第二章 二人の訪問者
窓から見上げた空はあまり機嫌が良いようには見えなかった。面積の三分の一ほどが灰色の雲に覆われ、前日の残り物の薄青色を押しやっている。
銀色の髪を揺らしながら、少年は一人でナイフの手入れをしていた。大柄の戦士とは違い、彼に扱える武器と言えばこの小さなナイフくらいな物だ。少年にとって唯一使える武器と言っても過言ではない。だからこそ、彼にとって毎日の武器の手入れは大切な日課になっていた。いざと言うときに使いものになければもともと非力な彼にはほかに暴力に対抗する術が無い。
少年は集中してしばらく手元に目を落としていたが、耳に届いた微かな音に気付いて扉へと目を向けた。木造の廊下を響くような重たい足取りが近づいてきていた。この聞きなれた足音は、恐らく彼女のものだろう。
扉がきしんで開く。扉を潜って現れたのはチェロの相棒であるヴィオラであった。
「入る」
「早かったね」
戦士の顔を確認したのちにチェロは再び顔をナイフへと向ける。その彼の頭の上でヴィオラの足音が部屋の中を横切り、チェロの向かいの席のあたりで止まった。椅子を引き、ヴィオラは音が鳴るほどの勢いでそこへ腰を下ろす。
再び目を上げると、ヴィオラは細長い布の包みを机の上に下ろしていた。その布を一瞥してからチェロはまたも視線を手元に落とした。
「……お客さんが来るのに、間に合ってよかったよ」
チェロは手を止めてナイフを自分の目の高さに持ち上げ、仕上がりを確認した。
「俺一人だと嘗められやすいからね」
様々な角度から刃の輝きを確認した後、クルリと手の上で回して軽やかに鞘へと収める。腰のベルトにしっかりと結わえ付けると位置を確認し、小さく頷いた。
そのとき、廊下を歩く静かな足音が聞こえた。意図的に足音を消しているようだが、古い木造のこの宿ではどんなに気を配っても完全に足音を殺すことは不可能だった。
「……噂をすれば……」
「……一人だな」
二人の話し声が聞こえたのか、扉の前で止まった足音はしばしの間沈黙を保つ。やがて意を決した扉の向こうの何者かは、ゆっくりと三度扉を叩いた。
「どうぞー開いてるよー」
チェロが楽しそうに言う。恐らく、前日に約束していた領主の使いなのだろう。とすると、一筋縄ではいかない相手なのは間違いないはずだ。
ゆっくりと扉が開く。慎重に音を立てないように気を配っているような、そんな扉の開け方だった。音も立てずに部屋へと踏み込んできたのは、フードつきの灰色のマントを羽織った人物だった。深く被ったフードはその表情の半ば以上を覆い隠し、男か女かすら判らない風体に仕上げている。
チェロはその姿を見て思わず笑ってしまいそうになった。まるで『怪しさ』と言う言葉を具現化したかのようないでたちだ。こんな風体をしているのは町外れの館に住む何をしているのか定かでない老魔法使いくらいなものだろう。
来訪者は部屋の中をサっと見渡すと、チェロが座っている机へと向き直る。その瞬間、大きな音で扉が閉まった。来訪者が振り返る。いつの間にかヴィオラ大剣を傍らに置いて扉にもたれかかって立っていた。
「……チェロとヴィオラ?」
灰色の来訪者は無愛想に口を開く。声音は意外にも若く、背伸びをした十代後半か、若作りな二十代前半程度の年齢と思われた。高いとも低いとも言えない曖昧な声音からはは、やはり性別を探り当てることが出来なかった。
「そうだよ」
チェロが返答を返すと、来訪者は一つ頷いた後、懐から厚手の革袋を取り出してチェロの目の前、机の上へ金属音を鳴らして置いた。中には硬貨が詰まっているようだ。チェロは黙ってその袋を見つめた後、そのままポツリと言葉を漏らす。
「……いくら?」
「……」
チェロが見上げると、来訪者はフードの間から見える口元を不愉快そうに歪めた。灰色の袖から伸びた白い手が苛立たしげに拳を握る。しかし少年はそれに怯むことなく口の端を吊り上げた。音を立てて椅子を引くと、まっすぐに来訪者へと向き直り、足を組んで言った。
「い・く・ら?」
「……」
問われた相手はしばらく沈黙する。フードの下の見えない瞳がチェロの挑戦的な顔を見つめている気配がした。鋭く張り詰めたその気配。それはいつ殺気に変わってもおかしくない危うさを孕んでいた。
やがて来訪者は不満そうに鼻を鳴らして苦々しげに口を開く。
「銀貨、十枚」
「……ふうん」
チェロは感心した表情で灰色のフードをしげしげと見る。
「いいね、悪くない」
そう言ってチェロは漸く革袋に手を伸ばし、その中身を覗き込んだ。袋を揺らして銀貨の触れ合う清涼な音を何度か鳴らす。どうやら、申告に偽りは無いようだ。
「どうぞ。何が聞きたい?」
革袋から顔を上げると、灰色のフードの向こう側でヴィオラがじっと二人の挙動を見守っている。何かあればすぐに動ける構えだった。
「……あの街道に、何が?」
訪問者は視線を逸らさずに低い声でチェロに問う。フードの隙間から見える灰色の瞳が、警戒心を露にしてチェロの顔を凝視している。チェロもまたその視線を受けて見つめ返す。しばし思案した後、笑い声を混じらせながら口を開いた。
「……ウサギ」
「は?」
訪問者が思わず間の抜けた声で問い返す。
「空飛ぶ巨大なウサギ。そいつが男を拐っていった」
「…………」
フードの下の唇が割れ、白い歯が苛立たしげに唇を噛んだ。見え透いた嘘に腹を立てているのが伝わってくる。しかしチェロは変わらず、無邪気な笑みを相手に投げ返す。
訪問者の向こう側でヴィオラが不可解そうにチェロの顔を見つめていた。
