4幕:桜花
行政区画からすると、この一帯も「九城市」ということになるらしい。鉄筋コンクリートの建物や、雑踏の絶えない大通りは遠く彼方――一面に広がるのは、田舎を感じさせる田園風景だった。
もともと新首都圏構想が着工される以前は、どこもこんな様子だったらしい。
「……ここだ」
いつも以上にぶっきらぼうな口調は、機嫌の悪さを如実に示していて、こういう時の直行には逆らわない方が得策だ。
メノウはなにも言わず、示された邸宅を見やる。板壁と水掘に囲まれた家屋は、武家屋敷といった趣だ。それが直行の実家、久瀬家の外観だった。
なるほど、と思わないではない。旧家の次男坊と言われれば、なんとなく直行はそんな感じがした。わざとラフを装っても、染み付いた身のこなしは消せるものでもない。武芸者である以上に、珍しいほど育ちがいいのだ。
その久瀬家になにをしに来たのかと言うと、昨日、秋島から請け負った仕事のためだった。助っ人の力量を把握しておきたい直人が、そのために二人を呼んだのだ。
開けっ放しの門をくぐって、邸内に踏み入れると、意外に庭が狭い。変わらない広さの敷地に、建物を増築したためらしいことは、調和の取れていないたたずまいから察することができた。
これも開け放たれている玄関口に立って、直行が声をあげた。
奥からひょっこりと現れたのは、義姉の雪乃だった。今日は洋装で、黒髪は後ろでひとつに束ねている。若かったんだ、という失礼な感想をメノウが抱いたのは、先に会った時の和服姿が落ち着きすぎていたからだろう。
その細い身体が見えると、薄暗い屋敷には生活臭があまりしないことに気付かされる。若さを見せる雪乃と、朽ち木の臭いさえさせる家屋は、あまりにも似合っていなかった。
それもそのはず、この屋敷には普段、だれも住んでいない。直人と直行は当然のように帰らないし、雪乃は夫の仕事の関係上、夫が気軽に帰れるような、交通の便のよい部屋を借りて住んでいる。
雪乃の頭には頭巾が巻かれていて、どうやら埃を落としていた最中らしい。
「どうぞお上がりになってくださいな。直人さんは、道場の方で待っておられますよ」
「道場があるんですか?」
てっきり庭かなにかでやるものだと思っていたメノウは、感心したように声を出した。それにうなずいた義姉を遮るように、直行は家の中に上がると、
「こっちだ」
と、メノウを急かした。
母屋から廊下を渡してつなげてある道場は、中に入ると昔日の様子をいまに伝えるかのようだった。磨き込まれた板張りの床、柱には幾つかの傷が残っていた。なにより、時間を超越して、そこには独特の――思わず背筋を伸ばさせる張り詰めた空気が残っていた。
「来たか」
錆びた男の声が、二人を迎えた。黒い袴をはいて、かたわらに一振りの刀を置いている。そうして道場の上座に座る直人は、武家の家長として相応しく見えた。
「貴様らを預かる久瀬直人だ。話は秋島大佐からも聞いていようし、直行からも聞いたかもしれない。いや、その目で見たか」
「はい……」
改めて威圧を覚えながら、メノウは緊張した面持ちで答えた。
「正直な話をすれば、こちらも困惑している」
「へ……?」
思わぬ言葉を聞かされて、メノウはばかみたいな声を出してしまった。というより、直人の話は跳んでいる。それを承知している直人は、小さく咳払いをした。
「……君の父上とは、晩年、交友があった。その令嬢とこのような形で会う事になろうとは、まさか思わなかったのでな」
「父と? でも、あなたは……軍に近い人じゃないんですか?」
背中しか覚えていない父親は、どこかぼんやりとしたイメージでしかなく、メノウにははっきりと憶えていることなどない。それでも、軍と繋がりがあるとは思えなかったのだ。
「そうだ。……ただ、白石博士が軍と接触していたわけではない。博士は霊子理論の軍事利用を否定していた。個人的な友誼というべきだろう。純粋な意味ではないにせよ、な」
「どういう意味です?」
尋ねると、直人は傍らに置いた刀を掴んで、少しだけ刀身を露出させた。うららかな陽光に、涼やかな光が跳ねた。
「これが理由だ。この刀――『桜花』は、代々の久瀬の当主が受け継いできたものだが、霊子力を発現する特別な金属でできている。そう言えば、分かるはずだ」
「霊子デバイス……?」
