世界だけの少女
「貴女が連続して存在し続ける根拠はどこにあるのかしら」
何の変哲もない、肘かけすらない安物の青いオフィスチェアに足を組んで座り、部屋の端に置かれたありふれた学習机の上で頬杖をつき、その手と頬の間に挟んだ携帯電話に向かって少女は問いかけた。
目の前に並べられた教科書を見つめる視線は虚ろだが、口元は緩んでいる。
『えー……と? ごめん、どういう意味?』
数秒の間を開けて、電話口の向こうから尤もな返事が返ってきた。
それは、少女と同じ学校、同じクラス、同じ部活に所属している友人のものだった。
少女の声が美しく飄々としたものであるのに対して、友人のそれには一切の飾りが無く、少女の戯言に対して良くも悪くも真剣に反応していることが彼女には読み取れた。
気を良くした少女は、頬杖を解いて携帯電話を顔から離すと、得意気に続ける。
「私はね、こう考えたの。もしかしたら『この世界に存在している存在』は私だけなんじゃないかって」
『はあ。ん? じゃあ私はどうなるのよ』
ごもっともな反論だった。
こうやって少女が組み上げた荒唐無稽なロジックに付き合ってくれるのは彼女だけだ。
勿論、少女がこんなことを大っぴらに言い放つのはこの友人に対してだけであり、友人も少女のこうした悪癖を他言することは無い。
「簡単よ。私という自我が接する時だけ、必要に応じて創り出されるの。貴女が自分は確かに存在していると確信していても、貴女と話していない時、貴女が見えない時に貴女がきちんと存在しているのかを私の主観は観測できない」
机の上に置かれた小さな本棚に左手を伸ばし、並べられた参考書の一つを手に取って品定めするように眺めながら、少女は寂しいプレゼンテーションを続ける。
「少し話がずれるけど、例えば、私たちの学校がいつも『そこ』に存在するってどうやって認識する?」
『どうって……あ、私が学校に行って、あんたに写メを送る! どうよ』
「分かっていないわね。いい? 今回の仮説だと、そもそも世界には私しか存在していないの。今だってこの部屋の外には何も無い真っ白な空間が広がっているだけ。私が部屋の外を開ければ、私の目と耳が認識できる範囲で世界が構築されるの」
少女の口調は徐々に熱を帯びる。
「私が認識すれば、学校はそこにあるものとして現れるわ。でも、私が学校を認識していない時は学校が存在できているか分からない。貴女だって、私が貴女に電話をした時に『私の友人である貴女』の記憶を持った貴女が創り出されて、こうやって話をしているのよ? 」
電話口から、くすくすと笑い声が漏れてきた。
『残念でしたー。私はさっきまでお風呂上りにテレビ見てました。ちゃんと覚えてるよ』
少女は参考書を元に戻してから目頭を押さえた。
「だ、か、ら。その記憶は、私が今こうして貴女に電話をして話し始めた瞬間に、一瞬で創られたものなのよ。ほとんど全部偽りの記憶。そうだったと思い込んでるだけの紛い物」
『今日、学校であんたと話した覚えがあるけど?』
「『ほとんど』だって言ったでしょ? それは実際に起きたことよ。でも、私と接していないあらゆる『時』の記憶は偽物。私と接していない時は、貴女は、私が接していない世界と同じで存在しないの」
『じゃあ例えば、私からあんたに電話する時は? 存在して無い私から電話がかかってくるなんておかしくない?』
「む。そうね。……私自身が退屈を紛らわせるために無意識に、何かがランダムで私に接して来るように設定しているのかもしれないわ」
『あー』
最後の仮説は少女からしても苦しいものではあったが、どうやら友人は納得したらしい。
少女は得意気になって心の中でガッツポーズを決めた。
『でもさ、そうだとしてもあんたが特別な存在ってわけじゃなくない?』
「ん?」
ガッツポーズが萎れる。
『あんたの理屈で言うと、今あんたの部屋の外には真っ白な空間が広がってるんだよね? 確認しようとして窓の外を覗きこんでも、その瞬間に世界が≪構築≫されて、夜の街並みが目に入る』
「そういうことになるわね」
『別に宇宙が広がってるわけでも、ファンタジーな世界が広がっているわけでもない。ただの夜の街並み』
「ええ……そうね」
不安になった少女は、カーテンを押しのけてその隙間から窓の外を覗く。街灯と家々の明かりが寂しく灯る、いつも通りの光景がそこにあった。
『ファンタジーの世界になれ、って念じてもならないでしょ?』
念じてみた。ならない。
『夜空にドラゴンとか召喚してみ?』
しようとした。いつもと変わらず、すぐ傍の街灯をコウモリが遮った。
『あんたが認識した瞬間に創られる世界は至って平凡、あんたは世界に異常を起こすことができない。あんたの考えが正しくても、あんたは自分が接触した範囲だけ平凡な世界を創りだせるに過ぎなくて、それ以上でもそれ以下でも無い。ましてやその世界はあんたに優しい世界ですらない。大学受験に失敗するかもしれないし、した時に奇跡的な救済がされるかも分からない』
学校の試験で赤点を取り、親からゲーム機を全て取り上げられたことを思い出す。ゲーム機は未だに一つも返ってこない。少女の酔いはすっかり醒めていた。
『もっと言わせてもらえば、そもそもあんた自身はどう生まれて、どう……』
「美雪」
『なに? 鈴葉』
「……また明日、学校で」
『うん。また明日』
少女――鈴葉は、友人である美雪よりも早く電話を切った。
「鈴葉ー! 晩御飯できたわよー!」
下の階から、母親の声が響く。
「分かったー!」
先ほどまで全能感に溢れていた彼女は、肩を落として部屋を出て、バタンとドアを閉めた。
その瞬間、部屋にあった全ての物が――いや、部屋そのものが消え失せ、広漠とした白い空間が広がった。
分子も上下も時間も存在しない、どこまでも続く虚空。
しかし、先ほどと寸分違わない、全く同じ部屋が再び現れた。
直後に、ドアが開き、訝しげな表情で鈴葉が部屋を覗きこむ。
彼女の視界に映るのは、普段から彼女が過ごしている、いつも通りの部屋だ。彼女は溜息を吐くと、力無くドアを閉めた。
部屋は、やはり消え去った。