「冗談に付き合っている暇は……」
「冗談?」
チェロはカラカラと声をあげて笑う。
「なんで冗談だって思うの?」
「……」
愉快そうに笑い続けるチェロを、灰色の瞳がじっと見つめていた。無言のままの真剣な瞳はゆっくりと細められ、そこから憎悪の気配がにじみ出る。
次の瞬間、灰色の衣が翻り、訪問者はチェロへ向かって腕を振り上げた。扉の傍のヴィオラが走りながら太股に挿していた短刀を素早く引き抜き、接近する。しかしそれよりも早く訪問者の腕が振り下ろされた。同時に指先から半透明の刃が生まれ、その切っ先がきらめく。
「とても残念です。……腕のいい傭兵だと、聞いていたのに」
灰色の魔法使いはそう吐き捨てた。魔法の刃が少年の鼻先5センチメートルで静止している。もしも魔法使いの気が変われば、それは簡単に少年の額を貫くに違いない。
灰色の瞳が殺気立ってチェロの顔を睨みつける。しかしその視線の先の少年の笑顔は死を突きつけられても尚、揺らぎない涼しげな色を湛えていた。
「動くな」
魔法使いの背後に辿りついたヴィオラが短刀を突きつけ、冷え冷えとした声で言った。その切っ先がまっすぐに首筋へと向いている。決して脅しなどではない。しかし魔法使いは不愉快そうに鼻で笑ってのけただけだった。
「どうぞ。君たちのおふざけに付き合うために来た訳じゃありませんので、それでも結構です」
「……」
ヴィオラの口調は躊躇いの無いものだが、魔法使いの肩越しにチェロを見つめるその顔は困惑を露にしている。チェロの吐いた嘘の理由や、その思惑が理解できないのだろう。
張りつめた空気が部屋に満る。しかしチェロはの笑顔は曇らない。ゆっくりと魔法の刃から視線を外し、魔法使いの灰色の双眸を見上げた。
「……ねえ?」
その声音は少年特有の無邪気なもの。この場に似つかわしくない、明るい音だった。
「きみ、誰?」
チェロの緑色の瞳が魔法使いの視線を奪い取る。明るい声音ではあったが、その目は決して笑ってはいない。
「領主のお使いの人じゃないでしょ。何しに来たの?」
「……」
どちらも視線を逸らさない。憎悪の視線が少年の無垢なる瞳を見つめている。双方黙したまま、静かにその視線が混じりあう。
少年は魔法使いを見据えたままゆっくりと手を上げ、目の前に突き出された魔法の刃へとその指先を伸ばした。
「……!」
チェロの指が僅かに刃に触れた瞬間、灯がともるようにその表面が輝いた。そして半透明の刃はまるで溶けるように薄れ、消え去ってしまう。
魔法使いの口元が驚愕によって僅かに開く。しかしほんの一秒後には再びその口元を一文字に結び、武器を失った腕を素早く引いた。
「退いてください」
低い声で言い、魔法使いは首を捻って背後のヴィオラの顔を振り返る。彼女は動かず、その灰色の瞳を睨み返した。ヴィオラの手が汗に滑る短刀を握り直し、魔法使いの手がヴィオラの方へとその手のひらを向けた。
「ヴィオ、いいよ」
「……」
無言で刃を突きつけたまま睨み続けるヴィオラに、チェロがひらひらと手を振りながら言う。チェロの笑顔を一瞥した後、ヴィオラは静かに刃を引いて後退した。
魔法使いはヴィオラが下がるのを待ってから身を翻し、静かな足取りで扉へと向かった。ドアノブに手を掛けて肩越しに振り返ると、不機嫌そうに口を開く。
「またいつか、お会いましょう」
その言葉を残して扉を小さく開けると、滑り込むように部屋を後にしていった。ヴィオラは思わず一歩踏み出しそうになるが、チェロが動かないのを見てその足を止めた。
「……儲けたね♪」
難しい顔で扉を睨んだ後、ヴィオラは漸く振り返ってチェロの顔を見る。少年は小さな袋を曲芸のように宙に放り投げて受け止めながら、実に愉快そうに笑っていた。
「なぜ……」
「何が?」
チェロがその手を止めてヴィオラの顔を振り仰ぐ。ヴィオラはそれ以上言葉を続けられなかった。少年は声をあげて笑ってから再び革袋を見つめ、宙へと投げ上げる。
「嘘をついた理由は、反応が見たかったから」
袋の中で銀がチャリンと涼しい音を立てる。
「挑発した理由は、本音を引き出したかったから」
もう一度、銀貨が唄う。
「領主の遣いじゃないと判った理由は、自分から金を出したから。あのドケチの部下が、そんなことする訳ないよ」
三度の銀貨の囁きを聞きながら少年の言葉が続く。しかしヴィオラの表情は晴れない。
「その他の質問があるなら、どうぞ?」
チェロに水を向けられてしばし思案した後、戦士は目を細めて口を開いた。
「今のは……敵なのか?」
「……難しい問題だね」
笑みこそ消さないものの、その瞳に真剣な光が宿る。振り仰いてヴィオラを見つめ、再び思案した。敵か味方か。結局のところ、ヴィオラにとって重要なのはその一点だけなのだろう。しかし事態はそう単純なものではない。
「俺たちを殺すつもりなら、別な方法があったと思うよ。魔法使いだしね」
「では、敵ではない?」
「そうとも限らない。ヴィオはちょっと両極端すぎなんじゃない?」
言われてヴィオラは口をへの字に結ぶ。彼女は彼女なりに考えてはいるのだろうが、最終的には敵かそうでないかしか重要な情報として受け止められないらしい。生涯の半分以上を戦士として生きてきた以上、その思考は仕方の無いことかもしれない。
「敵で無いなら良い。魔法使いは面倒だ」
「まぁ、その気持ちはわかるけどさ」
目を逸らしながら言うヴィオラを見て、チェロがまたも声をあげて笑う。ヴィオラは生粋の戦士であり、刃を交えることにかけては誰よりも信頼が置ける。しかしその反面、全くと言って良いほど魔法に対する抵抗力を持たない。魔法使いが相手となると苦戦は必至だ。
