出すよりも逃げられる方が早いだろう。
「えーと……『他の協力者が見つかったので、この話は無かったことに』……」
ほぼ予想通りの内容に、チェロは思わずため息をつきそうになった。伝言を残して行くだけ、良心的なのかもしれない。
ライアが協力しないとなれば、結局、チェロとヴィオラがアテに出来る魔法使いはクラル一人しかいない。選択肢が狭まるのは非常に不安だが、これは自分の迂闊さが招いた事態でもある。彼を頼るほかはない。
「やっぱ、クラルと協力しなきゃダメかぁ……」
「……そんなにクラルが嫌か?」
難しい顔をしているチェロにヴィオラが不満そうな声を掛けた。チェロが見上げると、ヴィオラの顔はどこか残念そうに眉尻が下がっている。珍しい表情だった。
「別に嫌な訳じゃないけど……」
「……他にアテがないなら、協力するしかないと思う」
普段のヴィオラはあまりチェロの判断に口を挟まない。珍しいヴィオラの言動に、チェロは心がざわつくのを感じた。
「……どうしたの?クラルに何か言われた?」
「そう言う訳では……」
ヴィオラの言葉は歯切れが悪い。ますます妙だった。チェロの表情が曇る。
「ヴィオ、変だよ。俺が居ない間に何かあった?」
「……」
ヴィオラは額を抑えてため息をつく。少し迷うような顔を見せた後、意を決して口を開いた。
「……昼食を、奢られた」
「…………」
チェロは思わず絶句する。確かにチェロが戻ったとき、昼食について言及しないヴィオラを不思議には思った。だがまさかこんな理由だとは思ってもみなかった。
「……まさか、奢ってくれたからクラルはいい人って思っちゃった訳じゃないよね?」
「そういう訳じゃ……」
さすがに大食いのヴィオラでも、食事に誘われて他人を信用するようなことは無いと信じたい。きっとそれだけではないのだろう。
「……クラルが言っていたんだ」
「?」
「弟は自分にとって何を置いても大切なのだと……」
恐らく食事中に彼の弟の話でもしたのだろう。その末にその言葉が出たに違いない。
「私は……クラルの言っていることがわかるから……」
ヴィオラの瞳は悲しそうにチェロに注がれていた。どんな会話をしたのか、その詳細はわからない。しかしその内容がヴィオラにとって共感に値するものであったことは想像に難くなかった。彼女の抱く強い思いは、チェロもよく知っている。
チェロは唇を噛んだ。やはりヴィオラとクラルを二人にするべきではなかったのだ。
「クラルが嘘をついていると思えない。弟を止めたいと思っているのは本当だと……」
「……まぁ、俺もそう思ってはいるんだけど」
クラルが両親の死や、弟がなそうとしている魔人の儀式の話を語った時、浮かんでいたのは嘘をついている人間の表情ではなかった。真剣なクラルの意思はチェロにも感じられている。しかしそう簡単に信じる訳にはいかない。時に人は真剣に嘘を吐くからだ。
「ヴィオ、気持ちは分かる」
「……」
「信用じゃないよ、ヴィオ。協力だ。これは譲れない」
「……」
ヴィオラは額を覆っていた手を離し、顔を下へ向けてチェロに向き直る。薄らと息を吐き出した後、絞り出すように言葉を紡いだ。
「解かった」
「……うん」
チェロは笑顔で頷くと、振り向いて部屋の扉を開ける。夕焼けに染まる部屋の中、椅子に座ったままのクラルがひざの上に開いた本に目を落としている姿が浮かび上がった。二人が入って来たことに気づくと、魔法使いは顔を上げて微笑みを浮かべる。
「結論は出たか?」
クラルの視線に、チェロもまた真っ直ぐな眼差しを返す。チェロにも、クラルが真剣であることは分かっている。嘘などついていない。彼が弟を想う気持ちは本当だろう。それでもまだ釈然としないことが一つあった。今こそ、それを確かめなければならない。
「その前に一つ、訊かなきゃならないことがある」
「……訊かなければならないこと?」