父の遺したノートにあった単語を呟き、自分の持つデバイス――淡い青色に輝くクリスタルを取り出した。その様を見ながら、直人はそうだ、と答える。
「原理的には君の持つ品と同じはずだ。さすがに、学者の領分になるので、おれには詳しくは分からんが。現在の技術では不可能と言われた、無機物によって霊子力を取り出す、ヒヒイロカネを再現した模造品となるそうだ」
「ヒヒイロカネ……それがオリジナルの名前?」
ようやく、直人が白昼の逮捕劇でなにをしたのかが、メノウにも理解できた。霊子のエネルギーで、銃弾のベクトルをずらしたのだろう。が、そんなことが自分にもできるとは思わない。やはり、オリジナルは相当に強力なのだろうか。
それにしても、クリスタルには金属的な風合いはまったくない。『桜花』とかのコピーだと言われても、ピンとこない。
「そう呼ばれているに過ぎないし、現存が確認されているのは、『桜花』のみだ。もっとも、学会では、かなり有名な話らしいので、ヒヒイロカネを再現しようとした計画も、数多くあったと聞いている」
「それに父だけが成功した?」
見当をつけて聞いてみたのだが、直人はわずかに眉をひそめていた。
「おそらくは、そうだろう。ともかく、特別な品であるということだ、それは。白石博士がどういうつもりだったかは、今となっては分からない。どちらにせよ、あまり、深く追求しない方がいいかもしれんな。……それと、認可されていない霊子変換装置だから、所持も使用も違法だ」
話をそらした直人に、メノウはあっさりと食いついた。というか、本当に気にしていなかったらしく、初めて知ったと言わんばかりに、眼を丸くしている。同様に驚いたのは、今までそっぽを向いていた相棒だった。話はしっかり聞いていたものらしい。
「おまえ、知らなかったのか?」
「だって、エリキシル以外は規制されてないし」
「極端な話だ」
見かねたのか、直人が話を引き取った。
「実質的には犯罪に使用できる装備となると、エリキシル以外にないからな。法律が対応していない。厳密に言えば、合法でも違法でもない」
直人の言うことは事実だった。発動機に使われるような霊子機関は、所持に必ず申請が必要になるが、メノウのようなケースは想定されていないのが実情である。だから、メノウも霊子機関の所持許可証は持っていない。
問題は裁く側の判断で変わるものであって、一概にメノウが悪いわけではないのだが、それでも気付かなかったのはマヌケと言われて仕方ない。
「ふつう、分かるだろ、そういうの……」
「役所の人は、そんなこと言ってなかった」
「それは、そうだろうけどさ……」
「やっぱ、まずかったかな?」
「今回に限っては、問題ない。その装置を報告するつもりもない。大佐が問題ないと判断しているのだから、わざわざ戦力を低下させることもない。それでも他者の前で使うに当たっては、気にしてもらわねばならんから、昔話もさせてもらった」
それを聞いて、メノウはほっとした表情を見せた。違法に霊子力を用いると、即座に霊子力犯罪者と見なされる。さすがに危機感までは欠落していない。
直人はそんなメノウの様子も知らぬげに、ようやく本題に入った。
「行動計画について、話しておく。大佐から、具体的な説明は受けていないと思うが?」
首肯したメノウにうなずき返して、
「決行は明後日。五月七日一八〇〇時だ」
「明後日? ちょっと、急すぎるんじゃ……」
「内通者に感づかれる前に、事を終わらせておきたい。加えて、直行の想像、そう外れてもいないらしい。霊捜局の見解では、事態は切迫している」
有無を言わさぬ口調で、それだけの報酬は支払っているはずだ、と付け加えた。
「それはいい。それより、おれの予想って、『黒龍会』がまだ切札を切ってないってことなのか?」
食いついてきた直行に、兄はひとつ首を振った。
「これ以上の説明は、おれの立場ではできかねる。それは理解してもらいたい」
そう言ったからには、この男は、絶対に口を割りはしないのだろう。それ以上の追求は無駄に思えて、メノウは納得はしないけど、という顔でうなずいた。直行が不満を口にしなかったのも、同感だからだろう。
直人が、他には、と聞いた。直行が口を挟んだ。
「なければ、作戦の概要を説明する」
