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第三章 仮装行列

 午後の半ばを過ぎれたアリアの町の大通りは午前中とは比べ物にならないほどの人々が行きかう。仕事に出かけていた人々や定食屋の客引き、道端で談笑に興じている奥様方。十人十色の目的で彼らはこの大通りへと集まってくる。

 そんな道をヴィオラもやはり目的をもって歩いていた。への字にゆがんだ唇。眉の根もねじれて曲がり、普段よりも中央に寄っている。誰が見ても虫の居所の悪そうな様子のせいなのか、大股に闊歩する彼女の周りの人々は心なしか遠巻きになっているようだった。

「……あれ…………なの?」

 ヴィオラの視界の端に視線をこちらに向けて囁きあう二人の若い娘たちの姿が映る。さすがに内容までは聞き取れないが、ヴィオラには彼女たちが自分のことを話している様な気がした。

 被害妄想なのかもしれない。しかしどうしてもその視線が気になる。もしも自分が彼女たちの内の一方だとすれば確かに思わず話題にしてしまいそうな状況だと理解しているからだ。

 更に周囲に気を配れば、やはりヴィオラに視線を投げながら井戸端会議に興ずる奥様たち、手に売り込み用の旗を持ったまま思わず引きつった顔をする屋台の親父、無邪気な顔で指さして傍らの母親に止められる幼児……明らかにいつもとは違う様子の人々が視界に映る。

 彼らがそんな反応をするのも無理は無い。人のごった返す大通りを長身の女が似合いもしないメイド服を着て歩いているとなれば、誰もが注目せずにはいられないだろう。

 メイド服。最近は時代遅れになりあまり着用されなくなったが、今でも貴族の旧家では制服として使用されている。しかし町中にこの服をのまま出掛ける物好きはあまり多くないだろう。

 ――コレ着て歩けば、目立つと思うんだ

 昼食後のこと。悪戯な笑みを浮かべながらチェロが紙袋から取り出したのは、前日の夕方にヴィオラが着用していたメイド服の一式だった。黒いワンピースに透き通る様に真っ白なエプロン。頭につけるレースのカチューシャと白いソックス、リボン付きのシューズ、ガーターベルトまで、一式全てが揃っている。

 ヴィオラはそれを目にして思い切り嫌な顔をした。しかし昼食前に既に彼の提案を呑むことを承知してしまっているのだから、今更どんな抵抗をしても無駄だった。

 ――そんな顔しないでよ。きっと上手くいくよ♪

「……」

 大通りを歩きながら、ヴィオラはただただ前だけを見ることに集中する。そうしていないと眉の根が寄りすぎて繋がってしまいそうだった。

 チェロの言う通り、この服を着てこの大通りを歩けば確かに目立ちはするだろう。しかしそんなことをしたところであの魔法使いが現れるとは到底思えなかった。

 むしろ人目を避ける立場であるあの魔法使いであれば、こんなに目立つヴィオラを避けようとするに決まっている。

 ヴィオラにすら判ることをチェロが判らない訳がない。彼なりの思惑があってこんなことをさせているのだろう。だがその思惑がわからない以上、ただ不快なだけだった。

 ヴィオラは全面的にチェロを信頼しているし、今までその信頼を裏切られたことは無い。それでも彼女には少年の思考が理解できず、彼の指示を喜んで引き受けることが出来なかった。

 いずれ彼はヴィオラにこの行動の意味を説明してくれるだろう。その時になればヴィオラは納得できるのかもしれない。だが今は、不機嫌を隠すことが出来なかった。

「待ってー……ちょっと歩くの早いよ……」

 そんな言葉と共に、ヴィオラの隣に何処からとも無く彼女の悩みの種を作った張本人が現れる。ヴィオラは顔を傾けてそちらへと振り返り、足を止めた。少年は軽く息を整えた後、手にした甘い香りのする棒状の物体をヴィオラに向かって差し出した。

「差・し・入・れ♪」

 ヴィオラは眉根を寄せた不機嫌顔のまま、その食べ物らしき物体を受け取った。

「やだなぁ、そんな怖い顔しないでよ」

 不機嫌なヴィオラとは対照的にチェロは実に楽しそうな様子である。もっとも、チェロが楽しそうにしているのはいつものことだ。

「俺のこと怒ってる?」

「……」

 ヴィオラは無言で再び歩き出す。その顔を見上げたまま、チェロもその後に続く。

 可愛らしいフリルのついたメイド服にレースのカチューシャ、片手に甘い香りを放つ焼き菓子を持つその姿は、華奢な少女であればこの上なく絵になっていただろう。

 しかし残念ながらそれらを身に着けているのは一般男性並みの長身で、片手で大剣を振り回す程の豪腕を兼ね備えた女戦士。背に負った剣が無いとしても、この組み合わせはそぐわない。

そんな自分を自覚してか、ヴィオラは周囲に視線を配りながら溜め息を吐いた。

 ごった返すアリアの町の大通りは実に様々な人で溢れ返っている。仕事から帰還したばかりの樵は薪を背負ったまま道を急ぎ、露店の主は客引きの大声を出して通りがかる人々を呼び止めている。耳を覆うほどの音の洪水。楽しげないつも通りの風景だった。しかし、不意にその中から不穏な叫び声があがり、ヴィオラは思わず足を止めた。