チェロはちらりと背後に目をやった。ヴィオラが扉の前で立ち尽くし、心配そうな顔をしてチェロの背中を見つめていた。
「四年前の出来事を、きちんと話して欲しい」
「!」
クラルは目を閉じる。観念したように溜息をつくと、本を机の上へと置いた。
「そうか、調べたのか……」
「……」
クラルは目を見開く。しばしの沈黙の後、唇を湿らせて話し始めた。
「最初に言っておくが、俺の両親は魔人に加担などしていない」
チェロの背後でヴィオラが微かに身動ぎした。彼女は四年前の出来事がこの町でどの様に伝えられているかを知らない。クラルが話したことをそのまま信じていたのだろう。
「事の大筋は昨夜に話したことと同じだ。ただ、最後は少し違う」
「……」
「使い魔、というものを知っているか?」
「使い魔?」
チェロは腕組みをしながら鸚鵡返しに言葉を紡ぐ。
「自身の魔力を生き物の形に変換し、操る魔法だ」
クラルの手の平から光の砂が零れ落ち、足元で子犬の様な形に変わった。夕焼けで美しく輝くその子犬を、チェロは目を細めて見つめた。
「魔人は魔世界から自在に魔物を呼び出すことが出来る。母が作りだした使い魔を見たこの町の人間が、それを魔物だと思い込んでしまった……」
クラルが拳を堅く握りしめると、可愛らしい子犬はその場に崩れる様に消え去った。チェロは視線を再び魔法使いの苦渋の表情へと向ける。
「そうして母はもう一人の魔人だと疑われたわけだ」
「……」
チェロは無言でクラルの辛そうな表情を見つめる。……なんとなく想像はつく。魔法学校の建てられた今ならば話は別だが、当時は魔法使いなどこの町では珍しいものだったのだろう。旅人でさえ住民とは一線を画すこの町において、魔法使いがどのような存在だったか。たとえ一時この町を居住地としていた一家とて、魔法使いというだけで異質な存在だったに違いない。
どんなに町のために尽力しても、それが必ずしも理解を得られるとは限らない。それが彼らにとって受け入れ難い相手であれば尚更だ。
「魔人と戦い、父も母もかなりの怪我を負っていた。だが治療をすれば命は助かった」
クラルの握り締めたこぶしが微かに震えている。
「しかし魔人と疑われた母は治療を受けられないまま厳しい取調べを受け……命を落とした」
握り締めたままのこぶしが、勢いを失ったようにパタリと落ちる。クラルはそのまま力なく椅子に座り込んだ。
「父は母に治療を施して欲しいと懇願した。だがそれは受け入れられずに……それを知った父も魂の尽きたようになって……」
語る声が震えている。感情を押し殺そうとしている様な無機質で静かな怒りと悲しみに満ちた響きだった。頭を垂れたクラルの顔は見えない。見えたとしても、その心中を察することは今のチェロにはきっと、不可能に違いなかった。
「……だから……クラルの弟はこの町を恨んでいる訳だ」
チェロは乾いた口で囁くように言う。
「……」
クラルの頭がゆっくりと持ち上がった。初めて見せる、疲れたような目だった。
「俺だって、恨んでいない訳ではない」
「……」
「だが俺は弟を守らなければならなかった。事件の後、後ろ指を指す連中から逃れるためにこの街を後にした。必死で二人で生き延びた……」
クラルは手を重そうに持ち上げ、傍らの机においてあった本に手を添える。その本の表面がほんの少し、悲しげな青色に発光した。
「この四年間、弟を守ることだけを考えてきた。復讐なんて考えず……すべて忘れて、二人で生きていけば良いと……そう……だが……」
チェロは真剣なまなざしをクラルに注ぐ。その視線を受けて魔法使いは自嘲気味に笑った。
「弟は、俺とは違ったらしい」
「……」
彼の言葉が嘘だとは、とても思えなかった。この町の異質な存在に対する無意識の迫害と、四年前の事件の顛末。それらを合わせると、クラルの語った事件の真相が嘘だとはチェロには思えなかった。クラルの語った過去の事件。今回の事件がその四年前の事件の延長線上にあるのなら、この町は恨まれる要素があったということになる。だからと言って犯人のしようとしていることが許される訳ではない。それは分かっている。