そう言った姿は、さすがに本職の人というべきだろうか、貫禄があった。直人の説明は簡潔だが、そのすべてが失敗を考慮していない口ぶりだった。一切の失敗が許されない――そう宣言されているかのようだ。
作戦とは挑戦でも遊戯でもない。遂行こそが義務である。それが特務機動隊の在り様だった。そのように見せつけられたようで、少年少女はやや気後れしそうになる気持ちを押さえつけなければならなかった。
からんからん、とドアのベルが音を立てる。作戦会議を終えてから、五時間もみっちりと直人にしごかれて、『シャンソン』に帰り着いた頃には、もう店が開いていた。
疲労したうえに心底うんざりした表情は、直人の指導がどういうものだったか、過不足なく伝えている。
いつものように、表口から何の遠慮もなく入ってきたメノウは、いつもと違う、客の多さにすこし驚いた。失礼、というべきだろう。いつもの彼女の帰宅時間は、店のピークをとっくに過ぎているのだから、時間帯からすると、これもいつもの客の入りだった。
「おかえり、メノウ」
「忙しそうだね、マスター」
言いながらも、カウンターの席に座り込むあたり、神経は金属繊維で編み上げられているようだった。
「だから手伝って欲しいって言ってるんだよ。ぶらぶらしてるより、よっぽど建設的だと思うね」
呆れながら、それでも作り置きのサンドウィッチを出してくれる。
「さっきまで、久瀬大尉にしごかれてたんだからね。ほら、ほら」
二の腕にできた痣を見せ付ける。
「はしたないよ、メノウ。それに、女の子がそういう顔をしない」
「だって……」
「久瀬大尉なら知ってるよ。どういう目にあったかも、だいたい分かるから、言わなくてもいい」
「そうなの?」
「もと上司だからね」
と、ちょっと困ったような表情で応じる。
「なるほど……。やっぱり、あの人、古株なんだ」
「今では少ない初期メンバーの一人だからね。僕もあの人には、ずいぶんとしごかれたよ。作戦に出る前に、訓練で殺されるかと思った」
「あー、分かるな、それ。無茶苦茶だもん」
サンドウィッチを口に運びながら、死に掛けた回数を数える。完璧で精密な動作でコントロールされていても、寸止めの刃にはぞっとする。
「二人がかりで歯が立たないって、どういうこと? そりゃ、訓練と経験の量が、圧倒的に多いんだろうけどさ」
もちろん、今まで負けなしというわけではないが、あそこまで、為す術なくいなされたのは、メノウにとって初めての経験だった。
「まあ、そりゃね、久瀬大尉なら仕方ないよ。内戦の初期から、前線を渡り歩いていた筋金入りの軍人だからね」
「そうなんだろうけどさ。ていうか、なんか種類が違う感じがした」
「種類って……犬猫じゃないんだから」
「そうだよねー、普通の人間は犬猫だけど、あの人は熊とか、象とか、そんな感じ?」
「なんとなく分かるけど……」
怪しげな説明を始めたメノウを眺めて、香田は少し心配そうに目を細めた。
「なあ、メノウ。この辺で、やめにしておかないか? 請負人なんて、女の子のする仕事じゃないよ」
話の急展開に、メノウはうまくついていけず、「ん?」とだけリアクションを返した。
「急な話と思うかもしれないけれどね。お店のお手伝いをしてくれるなら、君ひとりぐらい、養ってあげられるんだよ。わざわざ、危ない目を見ることもない」
「だいじょうぶだよ、心配しなくても」
「そういう話じゃないよ」
逃げ腰なメノウに、マスターが珍しく厳しい口調で言った。
「なにかあってからでは、もう遅いんだ。犯罪者を捕まえるっていうことが、どういうことなのか、それは分かっているつもりだよ。だから、やめて欲しいんだ」
「うん。でも……」
「どれだけ腕が良くても、ちょっとした不運で死んでしまうことだってある。そんな同僚を、たくさん見てきた。それに、犯人だって人間だ。それを殺す覚悟をしなくちゃならない。それは辛いことだよ。だから、ぼくはやめたんだ」
「……でも、そんなにマスターに甘えらんないよ。あたしはあたしのできることをやりたいし、ナオのこともほっとけないし……」
その言葉に、香田は腰に手を当てて、呆れたような顔で、それでも微笑んでいた。
「そう言うと思ったよ。でも、そういう態度、すこし寂しいな。僕は君を家族だと思ってるから、そうやって、他人みたいに線を引かれちゃうと、ね」
「ごめん」