「や、やめてください!」

 甲高く、細い声だった。誰かの助けを請う色が響く。声の方向へと目を向ければ、そこには他よりもいっそう密度の高い人々の輪が出来上がっていた。

「なんだろうね?」

 言った言葉とは裏腹にあまり興味なさげな顔でチェロは通り過ぎようとした。しかしそんな彼を置き去りにして、ヴィオラはおもむろに輪の中央へ向かって足を踏み出した。

 人ごみを掻き分けて女戦士は進む。押しのけられた人々は不満げに振り返ったが、目に飛び込んできた異様な風体に驚いて一様にぎょっとした顔で固まっていく。強行するヴィオラの後ろから苦笑いに近い表情のチェロが続いた。

 円形の人垣を押しのけるとその中央で二人の人間が揉めていた。一方は先ほどの声の主らしき藤色のローブを身に纏った可愛らしい顔立ちの魔法使い。水晶の付いた杖を持っている。

 そしてもう一方は、杖を持った魔法使いの手を掴んでいる柄の悪そうな大柄の男であった。旅の傭兵か何かなのか、腰には大きめのシミターを挿している。

「少しくらい案内してくれてもいいじゃねえか」

「い、嫌です!離してください!」

 見たところ、ゴロツキ傭兵が嫌がる魔法使いを無理やりナンパしているというごくありふれた場面のようだ。

「なんか、工夫のない台詞だね」

「……」

 ヴィオラの陰からひょっこりとチェロが顔を覗かせて、ポソリと呟く。その声音はやはり気もそぞろな色だった。

 ――なんてくだらない。

 思わずヴィオラは深く息を吐いた。嫌がる人間に案内を強要するだけで、この町ではこんな風に騒動になる。これが人命の関わる事でもきっとこんな調子なのだろう。他人事であり、興味本位で見ていても罪にならないからこうしていられる。気楽なものだ。

「……」

 そんな下らない事に苛立ちを感じてしまう自分もまた、彼らとなんら変わらない。ただの傍観者だから無責任に苛立っていられるのだ。ヴィオラは再び大きなため息を吐き、細い腕を掴んで離そうとしない傭兵へと向かって、歩を踏み出した。

「そんなこと言わないでくれよ。俺、今この町についたばっかりで――ぁあ?」

 男の顔に影がかかり、言葉が途中で途切れた。顔を上げて影の方へと振り返る。

 手には焼き菓子、背には巨大な剣。メイド服に身を包み、人形の様に無表情の背の高い女が太陽を背にして仁王立ちになっている。そんな状況に直面して平然としていられるのは、心臓に毛の生えているチェロくらいなものだろう。

「な、なんだお前?」

 ヴィオラは傭兵の言葉を無視して大股に近づき、魔法使いの腕を握ったその男の手首を捕らえた。細くか弱い魔法使いの腕を太く逞しい傭兵の腕が握り、その腕をレースの付いた袖のヴィオラの腕が握りしめる。そんな異様な状況に男は虚をつかれたが、抗議の声をあげた。

「な、なんだよ?何か……ぃいっ!?」

 その時、ヴィオラが左手に力を込めた。一瞬にして男の顔が曇り、その手が引きつるように開かれる。呻き声をあげる男の腕が細い腕から離れると、魔法使いは慌てて自分の腕を引いた。

「あ、ありがとうございます!」

 魔法使いはヴィオラに向かってそう叫び、腕を庇いながら人垣の中へと飛び込んだ。

 その立ち去る後姿を確認してからヴィオラが漸く腕を離してやると、男は慌ててヴィオラから距離をとる。痛そうに摩る腕にはくっきりと指の痕がついていた。

「な、何だお前!あの女の知り合いか!?」

「……違う」

 ヴィオラが唸る。怒りが治まったのか、その声に含まれるのは嫌悪感だけだった。

「……」

「……?」

 ヴィオラはそれ以上言葉が続かなかった。冷静になった今、なぜ自分があの魔法使いを助けようとしたのかが自分自身にも言葉にできなかったのだった。

「……」

「あの……?じゃあ、何で……」

 黙りこくるヴィオラに対し、男の方が威勢を削がれて声が小さくなっている。

「……あの」

「君ねぇ、通行の邪魔なんだよー」

 凍りついた二人の間に割って入ったのは少年の声だった。メイド服の背中から現れた少年は自分より遥かに大きな男を見上げて笑いながら言う。

「こんな大通りで騒がれたら皆困っちゃうんだよ。道案内なら酒場にでも行けば?」

 そう言ってチェロは苦笑いを浮かべたまま、手で追い払うようなしぐさをする。

「……チッ」

 男はそんな少年とヴィオラとをひきつった顔でしばし交互に見つめ、敵わないと悟ったかおもむろに人混みの中へと飛び込んだ。周囲を囲んでいた人々は男の突然の行動に驚きながらも、逃走するその巨体に道を開いた。

「……コンジョーナシだなぁ」

 その背中を見送った後、チェロが苦笑混じりに言う。その言葉を合図にしたかのように集まっていた人々の輪も解れ、いつもの大通りの流れへと飲み込まれていった。人々が方々に散っていくのを見ながら、チェロが意味深な笑みを浮かべて呟いた。