しかしこの真実を知った今、犯人を説得によって止めることは非常に困難だとしか思えなかった。もしもそれが叶うとすれば、それが出来るのは目の前に居る犯人にとっての唯一の家族――クラルだけだ。
「……今話したことに、偽りは無い」
「偽りだとは思わない」
「……」
クラルは力なく微笑む。チェロは組んでいた腕を解き、座ったままのクラルへとゆっくりと近づく。魔法使いの視線が少年を見上げた。
「事情は分かった。……協力するよ、クラル」
「ありがとう。巻き込んでしまってすまない」
「こっちが介入したんだ。それに、報酬が貰えるなら傭兵として断る理由は無いよ」
そう言うと、チェロは子供特有の無邪気な笑顔を見せた。それにつられたのか、クラルもまたほっとしたように笑みを見せる。初めて見る彼の優しげな微笑みだった。
「そうと決まれば、早めに出発した方がいいね」
笑みを交わし合った後、チェロはクラルの背後の窓を見やった。傾いた太陽によって空は真っ赤に染まり、その反対側からは夜闇の青が迫っている。夜がすぐそこまで来ている。それを確認した後に窓から目を離すと、チェロは背後のヴィオラへと振り返った。
「どのくらいで準備出来る?」
「十五分」
言うが早いかヴィオラは早速扉に手を掛けた。今にも出て行きそうな戦士に、チェロは慌ててもう一声かける。
「待ってヴィオ。……今回は、俺のナイフが必要だ。忘れないでね」
「……分かった」
深く頷き、ヴィオラは部屋を後にした。それを確認してチェロはベッドの脇に屈み込む。その下からサックを取り出した。中から出てきたのは膝を守る皮製の防具、頑丈そうな紐靴、そしていつも結わえているものよりも大きめの短刀。恐らくは彼なりの戦闘用装備なのだろう。
せっせと準備を進める少年の後ろ姿を眺め、クラルは目を細める。
「……君たち二人は」
「ん?」
突如掛けられた声に、チェロは首を傾げながら振り向いた。
「一体どういう関係なんだ?……姉弟のようにも見えないが」
「……んまぁ……姉弟ではないね、実際」
チェロは口をへの字に曲げ、どこか不満げに鼻を鳴らして再び手元に視線を落とす。そんな少年の横顔を、魔法使いは優しげな笑みで見守った。
「……彼女は、君の事を大切な人だと言っていたよ」
「えっ」
チェロは思わずクラルへと顔を向け、驚いた顔のままに硬直する。
「えーと……いつ?」
「一緒に昼食を取ったときに、ね。弟のことを話していたら、ヴィオラは『自分にとっての大切な相手はチェロだけだ』と……」
「ヴィオが……?」
チェロの目が泳ぐ。その頬を窓から差し込む夕焼けが照らした。ほのかに赤く染まった色は決して夕日のためだけではない。クラルはそれを見て愉快そうに唇を釣り上げた。
「君にとってのヴィオラは?」
「お、俺にとって……?」
チェロはまるで陸に打ち上げられた魚の様に口をパクパクとさせる。予想外の展開に、咄嗟に言葉が出ない。相対するクラルは、少年が言葉を紡ぐのを根気良く待っていた。
「えーと……そうだね……俺にとってもヴィオは大切な人だよ」
「……」
そう言った後、チェロは再び顔を伏せて靴紐を結ぶことに意識を戻す。
「……ヴィオがそんなこと言うなんて、驚いたな」
少年の口調はいつも通り明るいが、どこか空滑りしているように響く。視線は靴紐を見つめているが、その意識は丸きり余所の方向を向いているようだった。
「そうなのか?」
「うん。……俺なんて、ヴィオにとってただの重石でしかないのにさ」
「そんなことはないと思うが……」
「……ヴィオはいつだって俺を見捨てて行っていいんだよ。本当は、ね」
少年の声が徐々に小さくなっていく。それに反比例して靴紐を結ぶ手の動きが早くなった。しかし指先は何度も革紐の上を滑り、何度も同じ動作を繰り返している。