「うん。まあ、でも、やりたいっていうんなら、ぼくに止める権利はないから。君が今の状況に何を見ているのか、ぼくには分からないけれど」
諦めを優しい表情で繕う香田に、メノウはうなずいた。まともな家族を知らない少女は、それだけに人との繋がりを求める。あれもこれもと、捨てられないものが増えるのは苦しいと同時に、嬉しいことだった。
「なんだか、マスター、本当のお母さんみたい」
「お、お母さん……いや、いいけどね。さ、今は忙しいんだから、おとなしくしててよ」
「家族かぁ……」
香田の言った言葉を口の中で転がして、メノウはすこしむず痒いような嬉しさを覚えた。母親の事はよく知らない。父は六年前に死んだが、書斎の机に向かっている姿しか思い出せない。
きっと、本当の家族というのは、こういうのなんだろうな。
心の温かさとともに、メノウは納得した。
同刻、警察病院。
面会時間を終了した病院は、寒気を感じるほど、生気というものがない。できることなら入院したくない、という患者の思いは、その光景を見れば納得もできる。
その警察病院の最上階で、通常とは異なった警備に就く一団があった。市長の暗殺現場から生き残った、唯一の憲兵隊員が療養する病室を守る、霊捜局の特務機動小隊の三田分隊だった。
軍服のような黒い制服を着て、自動小銃を肩に担ぎ、二人が入り口に張り付いている。さらに病室内には二人が常駐し、四人が隣室で待機している。
黒の制服は、昼間は威圧効果を、夜間は迷彩効果を持つ。もっとも、基本的には強さをイメージさせるための演出である、というのが、偽らざる事実だった。
面会時間を過ぎて、入り口を警護していた二人のうち、若い方の男がホッとした表情で口を開いた。
「今日も何事もなかったですね」
「まだ終わったわけじゃない。気を抜くな」
そう言いながらも、年配の男も若い同僚の気持ちが分からないではなかった。いちばん危ないのは、一般人の出入りする昼間なのだ。暗殺者が紛れ込んでいないとも限らない。
「分かってます。けど、こんな仕事は、憲兵にやらせればいいんですよ」
「中に居るのが憲兵だからか? だが、事件の重要参考人だ。だれであろうと、関係ない。犯人を守ることだって、あるんだからな」
それが理屈だった。
憲兵の身柄を霊捜局が保護する、というのは奇妙な話だが、事件解決の主導権を霊捜局が握ることを考えれば、当然の処置でもある。
「そうでしょうけどね……。あ、そうだ。後で菓子でも食いませんか? 看護婦さんが差し入れてくれたんですよ」
「看護婦って、おまえのお気に入りの子か?」
「残念ながら、違う人でしたよ」
勤務中になにかを貰うというのは、服務規定違反なのだが、黙っておくことにした。思うより辛い任務だからだ。
それというのも、市長を暗殺した犯人が捕まっていない。その暗殺犯が襲撃してくれば、とてもではないが、この人数で対抗できないという、不断のストレスがあったためだった。
自分より若く、勤務年数も少ないとなれば、余計にそうした気持ちはあるだろう。少しぐらいは大目に見てやることも必要だった。
それに、明日になればこの任務も交代だ。気が軽くなっているのは、経験や年齢に因らず同じことだった。
そのおしゃべりも、廊下を叩く靴音が聞こえた事によって中断される。緊張の面持ちで、薄暗い廊下を二人が見やると、そこには自分たちと同じ制服を着た壮年の男がこちらに向かってきていた。
二人は同時に敬礼して、やって来た男――分隊長の三田を迎えた。
「ご苦労」
短くねぎらった分隊長の表情は、わずかに苦いものを含んでいる。
「発令所からの呼び出し、長かったですね」
昼間に三田が呼び出されていたことを思い出して、年配の男が言った。それに分隊長はうなずいて、
「配置の交代が遅れるそうだ。代わりに入る予定だった部隊の都合がつかなくなったらしい。もう二、三日は耐えてくれ」
そう応じた。超過労働もはなはだしい部下に言うには、気の重くなる話だった。
「そうですか……」
「……状況はどうか?」
「変化ありません。参考人の意識も戻らないままで――」
守っていた扉が突然、重たい音とともに開いて、その言葉を遮った。顔をのぞかせたのは、中で護衛に当たっていた隊員だった。
「分隊長、参考人の意識が戻りました」
「なに……戻った?」
「はい。いま、医者を呼んだところです」