「ヴィオってさ、男は割と放っておくけど女の子が困ってると見過ごせないよね」

 軽口を叩く少年へヴィオラが向き直り、その顔を見つめてから深いため息を吐いた。

「……悪かった」

「へ?なんで謝るの?俺だってああ言うときは助けに入ると思うよ?」

「……」

 あっけらかんとした顔で笑うチェロを見て、ヴィオラは再びため息を吐く。つい先ほどまでの不機嫌だった自分があまりにも子供染みていた様に思えて、少し照れくさい。

 ヴィオラは口元に僅かな笑みを浮かべると、手にしていた焼き菓子を口に放り込んだ。

「美味しい?」

「……うん」

「それは良かった」

 少年が嬉しそうに無邪気に笑う。いつの間にか夕日はすっかり傾き、夜の気配が漂う時刻になっていた。


 窓の外に広がるものは深い夜。薄い窓ガラス一枚を隔てた外には暗く深い街並みが広がっているのが見える。ヴィオラは窓際の椅子に座り、布を手にして大剣の手入れをしている。今朝鍛冶屋から受け取ったばかりの剣だが、毎日剣を手入れするのは彼女の欠かせない日課だった。

 そしてその間、チェロはベッドに腰掛けてそんなヴィオラを眺めている。これもまた一日の終わりに繰り広げられるおなじみの光景だった。

「……今日の…アレは、何だったんだ?」

 ポソリとヴィオラが呟く。今日の午後に決行したメイド服による囮作戦では、結局ごろつきにからまれた魔法使いを救う以外の特別な出来事は起こらなかった。

 なぜあんな真似をしなければならなかったのか……ヴィオラにはチェロの思惑が読めない似合いもしない奇抜な服を着て人ごみの中を歩いていたあの時のことを思い出すと、頭を抱えてベッドの中にもぐりこみたくてたまらない気分になるのだった。そんなことを考えて憂鬱な顔をするヴィオラに、チェロが何処か悪戯めいた笑みを浮かべて言った。

「もしかして今日のアレ、朝に来た魔法使いを誘き出そうとしてたと思ってる?」

「違うのか?」

 ヴィオラは剣の手入れをするのを止め、顔をあげてチェロの方へと視線を向けた。

「うん。アレはもっと別の目的でやったことなんだ」

「……では、いったい……」

 チェロの言葉の意味が理解できずにヴィオラが怪訝な顔で呟く。ヴィオラはてっきり、あの灰色のフードをかぶった魔法使いを誘き出して捕え、知っていることをすべて吐かせるために歩き回っていたのだと思っていた。そんなことでわざわざ出てくる相手ではないと理解しつつも、それ以外の理由が彼女には思いつかなかったのだ。

「今日やったのはね、『別の』神隠し関係者へのアピールなんだよ」

「別の……?」

 ヴィオラは更に怪訝そうにする。言葉の意味が理解できない。『別の』神隠し関係者を探したいのはわかるが、なぜメイド服を着たのかがわからないのだ。

「ギルドでさ、俺たちずいぶん噂になっていたじゃない」

「……ああ、まあ……」

 朝、鍛冶屋に寄ったついでにギルドに行ったときのことを思い出す。早朝だったというのにギルドには随分な人数の傭兵たちが集まっていた。どうやら、毎朝一番にヴィオラがギルドへやって来ることを知っていて彼女を待っていたらしい。集まっていた傭兵たちがヴィオラを取り囲んで口々に投げかける質問は、すべて同じ内容だった。

 ――メイド服を着て神隠しの調査をしたというのは本当か?

 事実を言えば『神隠し』の調査をしたわけではなかった。しかしどうやら『あの街道』で仕事をしたという事実がいつの間にか『神隠しの調査をした』という憶測に変わり、それが既成事実として伝わってしまったらしい。

 人の集まりが苦手なヴィオラにとって、その状況はあまりにも面倒だった。だからその時はその問いに何も返答をせずにギルドを後にした。どうやらそれが悪かったらしく、昼過ぎに食事に出かけたころには既にその噂はギルドだけではなくチェロとヴィオラを見知っている者たちのほとんどに広がっていたのだった。

「あれだけ噂が広まれば、メイド服を着た傭兵を見れば俺たちだってわかるはず」

「……」

「つまり俺たちがしたのは囮じゃなくて宣伝。神隠しに関係している人なら俺たちに接触したくなるはずだ」

「……そんなにうまく行くか?」

「さあね」

 チェロは穏やかな表情を浮かべ、組んだ指をを見つめている。

「もしかしたら独自に神隠しを調査してる人が接触するかも。そうなれば嬉しいね」

「……」

「でも一番は……」

 チェロが含み笑いを漏らす。その顔を見ると、挑戦的な笑みを浮かべていた。

「犯人が接触してくれば嬉しいな」

 その言葉にヴィオラは思わず眉をしかめた。魔法使いが相手なのはあまり嬉しくない。

「ま、どちらにせよ、表立って接触するような人は始めっからアテにしてないってことさ。効果が出るのはこれからのはずだよ」

 チェロの口調は穏やかだが好戦的だった。何が来ても揺るぎ無い信念が感じられる。

 ヴィオラは一つ息を吐いて、手入れの終わった剣を鞘に戻した。この少年に何を言っても無駄だということは、彼女には既に百も承知。それならば自分も腹を括るしかない。

 鞘に入った剣を手に椅子から立ち上がると、少年の腰かけているベッドへと近づいた。

「魔法といえば……この町って魔法学校があるらしいね」

「……らしいな」

 チェロの瞳が興味深げに輝いている。ヴィオラはその視線を受け流しながらベッドの脇にかがみこむと、その下に大剣を置いた。

「この規模の町に魔法学校ってちょっと珍しいね」

「……」

「魔法使いが関わってるんだからこっちにも魔法に精通している人が居て欲しいよね。魔法学校の生徒でもスカウトしたいところだけど……難しいかな」

 そう言いながらチェロはベッドの上を少し脇へと移動する。ヴィオラは立ち上がると、そのスペースに深々と座った。その反動で彼女よりもはるかに軽いチェロの体が僅かに跳ね上がる。