「魔法使い、ね。……そして、神隠しか」
「?」
続くチェロの呟きにヴィオラが小首を傾げた。
「森の中の光、神隠し、そして魔法使い……無関係ではないだろうね」
「……あの魔法使いが?」
「犯人なのかはわかんないけど、そうだとすると俺たちにした質問の意図が不明だし、違うとすると俺たちのところに来た理由が分からないな……」
チェロは再び思案顔に戻る。ヴィオラは扉に目を向けたまま呟いた。
「逃がさなければ良かったか?」
「……いや、今の段階で首を突っ込んでも俺たち得しないし。それに……」
そのとき、どこか遠くから木の板を踏む重い足音が響いてきた。ヴィオラの足音と似ているが、それよりも更に重い。鎧か何かを身に付けて歩いているのだろう。
ヴィオラが素早く扉へと向かい、耳をそばだてる。傍らの大剣の柄に手を置いていつでも戦闘に入れるよう、軽い構えを取った。
「今度こそ本物かな」
「……思ったより、少ないな」
チェロが耳をそばだてる。どうやら足音は一つか二つ。あの領主から遣わされたにしては思ったよりも少人数だ。てっきり十人程引き連れてやって来るものと思っていた。
その足音はゆっくりと二人のいる部屋へ近づいてくる。そして突如として止まると、扉を開ける大きな音が宿屋中に響き、同時に若い女の声が叫んだ。
『チェロとヴィオラ!神妙に……あれっ!?』
その声は右隣――ヴィオラの部屋から聞こえた。開く扉は間違えては居ないが、中に人が居るかどうかは確認すべきだったかもしれない。
「……なにあれ」
チェロは苦笑いを浮かべた。何だか妙なものが来てしまったようだ。
歩みを表す足音が再び響く。隣の部屋に誰も居ないと気づいた足音はどうやら二人の居るこの部屋へと向かっているらしかった。再び耳障りな足音が近づいてくる。
ヴィオラはゆっくりと扉から後ずさった。あの勢いで扉を開けられたら、間違いなく扉の前に立っていた彼女に当たっていただろう。屈強な戦士である彼女ならその程度は跳ね除けてしまいそうだが、平気だからと言ってわざわざ当たってやる義理も無い。
「チェロとヴィオラだな!」
再び宿屋中に響き渡る大声を発しながら、一人の若い女性が扉を勢い良く開け放った。青み掛かった肩までの黒髪が艶やかに揺れ、緑色の瞳が正義感に燃えている。
「神妙にしろ!これから取り調べを……」
「さっきからね、うるさいよ、君」
机の上に頬杖をついたままチェロが相手の言葉を遮った。
「部屋に入るときはちゃんとノックしてよ。それがマナーってもんでしょ?」
「……」
女性は口を半開きにしたまま硬直する。目の前には長身の女戦士が剣を手にして構え、その後ろで銀髪の少年が頬杖をついて呆れた顔をしている。いったいどんな光景を想像していたのかは定かでないが、なにやら出鼻を挫かれてしまったのは確かなようだ。
「……えーと……その……取り調べをします」
「それはさっき聞いた」
チェロが呆れた声を出す。想像していた捜査官のイメージよりもはるかに若い。恐らくは初めての大役に燃えていたのだろうが、残念ながらチェロとヴィオラはそこいらのごろつき風情とはわけが違う。
冷たい視線を受け、勢いを削がれた女性は縮こまる。懐から巻紙を取り出すと、視線を落とした。その背後にもう一人誰かが居るようだが、扉の前の女の姿が邪魔で何者なのかは分からない。
「えー……傭兵、チェロとヴィオラ」
「はいはい」
ちらりと書状から目を上げて、女性が二人を確認する。
「……どっちがチェロ?」
「俺だよ。で、そっちの剣士がヴィオラね。……それ位調べてこれないワケ?」
少年はため息交じりに嫌味を漏らす。『チェロ』も『ヴィオラ』もこの地域では女性名らしく、この町に来てからこの質問はあちこちで耳にしていた。
「で?何を調べるって?俺は盗賊退治の話を聞きにくるもんだと思ってたんだけど?」
「そうそう、盗賊!盗賊のことで聞きたいことがある!神妙にしろ!」
「うるっさいなぁ……少しは声を落としてよ」
チェロがわざとらしく耳を塞ぐ動作をしながら言った。ヴィオラはそんな少年の演技掛かった仕草とは違う、本気の動作で耳を防御している。どうやらすぐ近くにいた彼女にとっては女の声は耐え難いほどの音量だったらしい。
「ツィンク、張り切るのはわかるが、少し落ち着こう。な?」
「あ、アウロスさんっ!す、すみませんっ!」
慌てた口調の女の後ろから一人の男性がのっそりと現れる。白髪交じりの濃い茶色の髪。余分な脂肪の無いがっしりとした体つき。無精髭が少々だらしない印象だったが、切れ長の青色の目は油断ない色を湛えていた。
男が部屋の中の二人の傭兵を見回して、口を開いた。
「っちャーっす、お二人さん!領主様の話してた神隠し事件の捜査官でーっす」
「……」
外見からは想像のつかない軽い口調に、二人は反応に困って男の顔を見つめた。
「あれ?おっかしーな……最近のワカモンはこういうノリだって聞いたんだが……」
男は残念そうに顎をポリポリと掻く。チェロの瞳が鋭くそんな男の挙動を見つめた。
こんな馬鹿げた行動をしてはいるが、そんな言動の最中もこの目の前の男は油断なくチェロとヴィオラの挙動を見つめている。二人を観察する視線。少年はその視線を見逃さなかった。
「オジサン、無理な若作りはやめなよ?どんなに頑張ったって年には勝てないよ?」
「ああ?……ったく、最近の若い奴は年長者への敬意ってもんがなってないな」