「なんていうか、たまたま……成り行きで助けただけなのに、恩を感じたり、感謝したりしてさ。こっちこそ一緒に居てくれて感謝したいくらいなのに……」
「それが君たちの出会い?」
「うん、まぁ……そんな感じ」
少年はかつて、ヴィオラに初めて出会った時のことを思い出す。遥か昔の様な、ほんの昨日の様な、そんな不思議な感覚のする思い出だ。その行為は大きな意味のあるものではなかった。気が付いたら取っていた行動で、それが偶然ヴィオラを助けたにすぎなかった。それでも彼女は未だにそのことを恩義と感じ、報いようと共に旅をしている。
それはチェロにとって嬉しいことではある。しかしその反面、時に自分がヴィオラを縛り付けているのではないかと不安な気にもなるのだ。
「……羨ましいよ」
呟いたクラルの声に、チェロの手が止まった。
「恨みや後悔じゃなくて、感謝によってお互いと繋がっているのが、羨ましい」
「そう、なのかな……」
クラルの言葉に、チェロが照れくさそうに頬を掻き、再び靴紐を結ぶ作業へと戻った。そんな少年の様子を見ながらクラルの表情が静かに曇った。その後に、ポツリと零す。
「俺は……」
「……」
チェロの手が一瞬、止まりそうになる。
「……いや、何でもない」
自嘲気味に一つ笑い、クラルは顔を背けると椅子から立ち上がった。白いローブの裾がひらひらと翻り、俯いたままのチェロの目の前を通過していく。魔法使いの足は窓の傍で止まった。
つい先ほどまで茜色に染まっていた部屋だったが、今は長く伸びた影の端が蒼い闇に染まりつつあった。この時期は日が落ちるのが早いのだ。
チェロは靴紐を結び終え、次いで革の膝当てを取り出した。椅子の上に足を置き、編み上げの紐をきつく締めていく。もしも領主の息子のトルンがこの行動を見たら、初対面の時の様に批難轟々だろう。
「そういえば、君たちはなぜこの町に?」
チェロが顔を上げて声の主を見る。いつの間にか魔法使いは窓を背にしてチェロの方を向いていた。男の形をした影が部屋を分断している。
「神隠しの噂を聞いたからだよ。俺達、魔法生物の関係してる事件を探してるんだ」
「魔法生物?……なぜ?」
少年は考える様にしばし首をかしげた。どう説明すれば良いのか、どこまでを説明すればよいのか……これは同じ質問をされるたびにいつも悩んでしまう。
「……俺たちね、ある魔法生物を探してるんだ。……クラルはそういうの、詳しい?」
「こう見えても魔法使いだからな。一般人よりは詳しいつもりだ」
冗談めかした笑いとともにクラルは言う。彼が手をかざすと、机の上に置かれたままだった魔法の本がふわりと宙に浮き、魔法使いの手の中へと納まった。
「言ってみるといい。何を探しているんだ?」
「……時間の精霊……クロノス」
「ほう」
クラルの視線が興味深そうにチェロの顔に注がれる。その視線を感じながら少年は気まり悪そうに顔をそらし、ますます膝当てに集中しようと努める。部屋の中を沈黙が支配する。少年が紐を締めるたびに革の擦れる音が僅かに耳を打つだけだった。
やがて静寂に耐えられなくなったのか、チェロは再び顔を上げてクラルの方を見る。逆光の正面で魔法使いの影は聖者の様に悠然と佇んでいた。
「訊かないの?」
「何を?」
「……理由とか」
「訊いて欲しいのか?」
「……」
苦い顔をしたチェロを見て、クラルの影が笑ったようだった。
「では訊こうか。なぜ、クロノスなんかを?」
「……不老不死」
チェロの呟きに、影が首をかしげる。
「意外だな。……確かに、クロノスに出会ったものは不老不死になると言う伝説はあるが……君はそういうものには興味がなさそうに見えたんだが」
「……」
少年は再び自分の膝へと視線を戻した。いつの間にか右足の装備が完了していることに気が付くと、左足を右足と入れ替える。
「まぁ……人間というものは誰しも、死を恐れるものだな」
「……」
「……ヴィオラ、か?」