「魔人が出たと聞いた」

「らしいね」

 これはこの町で傭兵をしている者から聞いた話だが、四年前にこのアリアの町を魔人が襲ったことがあったらしい。

 『魔人』とは、人と魔族が合わさった魔法生物のことだ。人の狡猾さと魔族の力が合わさった魔人は、禍々しく恐るべき力を持っていると言う。ひとたび人の世にそれが現れれば、あっという間に町の一つや二つ、滅ぼされてしまうと伝えられていた。

「その頃は魔法学校は無かったって話だけど……よく撃退できたもんだね」

「魔法使いは居た……と聞いたが」

「でも旅の魔法使いが数人程度って話だよ?魔人ってのは普通魔法使い十人とか集めて対抗するもののはずだけど……よほど腕のいい魔法使いだったのかな」

 チェロは首を捻りながら言う。魔法の発達した今でこそ十数人の魔法使いが集まれば対等に戦える相手だが、かつては魔人一人で国一つが滅びかねないほどの脅威だった。

「この規模の町に魔人なんて出たらね……そりゃ魔法学校の一つも作りたくなるか」

「……」

「でもなぁ……協力を頼もうにも、魔法学校には神隠しの捜査の人たちが手を回しちゃってるだろうから、アテに出来ないだろうなー……」

「……そうだな」

 ヴィオラが低い声で相槌を打つ。その声音はどこか上の空だった。

「そうだ、もういっそのこと今から魔法の勉強でもはじめちゃおっか」

「……しかし」

「まぁ、付け焼刃じゃ何の役にも立たないだろうけど……目的を絞って覚えれば今からでも何とかならないかな……とか、ね」

 口数の少ないヴィオラの隣で、チェロは思考を巡らせながら一人ブツブツと呟き続けている。

 そんな少年の横顔を眺めながら、ふとヴィオラは瞼が重たくなるのを感じた。

「ねえ、ヴィオは魔法とか興味……」

 チェロが振り返る横で、ヴィオラがポスンと音をたててベッドの上に倒れこんだ。ベッドが軋んで揺れる。チェロの銀色の頭が反動で上下するのを確認した後、戦士は静かに目を閉じた。

 暗闇の幕と、冷えたシーツが心地よい。まるで数十年ぶりに身を横たえたような、そんな柔らかな疲労感に体全体が包まれるのを感じた。

「今日は疲れた?」

「…………疲れてない」

 チェロの優しい問いかけに答えながら、ヴィオラは体を横に向ける。手近にあった掛布団を乱暴に抱き寄せると、その布の海へと顔を埋めた。

「疲れてるじゃん。ほら、寝るならちゃんとしなよー」

「……疲れてない」

「もー」

 口調こそ静かだが、ヴィオラは頑なだ。その耳にチェロのあきれた苦笑いの声が届く。

 少年と二人きりの部屋。漂っている穏やかな空気。常日頃戦いに備えているヴィオラにとってこの瞬間はとても心地よく、幸福を感じることができる貴重な時間だった。

 そんな静かな時間を満喫していたヴィオラのそばから、不意にチェロが離れようとする気配があった。咄嗟に顔を上げて慌てて腕を伸ばし、少年の細い腕を捕まえる。

「……」

「なぁに?」

 少年の面白がるような笑顔が目に入った。

「…………もう少し」

 ヴィオラがおずおずと呟くと、少年の笑みが広がった。

「……少しだけね」

 ベッドの隣に自分よりもはるかに小さな重圧がかかる。微かな少年の気配を感じながら、ヴィオラは再び布の中へとその顔を伏せた。

「……」

 小さく柔らかい掌の感触。しかし決して頼りないものではなく、温かくて愛おしい。

 チェロが傍にいてくれる。ヴィオラにとってこれほどまでに嬉しいことは無い。

「……ヴィオ?」

 黙ったままのヴィオラに向けた怪訝な声が布団越しに聞こえた。先ほどよりもわずかに声が近い。布越しに少年の視線が自分に注がれているのがわかる。

「……その」

 しばし言いにくそうに口ごもった後、ヴィオラは意を決して口を開いた。

「……私には……あの服は似合わないと思うよ」

 一瞬、チェロはその言葉の意味を飲み込み損ねたようだった。戸惑うような驚くような逡巡の後、少年は思い切り噴き出した。

 ヴィオラは顔が熱くなるのを感じた。布団から顔半分を覗かせると、傍らの少年の顔が自分の思っていた通り、優しい笑顔であることを確認する。

「そんなことないよ!可愛かったじゃん」

「……みんな笑ってたよ」

「ヴィオが可愛いから思わず笑顔になっちゃったんだよ」

「……」

「それ、ずっと考えてたの?」

「……」

 その質問には答えずに、ヴィオラは再び顔を布団の中に埋める。これでは肯定しているのとほとんど同じだった。

 チェロのクスクス笑いが静かに耳に届く。それは昼間、遠巻きにしていた人々から感じられたような嗤うものではなく、木々のさざめきの様に心地よい響きだった。

 不意に、無言のまま顔を伏せるヴィオラの直ぐ向こう側に、少年が体を横たえる気配があった。顔を挙げればきっと、驚くほど近くに少年の顔があるに違いない。

「ヴィオはあんまりああいう服着る機会あんまりないけど、俺はすごく好きだな」

「……」

「そんなに嫌だった?」

「……嫌なわけじゃない」

 チェロの柔らかい手に力がこもり、ヴィオラの大きな手を優しく握り返す。日常的に剣を握り豆だらけになった、女らしくない手。その中に納まる少年の手はあまりにも細かった。