顎を掻きながら、中年男はじめじめとした視線を少年に向ける。
「俺の若いころはなー……」
「わ、私だって最近の若い奴ですがっ!私はっ!」
「あーあー、別にお前さんのこと言ってないから。ちょっと静かにな」
長話が始まりそうな男の後ろから女が張り切って主張するが、中年男は冷静にそれを治めた。まるでお笑い芸の様な二人のやりとりに、少年は思わず脱力してしまいそうになる。
「ねぇ、笑わせに来たんだったら無用だから帰ってよ、オジサン?」
「悪い悪い。俺の相方まだまだヒヨっこでな。話は俺が進めるから、安心してね」
一体何をどう安心しろと言うのか。チェロは思わず小さな溜息を吐き、机を挟んで自分の向かい側にある椅子を指し示した。同時にヴィオラが移動して部屋の扉を閉じる。
「どっこらしょ……と」
椅子に身を沈めながら中年の捜査官が言葉を漏らす。チェロは思わず苦笑した。どこまでもこの男は油断を誘う。わざとやっているのか、それともそういうやり方が染みついているのか。どちらにせよ、その誘いに乗ってしまってはいい結果にはならない。
「さて、まずは自己紹介と行こうか。俺は神隠し事件の捜査責任者をやってる、アウロス。こっちの若いのが俺の助手のツィンク」
「俺たちは……いっか。さっきやったし」
チェロはちらりと女の捜査官、ツィンクを見る。少年の視線に、女は僅かに居心地悪そうな顔をした。無作法に名前を尋ねたことに少しは後ろめたさを感じているようだ。
「んで?何しに来たんだっけ?オジサンたち」
「おーそうそう。聞き込み調査ってやつだよ」
「聞き込み?……変だな。俺、領主の遣いとは取引をするつもりだったんだけど」
チェロが机の上に肘を置き、口元に微かな笑みを浮かべながら言う。しかし視線は鋭く光り、目の前に座っている男の顔を油断なく見据えていた。
「いやいや、今回の神隠し事件ってのはこの町を揺るがす大事件だからな。解決のために協力するのが町民の義務ってもんだ。お前さんもそう思うだろ?」
「……俺はこの町の住人じゃないからそんな義務はないね」
男が飄々と言ってのけるのを、チェロが批難の視線を浴びせながら冷たく言った。全く呆れたものだ。街から街へと旅をしていると、この男の様に『義務』という言葉を使って他人を使おうとする公権力者には驚くほど多く遭遇する。そんな言葉一つで他人を動かせるのならば、傭兵という職業はすぐに廃業になってしまうだろう。
――しかし。
「こりゃ一本取られたな。じゃあそうだな……銀貨十枚で――」
「オジサン、買い叩きはやめてよ。……領主の遣いなら、俺の望みは知ってるはずだ」
「……」
チェロの鋭い言葉に、男の軽口が止まる。表情は相変わらず明るく飄々としていたが、その視線の中に先ほどまでよりも更に強い、探るような気配があった。
「昨日の夜は躱されたけどね。今日はハッキリさせようか?」
「……ったく、噂通りめんどくさい奴だな」
男の声音が明らかに変わった。先ほどまで浮かんでいた燥ぐ様な笑みは消え、その顔の上に残ったのはただ一つ、相手に反応を探られない為の仮面の様な薄ら笑いだった。
「それがオジサンの本当の顔?」
「……相手が子供だってんで合わせてやったんだけど、お気に召さなかったか?」
「気に入らないね。寧ろ痛々しくて見ていられなかったよ」
「そりゃ悪かったな」
中年男――アリアの捜査官、アウロスが肩を竦めて見せた。チェロは注意深く相手の表情を観察する。無表情にも似た薄ら笑い。話す時も聞く時も、その仮面は一時も離れない。先ほどまでの様子とはずいぶんと気配が違っていた。
「で、捜査の情報が欲しいんだったか?……傭兵チェロよ」
「そうだよ。……俺は面倒なやりとりが嫌いなんだ。だからハッキリ言って良いよ?」
「俺も時間の無駄は嫌いだな」
アウロスはそう言って机の上にゆっくりと手を置た。その瞬間、男の声音が変わった。
「……馬鹿なことは考えず、余所者はおとなしく口を割ればいい」
探るような中年男の視線は、真っ直ぐにチェロの瞳を射抜いた。少年もまた負けじとその視線を受け止め、跳ね返す。お互いに言葉はない。それでもその重圧は少年に重くのしかかる。
男の視線は何もかもを見透かしたようにチェロの視線をとらえて離さない。妙にのどが渇き、背筋に冷たい汗が流れだす。まるで取り調べ室の暗がりに一人で立たされ、光を当てられて尋問されているような、そんな気分だった。
「……お前にとってこの町はただの通過地点に過ぎないだろうが、俺たちにとってはここが家だ。家で起きている事件に、余所者が頭を突っ込むのは良い気がしないな」
「……その余所者の証言がないと事件一つ解決できないのはどこの誰さ?」
唇を湿らせながら挑発的に言ったチェロの言葉をアウロスは鼻で笑う。まるで話にならない、そんな気配を漂わせている。
「あまり馬鹿にした態度はとらない方が良いと思うぞ?」
「……それ、どういう意味?」
「大した意味はない。……ただ、まともに情報一つ売買できない傭兵が、ギルドでまともな仕事を受けられるとは俺は思わない……それだけだ」
「……!」
アウロスの言葉に、チェロの瞳が怒りに燃えた。傭兵たるチェロとヴィオラにとって、仕事を斡旋するギルドの存在は貴重なもの。町のギルドで受ける仕事は二人にとって旅の資金稼ぎのために重要な役割を担っている。
この男は、そのギルドに圧力をかけると言っているのだ。もしも二人がギルドから仕事を受けられなくなれば、この町に滞在し続けることは難しい。当然、神隠しの事件の調査を続けることもできなくなる。