再び沈黙が降りる。チェロは顔を深く伏せ、膝当てに集中するふりをした。しばらくして、魔法使いの忍び笑いが部屋の中に響いた。クラルが勘の良い人間だとは感じていたが、ここまですべてを見透かされてしまうと、恥ずかしいのを通り越して自分自身に腹が立ってくる。もしかすると、自分はヴィオラよりもわかりやすい人間なのだろうか。
「君のことだから……」
「あーもう、その話題やめ!やめ!あんまし俺を苛めないで!」
チェロは真っ赤になった顔で窓辺を振り返ると影の掛かったクラルの笑顔を睨み付けた。その視線を受けた相手は楽しそうに肩を竦めて見せる
「心外だな。俺はただ、協力する相手のことをよく知ろうとしているだけなんだが?」
「……」
チェロは唇を尖らせて黙り、再び膝当てに視線を落とす。クラルはアウロスとはまた少しタイプが違うが、チェロにとって面倒な相手だという点では同じだった。特にチェロにとっては、ヴィオラとの関係をからかわれるのが一番堪える。その点でクラルはアウロスよりも厄介な相手にも感じられた。そんな少年の内心を見透かすかのように、魔法使いは涼しい顔で魔法の本を開き、パラパラとページを捲った。
「場合によっては、そちらの協力をしても良い」
「……へっ?」
チェロが再び振り返る。逆光は先程よりも小さくなり、涼しい顔が影の中に薄らと見える。魔法使いは手にした本を最後の頁まで捲ると、チェロの方へと向けた。
「クロノスの儀式……というものがある」
「それって……」
チェロの瞳が見開かれた。クロノスを調べる中で何度か聞いた言葉だったが、その詳細については調べることが出来なかったものだ。
「正に言葉のままだが……これは、クロノスを呼び出すための魔法の儀式だ。呼び出されたクロノスは、時間に関係する願いを一つだけ叶えるらしい」
「……つまり不老不死も?」
「可能だろうな」
少年の目が開かれたままの本のページを凝視する。ページの中ほどには祭壇を前にした人間が描かれている。祭壇の上には何かが乗せられ、その上の中空に『何か』があった。恐らく、それがクロノスなのだろう。そしてその図の下には儀式の手順が書かれていたようだった。
「……でも、それ」
「ああ、見ての通りだ」
過去にはその部分に儀式の詳細が記載されていたのだろう。しかし今は、その部分が焼け落ちたように消失していた。切れ端の部分は焦げたように黒く染まっている。
「四年前のどさくさでこうなった。しかし大まかな手順は記憶している。詳細についての調査は必要だが……実現は可能だ」
「……つまり、クラルが俺たちのためにクロノスの儀式をやってくれるってこと?」
「協力の対価は協力で返す。……悪くはない話だと思うが、どうだろう?」
「……」
少年は瞳を瞬かせて視線を本からクラルの顔へと移す。魔法使いの顔の上に現れていたのは、優しい微笑みだった。
「こっちの協力に比べてそっちの手間の方が大きいけど……本当に良いの?」
「俺が良いと言っているのだから、良いに決まっているだろう」
「そうだけど……」
チェロはクラルの顔から視線を外すと、椅子の上にあげていた足を下ろした。有難い申し出だが、あまりにも上手くいきすぎてはいないだろうか。クロノスの儀式を対価にするなら、彼とは長い付き合いになる。神隠し事件の解決のためにクラルと協力するとは決めたが、チェロはまだ彼を信用している訳では無い。そうそう簡単に決められない。
「まぁ……君が俺を警戒する気持ちはわかる。ヴィオラと相談して考えてから決めてもらって構わないさ」
チェロは夕日の残光を眺めた。きっと彼女に意見を求めれば、賛成の言葉が出るだろう。ヴィオラはクラルのことを信用しているようだし、何より、彼女の持つクロノスに対する望みは大きい。クロノスの情報を得るためであれば、どんな危険な場所であろうとも躊躇なく飛び込んできた。その彼女がクラルのこの申し出に賛成しないはずがない。