 そっとヴィオラが布団から顔を出す。目の前の少年の顔は思った以上に近い。

 チェロは、囁くように言葉を紡ぐ。

「……今日は疲れた?」

「少し、だけ」

 ヴィオラの顔にほんの少しの笑みが広がる。唇の端を持ち上げるだけのほんの少しのぎこちない笑顔。表情を作るのが苦手な彼女にとって、その笑顔は精いっぱいの好意のあかしだった。

「じゃ、そろそろ休みなよ。明日は何か動くと思うから、体力を回復しておいて」

「……うん」

 チェロはもう一度掌に力を込めてから、ゆっくりとその手を放した。ベッドから降りる少年の小さな背中をヴィオラは視線だけで追いかける。

 名残惜しいものを感じながらも、ヴィオラはそれ以上引き留めることは出来なかった。少年の言う通り、休める時には休んまなければならない。それが自分の役目だからだ。

 部屋の中をチェロの落ち着いた足取りが横切っていく。ヴィオラの視線から外れた場所で、扉を静かに開ける音が鳴った。

「お休み、ヴィオ」

「……お休み、チェロ」

 扉がパタリと閉じて、チェロはヴィオラの部屋を出て行った。遠ざかる足音を聞きながら、ヴィオラはしばらくの間、何も触れるものの無い自分の掌を眺めていた。


 屋根を叩く雨音がまるで遠い拍手の様に寝静まった部屋へと届いてくる。時折まばゆい雷光が窓を透過して木造りの床に当たり、部屋の中が一瞬だけ明るく輝いた。

 暗い部屋には規則的なヴィオラの寝息だけが響いている。決して大きくはないその音に合わせて、布に覆われた柔らかな曲線が上下を繰り返す。

 動き回る者の無い静かな部屋。そこへ突如、変化が訪れる。雨の叩きつける窓が音もなく開くと、そこから一人の人間が軽やかに部屋の中へと降り立った。人相を完全に覆い隠した白いフード。全身をそれと同じ白いローブに身を包み、手には杖。色合いこそ違うものの、その姿は早朝にヴィオラとチェロの元にやってきた魔法使いに非常に酷似していた。

 目を閉じたまま寝息を立てるヴィオラに視線を移すと、その魔法使いはゆっくりと杖を掲げる。その先に、黒く渦巻く光が音もなく集中していく。次の瞬間、固く閉じられていたヴィオラの両瞼が見開かれると、布団を跳ね上げてベッドの上へ起き上がった。

「!」

 目覚めたヴィオラは魔法使いへと向き直り、枕の下から短剣を探り出した。

 素早く鞘から引き抜くと、それと同時に魔法使いへと向かって踏み込んだ。しかし強いヴィオラの踏み込みに堪えられなかったベッドが床を滑り、勢いが殺される。

 魔法使いは身を引きながら杖を持たない方の手を翳した。その掌の先に薄い光の幕が下り、魔法の防御壁を作り出す。ヴィオラの短剣がそれに触れた瞬間、防御壁は瞬いて豪風へと変わる。ヴィオラは激しい風にあおられてはじき返された。

「……っ!」

 ヴィオラの身体が空を飛び、ベッドに叩きつけられる。宿中に響くような大きな音が鳴るが、侵入者もそれに相対するヴィオラも、そんなことには構わない。

 魔法使いは倒れたままのヴィオラに杖の先を向け、小さな声で呪文を唱える。咄嗟にヴィオラは短剣を魔法使いに向かって投げた。それは魔法使いの杖先に当たり、硬い音がして杖が別の方向を向いた。その先から小さな光の粒子が発射され、木造の床に光の飛礫の穴が開く。

 魔法使いの意識がそちらに逸れたその隙に、ヴィオラはベッドの下から大剣を取り出し構えて、空を狙って振り抜いた。剣をヴィオラの手に残し、鞘だけが魔法使いへとんでその腕に当たる。今度こそ杖が魔法使いの手から落ちた。

「くっ……!」

 唇を噛んで怯んだ魔法使いに向かって大剣を構えてヴィオラが突進していく。杖を失った手の平を向け、魔法使いは再び防御壁を作り出した。大剣が防御壁にぶつかり、再び突風が発生する。しかし今度は先ほどとは違う。杖を失ったためかその暴風壁には先ほどの威力はなく、ヴィオラはその場で踏みとどまった。