「……それがこの町のやり方ってわけ?」
「あ?……俺が今何か言ったか?」
「……」
チェロの瞳に憎々しげな炎が灯る。この男がどの程度の権力を持つのかは知らない。だが彼の背後に居る領主の命令ともなれば、ギルドを動かすこと位は訳ないだろう。
どうすればいいだろう。チェロの頭の中にさまざまな情報が去来する。たかが金銭でこの貴重な情報を売り渡したくない。最も望むのは捜査への参加だ。そうすれば思う存分神隠し事件を調査出来る。それが叶わないのならば、彼らが持っている情報が欲しい。
「……」
交渉を続けて、それが叶うだろうか。彼はこの町を『家』だと言っている。チェロとて、自分の『家』にずかずかと余所者が入ってくるのは嬉しいとは思わない。そう考えれば、彼が頑なにチェロから情報を搾取しようする気持ちもわからないではなかった。
しかし、それでも。二人には二人の目的がある。
「……チェロ」
遠くからの呟きに、少年は視線を向けた。扉の傍らに佇む戦士が無機質な瞳で少年を見つめている。
一体何を思っているのだろう。戦士たる彼女のことだから、恐らくはいざとなれば武力で制圧して口を割らせる算段でも浮かんでいるに違いない。
しかし目の前の男は、そんな方法で口を割る様にはとても見えなかった。武力に関してヴィオラが劣るとは到底考えられないが、身体の危機程度のことで屈する様では捜査官など勤まる筈がない。となれば、この場はどうあってもチェロが知恵を発揮するしかない。
「お嬢さんも困ってるぞ?素直に話せばいい。今なら銀貨五枚をおまけしてやる」
「……」
さりげなく半額に値切る中年へ、視線を戻す。男の表情は先ほどから変わらない薄ら笑いではあったが、どこか勝ち誇った様な色が見えた。
チェロが取引に応じなければ、この町のギルドは二人の敵となる。……いや、もしかするとギルドだけではなく、この町に存在するあらゆるものが二人にとって信用ならない存在となるかもしれない。そうなれば、もうこの町で神隠しを調べることは出来ない。
人々の視線から逃れ、隠れ、逃げる……それはかつての苦々しい記憶を思い起こさせる。ヴィオラに再びあの時の様な思いをさせたくはない。
「チェロ」
再び名を呼ばれ、チェロはヴィオラの顔を見つめた。無表情で、無機質な顔。何があっても崩れないであろう強い意志を秘めた瞳が、少年を貫いた。
「……やめた」
「何?」
少年がポツリと言葉を漏らす。口元にゆっくりと笑みが広がっていく。まるで冷水を浴びせられたかのように、頭がゆっくりと冷えていくのが感じられた。
「話すの、やめた。……だって、馬鹿馬鹿しいんだもん」
笑顔で話す少年に対し、アウロスの顔からは一瞬仮面が剥がれ、苦い色が広がった。
そもそも考えてみれば明白な事だ。あの街道で何が起きたのか、それをなぜ彼らが訊いたのか。それがあまりにも明白すぎることで、気付かなかった自分が馬鹿馬鹿しい。
「オジサン、さっき俺に『馬鹿にするな』って言ったね。……残念だけど、俺は馬鹿にされても仕方がないと思うよ」
「どういう意味だ?」
少年は片肘を机につき、手の平に顎を乗せた。もう一方の手は木の机を静かに叩く。
「……どこまで調査が進んでるのかって、俺はそれが気になってたんだけどさ……実は全然進んでないんでしょ?」
「何を言ってるんだ。一か月も調査を続けているんだ。進んでない訳ないだろうが?」
アウロスは嗤った。しかし少年は鋭い真剣な視線で、その男の顔を見つめ続ける。
「あのね、オジサンが俺たちのところに話を聞きに来たって時点でおかしいんだよ」
「……」
一つ息を吐きだし、少年は机の上に置かれた自分の手の平を見つめた。
「昨日の依頼は、盗賊退治が目的じゃない。それはもうわかってる」
「何を言ってるんだ?」
少年は今度は軽蔑したような眼差しを捜査官へと送る。男はあっけらかんとしていたが、どう見ても少年の言葉を理解した上で問い返している顔だった。
「……あれは囮だ」
「囮?何をわかりきったことを……盗賊を誘き出すには、あれが一番だろうが?」
尚も白々しく問い返すアウロスに、チェロは相変わらず軽蔑の視線を送り続ける。
昨日、二人の元に舞い込んだ依頼は奇妙なものだった。盗賊退治という依頼自体はよくあるものではある。しかし盗賊を退治する方法そのものはいくらでもあるにも関わらず、解決方法に関して三つつの条件が付けられていた。
それは『領主の息子に変装』し、『夕刻』に、『神隠しの街道』で実行すること。
本当に町の平穏を考えての依頼なら、その方法に制限をつける必要は無い。にも関わらずこれだけの注文をつけるとなれば、別の目的があると見て間違いない。捕縛現場を神隠しの現場である街道に指定されては、もはや目的は一つしか考えられなかった。
盗賊に対する囮ではない。『神隠し』に対する囮。無防備な二人組みを装わせ、あえて神隠しを引き起こさせる。そしてそれを尾行者が観察する。盗賊が出て退治されるならそれはそれでよし、神隠しが起これば万々歳という訳である。
「オジサンたちの思惑通り、神隠しは起きたよ。ただし、攫われたのは俺たちじゃなかった」
「……」
アウロスの視線が初めて逸れた。ゆっくりと部屋の中へと移ると、呆然と会話を聞いていたツィンクを見、続いて扉の前で仁王立ちをしていたヴィオラの姿を捉える。
「……尾行を振り切ったのは、そこまで気付いていたからか?」