「いや……決めたよ。クラル」
「良いのか?」
「うん。ヴィオも賛成するだろうから」
クラルは安心したように微笑みを浮かべると、手にしていた本をパタンと閉じた。光の粒が舞い上がり、ほとんど真っ暗になった部屋の中をほんのりと明るく照らす。
「では決まりだ。この件の報酬はクロノスの儀式の情報と、協力」
「うん。……よろしくね、クラル」
「こちらこそ」
笑って、クラルは右手を差し出した。チェロはしばしその手を見つめた後、やはり笑って自分の手を出す。暗い部屋の中に浮かび上がるクラルの影が心なしか大きく感じられる。ヴィオラが彼を信用した理由が、わかったような気がした。
二人の手が触れようとしたそのとき、何の前触れも無く部屋の扉が音を立てて開いた。手を差し伸べあったまま二人は飛び上がりそうになりながら振り返ると、開け放たれた扉の前には全身に防具を身に着けたヴィオラが立っていた。
「入る」
そう言いながらヴィオラが部屋の敷居を跨いで室内へと足を踏み入れた。確かに部屋に入るタイミングでの言葉ではあるが、本来ならば扉を開ける前に言うべき言葉である。
「ヴィオ……俺一人のときは良いけど、他の人が居るときはちゃんとノックしてよ」
「……?次はそうする」
ヴィオラは背負っていた剣を一度床に下ろしてから、今一つ理解できていない顔でチェロを眺めて小さく頷く。彼女のことだから、なぜチェロ一人の時はよくてそれ以外だとダメなのか、その違いが良くわかっていないのに違いない。
ふとチェロが視線をクラルの方へ戻すと、魔法使いはまるで何事も無かったかのように先ほどまで差し出していた右手で頭を掻いていた。チェロもまた、自分が出していた右手を照れくさそうに引っ込めて頬を掻く。
「えーと……ああ、まずい。そろそろ行かないと」
窓の外へと視線を移すと、もはや地平線に宿っていた残光もすっかり沈んでおり、空は八割方が青い闇色に変わっていた。
「……チェロの装備はそれだけで良いのか?」
クラルの視線が机の上から短剣を持ち上げようとするチェロの動作を見つめる。皮の靴と膝当て、短剣。皮の上着を着てはいるが、防具と言うにはあまりにも心もとない。今から戦う可能性がある場所へ向かうとは思えないような軽装だった。
「俺は戦闘担当じゃないんで、良いの。それに俺があんまり重装備しても動けなくなっちゃうよ。ヴィオみたいに力持ちじゃないし……」
言いながら、チェロはちらりと視線をヴィオラに移した。胸元を覆う女性用のスケイルメイル、足には鉄製のグリーブを履き、左腕にシールド付きのガンドレットを嵌めている。それだけでもかなりの重量だろうが、太股に巻いたバンドに2本の短刀を挿し、体の半分ほどもある大剣まで装備している。総重量だけでヴィオラ本人の体重に匹敵するだろう。これだけの重量を背負って戦闘を行うなど、常人には考えられないことだ。
「……頼もしいな」
同じようなことを考えていたらしいクラルが苦笑しながら言った。手にした本が光の粒子に包まれて消え、代わりにその手の上にランタンが現れる。彼の身に着けている物と言えば薄汚れた白いローブだけで、防具らしい防具が見当たらない。
「クラルはそれでいいの?」
「大抵の攻撃は魔法で防げるからな。ほかに必要なものがあればその都度魔法で取り出すから、問題ない」
そう言いながらクラルが手にしていたランタンの下に刻まれた文様をなぞると、中央にオレンジ色の火が灯った。それを見てチェロは感嘆のため息を漏らす。
「魔法使いって便利だね……」
ヴィオラもまた、チェロのベッドの横に置いてあった小型のランタンを取り上げて火を入れる。暗闇に包まれつつあった部屋の中に二つのオレンジ色の光が浮かび上がった。
「さて、それじゃあそろそろ行こうか」
窓の外に目を移すと、薄暗くなった空の反対側からは丸みを帯びた月が昇っていた。空は雲も無く、深い藍色の晴れた夜空。
――神隠しが起きるには、絶好の夜だった。