 二人の視線が交じり合う。拮抗した力がぶつかり合い、火花が散った。

「どうしたの!大丈夫!?」

 一瞬の沈黙が二人の間に降りた瞬間、部屋の扉が叩かれ、その向こうからチェロの叫び声が聞こえた。しかしヴィオラにはその声に返事をしている余裕が無い。

「……いい腕だ」

 ヴィオラと睨み合っていた魔法使いが口元を吊り上げて言う。何か言葉を返すべきなのか、一瞬の逡巡の間に防御壁が消滅し、勢いを反らされたヴィオラはたたらを踏んだ。

「驚かせて悪かった。この辺にしておこう」

「……?」

「アンタの実力が知りたかったんだ。……剣を収めてくれないか?」

 魔法使いのその言葉にもヴィオラは動かず、剣を構えたまま間合いを計ってねめつける。こんな深夜に突然訪れた相手の言葉を、そう易々と信じることはできない。

「……そりゃそうだろうな」

「ヴィオ!」

 突然部屋の扉が開いた。先程まで扉を叩いていた少年が部屋の中へと踏み込んでくる。

 部屋の入口から魔法使いの姿を認めた瞬間、チェロはヴィオラの元へと走った。走りながら腰の短刀を抜き、ヴィオラの前に立って魔法使いを睨み付ける。二人の鋭い眼差しを受け、魔法使いは口の端を吊り上げたまま両手をゆっくりと挙げた。

「喧嘩をしに来たんじゃない。話をしに来ただけで……というのは無理があるかな?」

「そりゃそうでしょ!いきなり女の子の部屋に忍び込んで暴れておいてさ!」

 チェロはヴィオラ以上に怒り心頭の顔をして、魔法使いに向かってじりじりと間合いをつめる。魔法使いの笑みに苦いものが混ざった。

 そんなチェロの肩を後ろからヴィオラが掴んだ。少年は銀の髪を揺らして振り返る。

「私は大丈夫だ」

「……」

 チェロは黙ったままヴィオラの顔を見、その後再び魔法使いの方へと顔を向けた。魔法使いもまた黙ったままチェロの顔を見つめる。その口元はやはり不敵に笑っている。

「お、お客様?どうかなさいましたか?」

 緊迫する部屋に宿屋の従業員の声が飛び込んだ。振り向くと、開いたままの扉の向こうで従業員が戸惑いの表情で三人を見つめていた。チェロは素早くナイフを隠す。この光景は、彼女にどう見えるだろう?争い事を持ち込んだと知られれば、追い出されても不思議はない。