「その時は、まだ。尻尾が付いてるのが気持ち悪いから、断ち切ったまでだよ」
少年の軽い口調に、アウロスは再び視線を戻す。
「で、それが何か?なぜそれだけで神隠しの調査が進んでないってことになるんだ?」
「……」
チェロは目を細めて中年男の顔を見つめる。二人を神隠しに巻き込もうとした、そのことは認めるのだろうか。下手をすれば、二人ともそのまま二度と戻らなかったのかもしれないのに。
「簡単なこと。……解決間際まで来てる癖に、わざわざ囮まで使って神隠しを起こさせるなんてリスクの高いこと、普通はしないって話だよ」
「……」
「そういうのは原因がサッパリ掴めてない時か、疑惑を確定にする時にするものだ。少なくとも、一か月も調査を進めてからやるようなものじゃない」
「……」
「その程度しか調査が進んでないなら貰える情報なんてたかが知れてる。ギルドの仕事が受けられなくても蓄えが無いわけじゃないし、安売りする位なら黙ろうかなって」
少年の挑発的な言葉にアウロスの眉がピクリと跳ね上がる。いつの間にか彼の顔の上には仮面じみた微笑は残っていなかった。笑顔になり損ねた歪んだ唇で、男は辛うじて言葉を続ける。
「……お前、本当に子供か?」
「見たまんまだと思えばいいよ」
チェロはそう言って朗らかに笑い、扉の前に立つヴィオラの方へと視線を移した。相変わらずの無表情だったが、その視線は相変わらずまっすぐに少年の方へと向けられていた。
「……まいったね」
アウロスは深いため息を吐きながらそう呟く。今までの演技掛かった口調ではなく、心底感嘆している様子だった。
「いや、まいった。まいったよ……まさか、こんな子供になぁ……」
男は観念したように小さく手を挙げ、少年に向き直る。その顔の上には再び笑顔が踊っていたが、それは今までの仮面のような無感情な笑顔とは違う。感嘆を込めた優しい眼差しだった。
「お前さんの言う通り。……事件の調査は全く進んでいない」
「ア、アウロスさん……!」
事実を認めた上司の言葉に、ツィンクが慌てた声を出す。しかし男は言葉を止めない。
「神隠しに遭って戻ってきたヤツは居ないし、捜査に向かうとコトが起きない。目撃情報を募っても、見たヤツは消えちまう。精々状況から想像するっきゃなかったんだよ」
「それで、囮か……」
「まあな。だが人選を誤った……いや、正しかったのかな?そっちの方が近いかもな」
アウロスの瞳にはもはや敵対心は存在しない。素直に少年を認め、称えていた。
長い間部屋の中に立ち込めていた緊張がゆっくりと掻き消えていく。少年と中年の間に、どこか打ち解けた空気が流れ始めていた。
「だけどな、俺たちには情報が必要なんだ。……それはわかるだろう?」
「わかってるさ。……ま、そっちにマトモな情報が無いってんだったら、別のもので払ってもらってもいいよ?」
ちらりとチェロは、部屋の中央で立ち尽くしたままのツィンクに視線を送る。
「おいおい、まさかツィンクの身体で――なんて言わないだろうな?」
「なっちょっ……!私そんな、困りますっ!」
からかう様に言ったアウロスに対し、ツィンクの方は本気と見られる必死さで抵抗する。そんな二人のやり取りを見てチェロは思わず苦笑いした。
「そんなつもりないから。勝手にテンション上がんないでよ」
「あ、上がってませんっ!」
ツィンクは大声で抗議する。チェロはもはや取り合わず再びアウロスへと向き直った。
「俺たちに足りないのは人脈だ。この町は余所者にちょっと冷たいからね。だから、そっちの使える人脈を借りたい」
「……例えば?」
「例えば……魔法学校、とか」
チェロの言葉に、アウロスの瞳が輝いた。少年もまた含み笑いを漏らす。
「ほぉ……魔法か」
「そう、魔法。……頼めるかな?」
アウロスは顎髭をなでながら思案顔になり、ゆっくりと窓の外に目を向けた。分厚い雲が空の底にわだかまり、あまり朗らかな気分になれそうな天気ではない。
「まぁ、出来なくはないが……俺が余所者に便宜を図ったと知られると、ちょいと厄介だ。……直接やりとりするよりも、良い方法がある」
「良い方法?」
少年が机の上に身を乗り出した。
「俺がお前さんたちの訊きたいことを代わりに調べてやるさ。……確かお前さん、情報が欲しかったんだろ?後払いになるが、これで丁度いい」
「……いいの?」
チェロは目を瞬かせ、捜査官の顔を見つめた。情報の流出は捜査官としてかなり致命的なはず。それをわかっていて要求していたのはほかならぬチェロ自身ではあったが、相手の方から言いだすとは思ってもいなかったのだ。
「捜査情報をそのまま漏らすのはマズいが、魔法の知識を間接的に調べる程度なら」
「それ、助かるよ。何せ……」
「待て待て、準備するから」
チェロが言いかけるのを制し、アウロスは懐からボロボロの手帳と羽ペンを取り出して広げた。頁にはびっしりと黒い文字が躍っている。相当使い込まれているようだった。
「さ、どうぞ。……何せ、なんだ?」
「何せ……俺たちが見たのは、たぶん、魔法だからね」
少年はペンを走らせるアウロスの様子を見つめながら、昨夜の光景を脳裏に浮かべる。
「森の中に真ん丸な光る玉が浮かんでいてね。盗賊の一人がそれを見た瞬間、まるで操られるようについて行ったんだ」
「……それは生き物じゃないのか?」
「違うと思う。あの光の玉は空中にピッタリ静止してたから……たぶん、魔法だ」
「ふむ……」
アウロスは手を止めると、考え込むようなしぐさをした。きっと、頭の中に浮かんでいるのはチェロと同じ考えだろう。