 頭の中を様々な思考が駆け巡る。兎に角チェロが何か言い訳をしようと口を開きかけた瞬間、向かい合っていた魔法使いが入口へと素早く駆け寄った。

「お騒がせしてすみません。旧友がここにいると聞いて少し驚かせようとしたら、思った以上に警戒されてしまって……」

 そう言いながら魔法使いは深く被っていたフードを下ろす。現れた顔は十代後半と見られる若い男性だった。やや痛んでいる金色の長い髪が雷光に照らされて輝いた。

「え……ええと……」

「もう二人とも落ち着いたみたいなので、大丈夫です。用事が済んだら出ていきます。……ご心配をおかけしてすみません」

「は、はぁ……」

 従業員は納得している訳ではないようだったが、青年の落ち着き払った様子を見て渋々引き返していった。こんなときチェロは、大人の男が羨ましくて仕方なくなる。

「で?」

 扉を閉めて振り返る青年に向かって、チェロがぶっきらぼうに口を開く。

「で、あんたは誰?」

「もう少し綺麗な言葉使いをしたらどうだ?傭兵、チェロ」

 魔法使いは不敵な笑みを向けて言う。チェロは微かに首をかしげた。

「俺たちのこと、調べてきたの?」

「調べたというか……随分目立つことをしていただろう。アレを見れば誰でも興味が沸くさ」

 どうやら彼はヴィオラの仮装行列を見て二人を知り、ここへやってきたようだ。チェロの後ろでヴィオラが微かに身動ぎをした。

「自己紹介が遅れてすまない。……俺はクラル。見ての通りの魔法使いだ」

 言いながら真っ直ぐに二人に注がれた切れ長の青い目は、鋭い色を湛えていた。先ほどの立ち回りもさることながら、本気を出せばおそらくはかなりの手練れだろう。

 青年の視線に、チェロは身を堅くする。

「このタイミングで来るってことは、神隠しの事件について関係があるの?」

 クラルは再び驚いた顔をした後、薄く笑顔を浮かべた。

「察しがいいな。……俺も、あの事件を調べているんだ」

「!」

 クラルは何てことないように手をひらひらと振る。チェロがすかさず口を開いた。

「俺『も』って、どういうこと?」

「君達が昨日街道に行ったと言う話を聞いた。神隠しの事件を調べているんだろう?」

「……」

 やはりギルドでの噂を聞いたのか。チェロは目を細めてクラルの穏やかな顔を見つめるが、感情を押し殺したその顔には何も見つけられない。

「俺は以前からこの事件を調べている。君達よりも事件の核心に迫っている筈だ」

「……それで?」

「端的に言う。……俺に、協力してほしい」

 そう言ったクラルの目は真剣だった。

「犯人の目星も、その拠点も分かっている。だが、俺一人では手が足りない」

「……」

「もちろん報酬は出す。だから……どうか、頼む」

 少年はクラルの真剣な瞳を見返した。二人の視線が交差する。どちらも目をそらさなかった。

「……良くわかんないな」

「?」

「協力者がほしいなら、領主のところへ行けば良い。情報提供は歓迎されると思うよ」

「……それは……」

 クラルが戸惑うようなしぐさを見せた。目を細めて静かに息を一つ吐き出す。

「それじゃダメなんだ。……この事件は俺が解決ないと……」

「なんで?」

 すかさず問う。その口元にいつもの薄ら笑いが浮かんでいるのをヴィオラは見た。

 クラルは言い淀み、視線を彷徨わせる。チェロは相手が口を開くのを黙って待っていた。やがて魔法使いは意を決したように口を開いた。

「この事件の犯人は……たぶん、俺の弟だ」

「……へぇ?」

 大よそそれに近いことは予想していたらしいチェロは、あまり驚いた様子ではない。ヴィオラは内心の驚きを隠しながら、チェロの後ろからクラルの口元を見つめていた。

「弟は……復讐する気なんだ。この町に……」

 クラルは苦々しく言って拳を握りしめる。その顔をチェロはじっと見つめた。

「……俺と弟、俺たちの両親の四人は昔、この町に住んでいたんだ。しばらく旅に出ていて……四年前に、この町に戻ってきた」

「四年前……って、魔人の襲来?」

 チェロは先ほどヴィオラと話をした内容を思い出しながら口にする。

「ああ。俺の両親は、その魔人を倒すために戦った魔法使いでね」

 クラルの瞳が暗く翳っていく。

「両親は魔人を退けた。だがその代償に……命を落とした」

 雷光。そしてしばしの時を経て、雷鳴が轟く。雨音を聞きながら、チェロとヴィオラはクラルの言葉が紡がれるのを待っている。魔法使いはため息とともに目を閉じ、唇を噛み締めた。両親のことを想っているのだろう。閉じられたままの双眸から、一筋の涙が零れ落ちる。

 ゆっくりと息を吸い込みながら再び目を開いたクラルの目は、先ほどまでの穏やかな色を取り戻していた。

「弟は、両親の死をこの町のせいだと考えている。いつか復讐すると、何度も口にしていた。そして数ヶ月前に俺の前から姿を消した……」

「……」

「俺は弟に復讐なんかさせたくない。止められるなら、今すぐにでも止めたい」

 チェロはクラルを見つめ、小首をかしげる。

「神隠しがこの町への復讐って訳?なんか、ずいぶん小さいね」

「……弟は、魔人になるつもりだ」

 チェロは息を呑む。魔人がこの世に現れるには人の手による儀式が必要だと言われている。

 人がその手で生贄を捧げ、それを以って魔族との契約を結ぶ。魔族と人とが交わり、生まれる魔人はそれまでの人とも魔族ともつかない新たな存在。

 『生贄』……それは、消えていった人々と関連があるのではないだろうか?

「魔人になって、この町を破壊する。……それが弟の言う復讐なんだ」

 クラルの瞳は真剣そのものだった。とても冗談や洒落のようには見えない。チェロは冷や汗が出るのを止められない。

「……ちょっと、洒落にならないな」

「洒落で言っているわけではないからな」

 神隠しの事件。これはチェロとヴィオラにとって、旅の目的に近づく重要な手がかりになるはずだ。しかし魔人となると、生半可な覚悟で関われるような相手ではない。魔人と言えば高名な魔法使いが十人も居てようやく抗える様な相手だからだ。魔法を使えないチェロとヴィオラがそんな魔人に立ち向かえるわけが無い。むざむざ命を落とすに決まっている。

「まだ、弟は魔人にはなっていないはずだ」

 そんなチェロの内心を察したか、クラルが口を開く。

「……確信があるの?」

「生贄には十三人の命が必要だと言う」

 クラルが両手を広げると、その上に光の粒子が集まって一冊の本になった。パラパラとその本をめくり、クラルはあるページで手を止める。

「月の下、魔世界への入り口にて病無き十三の命を捧げ、魔に呼びかけるべし。自らの命を以って魔に示すべし。さすれば、魔と人は融合せん」

「……病無き十三の命、か」

 チェロは考えを巡らせる。今までの行方不明者は何人居るのだろう?確実に言える命を失った人数は?昨夜の三人の盗賊、彼らは魔に捧げられた生贄だろうか?「魔世界への入り口にて」との文言からすれば、彼らが死んだのは留置所の中でのことだから、生贄ではないのかもしれない。ではなぜ三人は殺されていたのだろう?

「俺の調査では、昨晩までで既に十人が行方不明になっている。昨晩ので、十一人」

「!」

 息を呑むチェロ。昨夜神隠しにあった盗賊が十一人目。となれば残りは二人。今夜中に十三人目の生贄を探すことも可能だろう。チェロは窓の外を見上げる。幸いにも今夜は月が出ていない。生贄を探したとしても、儀式は執り行えないはずだ。

 クラルが暗い声で囁く様に言う。

「時間が無い。……どうか、俺に手を貸して欲しい」

「……」

 チェロは逡巡する。今までにも、危険な橋は何度も渡ってきた。しかしそれは人間相手の事件だった。今回の相手は魔人だという。そんなもの、人の手の及ぶ範囲を超えている。一介の傭兵にすぎないチェロとヴィオラの二人に何が出来ると言うのだろうか。

 まだ魔人は生まれてはいないという。だがもう十一人が犠牲になっている。下手をすれば二人のどちらかがが十三人目の生贄になるか、魔人の最初の犠牲者になりかねない。

 迷うチェロの肩をヴィオラの手が叩いた。少年はゆっくりと女戦士の顔を仰ぎ見る。

「私のことは気にしなくて良い」

「……」

 その表情には不安も迷いも存在しない。チェロはそんな顔を見上げて唇を噛んだ。

 こんな危険な事件の渦中にヴィオラを巻き込みたくない。チェロ自身は、魔法に対して耐性があるから問題はない。しかしヴィオラは違う。彼女は魔法に対して何も出来ない。魔法使いが相手だというのだから、できることなら彼女を連れて行きたくない。