「……人を操る魔法、か」
「多分、アレが神隠しの正体なんだ。……誰かが魔法を使って人を攫っている」
チェロもアウロスも真剣な表情で考え込んだ。神隠しが人間の仕業だとして、果たしてその目的は何だろう。人間を攫って売り飛ばすのは盗賊の副業の一つだが、魔法を修めたものであればそのようなことをしなくても金を稼ぐ方法はいくらでもあるはずだ。
「どう?役に立った?」
「ああ。貴重な目撃証言だ。これで捜査が進むよ」
その言葉にチェロは口を開きかけ、思い直してすぐに閉じた。嫌味な言葉を吐くべき段階はもう過ぎた。今目の前にいる相手は、もう対立している捜査官ではない。
そんな少年の様子に気付き、アウロスはにやりと笑う。
「いいんだぞー?嫌味の一つや二つ!俺の若いころはな、悪口言い合えるくらいで漸く親友だったんだからな!」
「……別に親友になりたいとまでは思ってないよ」
「かーっ!冷たいなー!」
ショックを受けたふりをして、アウロスは顔を覆う。それを見てチェロは楽しげに笑った。
「親友はお断りだけど、取引相手としてなら大歓迎だよ」
「取引相手ね。ま、情報があるなら買うが、それがないなら取引は出来ないな」
中年は顎に生えた無精髭をざりざりとなでる。彼にとって『犯人が魔法を使って人を攫った』という情報を得られただけでもかなりの収穫であり、恐らくそれ以上をチェロとヴィオラから得られるとは考えていないのだろう。
しかし、その程度では終わらない。チェロはにこやかに言葉をつづけた。
「そうだね。確かに、有力な情報が無ければ、継続取引は無理だね」
「……」
アウロスの瞳が一瞬鋭く輝き、少年の顔をまじまじと見つめた。その目は驚きの色に染まっている。
「お前さん……まだ何か?」
「オジサンの態度次第では、取引を続けてもいいよ?」
「……」
チェロは机の上で指を組み、悠々とした表情で中年を見上げる。その瞳もまた相対するアウロスと同じく、鋭い色に輝いていた。
「そうは言ってもな……こちらはもう、出せるネタが無いぞ」
渋い顔をしながらアウロスが呟く。チェロはケラケラと笑った。
「またまた!捜査責任者とあろう方が、何を言ってるのさ?」
「お前さんの欲しいものは情報だろう?こっちの調査状況はそっちに筒抜けだし、こちらで出せるのは『魔法の情報』くらいなもんだよ。他に何が出来ると思ってるんだ?」
「なんでも出来るでしょ?これから、ね」
「……」
軽い口調で言ったチェロに、アウロスの表情がますます渋いものになる。彼にはもうすでにチェロの言いたいことがわかっているのだろう。
「つまり、今後何か進展があったら、その情報が欲しい……そういうことか?」
「ま、そういうこと。俗に言う『貸し』ってやつだね。『先行投資』でも良いよ?」
アウロスは今度は頭をぐしゃぐしゃと掻いた。渋い顔の上には更に苦い色がにじみ、引き結ばれた唇の端からは低い唸り声が漏れていた。
「どこまでも嫌なガキだな……。本当にまだ何か情報を持っているんだろうな?」
「当たり前でしょ。ネタが無いのに店開いたりしないよ、俺は」
「……」
アウロスは黙ったまま、にこやかな少年の顔をまじまじと見つめた。そして徐に机の上の手帳へ再び手を掛けた。
「……さっきも言ったが、調査に関することは話せない。俺が話せるのは、調査に直接関係の無い技術的な情報だけだ」
「それで良いよ。あとはこっちで考えるからさ」
「……わかったよ。じゃあ、二つ目の取引材料は、『その先の情報』だ。いいな?」
「最高」
チェロはパチンと両手を合わせて笑う。その笑顔は少年特有の無邪気なものだったが、状況を考えるとひどく不自然に感じられた。
「じゃあよく聞いてよ」
少年が両手を合わせたまま、椅子に深々ともたれ掛かる。その表情にはまだ笑顔が踊っていたが、瞳に宿るのは油断ない真剣な炎だった。
「実はね、オジサンたちが来る前に、別の訪問者があったんだ」
「……別の、訪問者」
「ほとんど入れ違いだったから、もしかしたらどっかですれ違ったかもね」
言いながらチェロはケラケラと笑う。あのフードを被った魔法使いと、この捜査官二人が何も感慨なくすれ違っていたのだとすれば、ひどく間抜けに思えた。
「灰色のフードを被った魔法使いだ。男か女かもわからない風体……見てない?」
「……記憶に無いな。残念ながらそんな怪しい奴は見てない」
チェロは残念そうに舌を出した。直接この二人があの怪しい魔法使いに出会って居れば、話が少し早くすんだのだが。
「ま、見てないなら仕方ないね。……とにかくそいつが俺たちを訪ねてきてさ、神隠しの事件のことを聞いて行ったんだよ」
「何だと」
アウロスが徐に身を乗り出した。現在で判明している情報は『犯人は魔法使い』であること。その条件に当てはまる人物が神隠し事件について尋ねに来たとなれば、かなりの重要参考人であることは間違いない。
「まさか、お前……話したんじゃないだろうな?」
「何を?」
「何をって……」
言いかけて、中年捜査官は黙る。チェロはそんな男の顔を見上げてにやりと笑った。
「……そもそも、そいつは神隠し事件の『何』を訊いて行ったんだ?」
「何を聞いたと思う?」
「質問に質問で返すんじゃない。……取引は成立してるんだから、おとなしく吐け」
アウロスは焦れたように机を叩き、少年の言葉を促した。チェロは渋々と言った風に苦笑いを浮かべ、再び口を開く。
「同じだよ」
「……は?」
「オジサンたちと、同じ。『昨日の夜、何を見たのか?』ってね」
「……」
アウロスは口をつぐみ、チェロの顔をまじまじと見つめる。少年の目には愉快そうな色が僅かに灯っていた。
「随分妙な質問だな……犯人だとしたら、そんな質問はしない。まるで……」
「まるで、神隠し事件を捜査している人がしそうな質問だよね?」
言葉の続きを、笑いを含んだ少年の声が紡ぐ。二人は意味ありげに視線を交わした。
「つまりお前さんは、そいつが犯人だとは思っていない訳か」
「まぁ、そうなんだけど……どうも態度がね。敵意がありあり過ぎて、ただ事件を解決したがっているっていう感じじゃないのが引っかかるるんだ……」
チェロは組んだ指の上に顎を乗せ、不可解げに眉をひそめた。
先ほどアウロスと話したように、あの訪問者が犯人だとするには質問の意図がわからない。しかし彼がただ神隠しの事件を調査するために二人を訪ねたのだとすれば、あまりにも敵対心がありすぎた。普通であればアウロスの様にあくまで表面上は好意的に接するはずだ。
「ま、正直今は情報量が少なすぎて何とも言えないよ。あとはオジサンたちがこの情報をもとにどうするか……そっちに任せる」
「……その部分の調査結果はさすがに流せないかもしれないが」
「いいよそれでも。オジサンの行動で結果はある程度は予想できるからね」
「……お前さんならそれが出来るんだろうな……」
不敵な笑みを浮かべる少年に対し、アウロスはまたも不可解そうな顔をした。
「どうやったらそういう頭になるんだ?その年で……」
「俺は二人分の脳みそやってるからね。そうなっちゃうんだよ」
愉快そうに言いながら、チェロは扉の前のヴィオラへ視線を向ける。女戦士は身動ぎもせずに扉の前に仁王立ちをしていたが、少年の視線を受けて僅かに顔を逸らした。
そんな二人を見て中年捜査官はパチンと両手を合わせる。少年が一瞬ビクリと身を震わせて振り返った。
「よーし!そんじゃあ、ちゃんと報酬を払えるよう、手配しないとな。ツィンク、魔法学校に連絡取ってくれ。さっきの話の魔法についてと……フードの魔法使いの目撃証言の調査、任せるからな」
「はいっ!任せてください!」
アウロスの指示に、ツィンクの瞳が輝いた。再び任された大役に心が躍っているのが目に見える様に伝わってくる。
「それじゃそうだな……明日、治安署へ来てくれ。こちらで調べたことを教えてやる」
「そっちに行っても大丈夫なの?」
チェロは瞬いた。署でその様な話をして、誰かに見咎められるのではないだろうか。
「俺は責任者だからな……あそこで俺が何をしようが、誰も文句は言わないのさ」
「そう……なの?……よくわかんないけど、わかっておくよ」
曖昧に了承し、チェロは頷く。アウロスは悪戯な笑みを浮かべると、勢いよく椅子から立ち上がり部屋の扉の方へと向かった。
「おっとそうだ!お嬢さんにお土産、な」
「?」
ヴィオラが扉の取っ手に手をかけて開こうとしたその時、アウロスがそのヴィオラに向かって声をかけた。手にしていた革の鞄の中から大き目の紙袋を取り出すと、不思議そうな顔をして見つめている女戦士へと、それを押し付ける。
「ま、使い方はそっちのチビッこにでも聞いてくれや」
「……誰がチビっこだよ」
軽口を叩いて笑いながら、アウロスはヴィオラの開けた扉をくぐって部屋を後にする。そのあとをツィンクが小走りに続き二人は去って行った。
ヴィオラが静かに扉を閉めると、部屋の中はまるで嵐の過ぎ去ったように静けさを取り戻す。不思議なことに、二人がこの部屋を訪れる前よりもはるかに強い静寂を感じた。
「……なんか、すごい二人だったね」
「……」
チェロは大きく安堵の息を吐いた。どうやらうまい具合に事を運べたようだ。アウロスが約束を守るという保証はないが、さすがにあれだけのやり取りをして約束を反故にするような男だとは思えなかった。
「で、それ何?」
「……さあ」
ヴィオラは小首を傾げて手にした紙袋を見つめる。見つめたところで中身が勝手に飛び出して来るはずもない。チェロはそんなヴィオラに少し笑ってから、手を差し出した。
「……これって」
受け取った袋の口を開き、チェロは中身を覗き込む。それが何なのかに気付くと驚愕の表情を浮かべた。彼は一体何のつもりでこんなものをヴィオラに渡したのだろうか。
「こんなの、どうしろって……」
思わず呟いた。こんなものを渡されてもチェロとヴィオラにどうしろと言うのか。アウロスは確か、『使い方はチェロに聞け』と言っていたが、一体どういうつもりだろう。
「……あー」
「?」
しばらくそのまま袋を覗きこんでいたチェロだったが、不意に顔を上げるとヴィオラの方へ目を向けた。その瞳が悪戯を思いついた悪餓鬼の様に輝いている。
「……嫌だ」
ヴィオラが呟く。チェロの思惑を彼女が理解しているはずは無い。しかし経験則から、少年がそんな顔をする時は自分にとって愉快では無いことを思いついた時なのだと知っているのだ。
チェロはそんなヴィオラを輝く瞳でじっと見つめる。ヴィオラがその視線から逃れるようにそっぽを向いた。
「……どうしても?」
「……」
チェロのねだる声音に、ヴィオラはそっぽを向いたまま渋々ため息を吐き出した。彼女はこうやって頼みごとをされると、どうしても断れない。われながら卑怯だと思いつつもチェロはそんな彼女が見たくてついついこれをやってしまう。
「……わかった」
「よぉーし!じゃあ……今日の午後はこれに決まりだね!」
チェロは生き生きとした声でそう宣言する。そんな少年とは正反対の気の進まない表情で、女戦士は小さくため息を吐いた。