 確かにこの事件に関われば、二人の旅の目的に近づけるかもしれない。しかしヴィオラが居なくなってしまえばそれは全く意味が無いことだ。チェロにとっては、ヴィオラさえ無事であれば、何もかもがどうでも良い。この町がどうなっても、ヴィオラさえ無事にチェロの隣に居るのならそれで構わない。ヴィオラはそれを許す様な人間ではない。しかしチェロにとってはヴィオラの意思すらも、最終的にはどうでも良いのだ。ただヴィオラが無事でさえあれば。

「今決めろ、とは言わない。幸いまだ一日猶予がある」

 クラルは窓の外を眺めながら、ゆっくりと歩を進める。厚い雲が空を覆い、大粒の雨が絶え間なく降り注いでいる。少なくとも朝までは、この天候は変わらないだろう。

 床に落ちていた杖に手を伸ばし、魔法使いは囁いた。

「明日の午後にまた来る。……その時に、答えを聞きたい」

 クラルはチェロの返答を待たずに、窓枠に手をかけてゆっくりと開いた。

「ちょっと」

「?」

 そんな相手を見てチェロが不機嫌な声を出した。

「次に来るときはちゃんと表から入ってきてよ。あと、来るなら俺の部屋に来て。ヴィオの部屋に来たら俺が叩き出すから!」

「……」

 クラルは苦笑し、そのまま雨の降りしきる窓の外へと飛び出した。彼の姿が見えなくなる前にチェロはすかさず窓際に駆け寄ると窓をピシャリと閉めた。

「ヴィオ!」

 ヴィオラの方へと振り返り、同時にチェロがやや強い口調で言う。

「なんで部屋の鍵が開いてるの?窓の鍵も開きっぱなしだったみたいだし」

「……忘れていた」

 チェロが唇を尖らせる。

「危ないでしょ!女の子なのに!変態が入ってきたらどうするの?ある意味さっきのだって変態の一種だよ!」

「……それはさすがに、酷いんじゃないか?」

「窓から出入りする魔法使いなんて変態で十分だよ!」

「……」

 ヴィオラが眉をしかめる。窓から出入りするだけで変態扱いされるなら、ヴィオラも何度か変態になっているからだ。そんなヴィオラの内心に気付かないらしいチェロは、一人でクラルに対して何事かぶつぶつと文句を呟いている。彼はヴィオラのことを心配してくれているのだ。それは伝わってきていた。そんな少年を眺めて、ヴィオラはふと口の端を吊り上げる。

「……来たじゃないか」

「え?な、何が?」

「神隠しの関係者」

「……あー」

 チェロは就寝前の会話を思い出して、照れくさそうに頭をかく。

「でもこんな風に来られるとはね……迷惑な話だよ。せめて俺んとこ来れば良いのに」

「いや、私のところで良かったよ。チェロ一人では対処が難しかったはず」

「全然良くないでしょ!女の子なんだからそこんところはちゃんとしなきゃ!」

 チェロはどこまでも、『女であるヴィオラの部屋に男であるクラルがやってきた』ことが気に入らないらしい。ヴィオラはそんなチェロを見てなぜか嬉しい気持ちになった。

 再びクラルへの愚痴を言いかけ、チェロは我に返ってヴィオラの顔を見上げる。

「あ、ごめん。俺が居たら眠れないよね。俺は隣の部屋に居るから、ちゃんと――」

「いっそ、一緒に寝れば良いんじゃないか?」

 ヴィオラがさらりと言い、チェロは思わず硬直する。意味が飲み込めないのか、目を白黒とさせてヴィオラの挙動を見つめた。そんなチェロには構わずに、ヴィオラは大きくずれたベッドを元の位置へと戻した。木の床がギシギシと音を立てる。その音にチェロが再び我に返った。

「えー……と……言ってる意味、分かってる?」

「……?」

 チェロは部屋の中を見回す。ベッドが一つ、机一つに椅子が二脚。この部屋で一緒に寝るということは、つまりそれは……。

 ヴィオラはチェロの返答をしばし待ったが、言葉に詰まるチェロを見てベッドの上によじ登った。中央の枕を少し横へずらすと、自分自身は枕の無い側に身体を寄せた。

「それは……えーと……」

 チェロの目が泳ぐ。ヴィオラは無表情でベッドの空いたスペースをポフポフと叩いて示す。ベッドの大きさからすれば、ヴィオラが一方に寄っていれば子供のチェロも空いたスペースに入れるはずだ。ヴィオラはチェロを見て小首をかしげる。

「寝ないのか?」

 チェロはしばらく目を白黒させていたが、意を決して口を開いた。

「や……やっぱり、ダメだ!ヴィオラは女の子だもん!」

 そう言うが早いか、チェロは部屋の出口へ向かって駆け出した。勢い良くドアを開き、そのまま閉じる。騒々しい音が辺りに響く。続けて隣の部屋までの足音と扉を開閉する音、そしてベッドへ勢い良く飛び込む音までもがヴィオラの耳にはっきりと届いた。

「……残念」

 ヴィオラはベッドの上で一人呟くと、結局そのままベッドにもぐりこんだ。そしてすぐに寝息を立て始めるのだった。


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