「分かった。発令所へ連絡を。応援も要請しておけ」
言いながら、三田は病室の中に入る。自分の眼で確かめる必要があった。
警護のために、消灯時間を過ぎても明りの付けられた部屋に入る。眩しさに目を細めながら、三田はベッドに横たえられた、包帯だらけの患者に近付く。
顔にも深手を負っているらしく、包帯は過剰と思えるほど巻きつけてある。その包帯の奥で、茫とした瞳が動いて、三田の姿を捉える。
その機を逃さず、三田は質問した。
「君は憲兵隊の田辺曹長だな?」
乾いた唇が微かに動いて、「そうだ」と答えたようだった。意識ははっきりしているようだ。分隊長は、義務によって定められた宣言を行った。
「君の身柄は重要参考人として、現在、公安庁霊子力犯罪捜査局が確保している。君が捜査協力に応じない場合、この保護は解かれることになる。よろしいか?」
口元に耳を近づけて、三田は返事を待った。
「……分かった。ひとつ、聞きたい」
返答には少しかかった。田辺曹長が思考を整理するためにかかった時間だろう。
「それは自由だ。答えられるかどうかは、分からないが」
憲兵隊員が聞いたのは、ほんとうにひとつだけだった。市長は、ご無事か。
「残念ながら……。その暗殺犯を追っている」
瞳に悔やむような色が現れて、痛むだろうに包帯に包まれた肩が震えた。
「心中は察するが、生き残ったのは君だけだ。同僚の無念を晴らすためにも、協力してほしい」
「分かっている」
そう答えたところで、部屋に医師や看護婦が入ってくる。彼らは、三田が患者に尋問を行っているのを見て、うなるように注意した。
「まだ意識を取り戻したばかりなんです。無理はさせられない。下がっていてください」
押し退けられて後ろに下がった三田は、さすがに医師には逆らえず、軽く肩をすくめただけだった。が、その上で首をすくめることになった。鈍い轟音が隣の部屋から聞こえたのだ。
夜の静寂を叩き潰すような騒音に、三田は部下と顔を見合わせる。隣室だ、と短く言った分隊長に、言わんとするところを察した部下は、外に飛び出す。それは警護に当たっている彼らが、仮眠室にしている部屋が音源であったように思われたからだ。
「な、なにごとです?」
泡を食った医者に、仕事を続けるように指示して、自分も外に出る。隣室の様子を見に行った部下が戻って来ていた。
「爆発物です」
「被害は?」
「死者はいませんが、仮眠室に居た者は全員、怪我を。松浦が応急処置をしています」
「――なにが爆発したかは分かるか?」
救護班を呼ぶように指示して、三田は緊張した表情で確かめる。
「分かりません。爆発はテーブルの上で起こったようです。自分は爆発物の専門ではないので、詳しくは……」
「直感でもなんでも構わん。思いついたことを言え」
「被害の状況から見て、全員、爆発物を囲んでいたようです。ですから、おそらく偽装された爆弾ではないかと考えます」
「……おれも見て来よう。護衛任務は忘れるな」
ハッ、と短く答えた部下を残して、隣室に行くと、確かに報告どおりの状況だった。壁は腰のあたりから上が爆発の傷痕を残し、倒れて呻き声をあげる三人の部下も、上半身にだけ傷を負っていた。蛍光灯は破損しており、非常灯の薄暗い明りだけが頼りだ。幸い、火災に繋がるような事もなく、それほどひどい爆発でもなかったようだった。
机の上で何かが爆発したのだとすれば、壁の損傷や、上半身だけに負傷した部下も納得がいく。問題は、なにが爆発したのか、だ。
三田は爆発のあったと思われる机の上に、焦げた厚紙が乗せられていることに気付いた。原型はなくなっているが、それが箱の底面であったらしいことに気付く。
「菓子の箱?」
その焼け焦げた紙の表面を見ながら、どうしてそんなものが、と考える。
「あの差し入れが爆弾だったんです……」
仲間の手当てをしていた若い隊員――松浦が真っ青な顔をして、つぶやいた。どういう事だと尋ねる三田に、松浦は震える声でいきさつを告げる。机の足元に置かれた見覚えのある紙袋を見た時から、関係に気付いていたのだ。
「……それなら、爆発物を囲んでいたことも納得できる。待てよ、松浦――差し入れをしたのは看護婦だと言ったな?」
脳裏に閃くものがあった。寝不足が祟ったか。あまりに頭が回らなかったことに、自分自身に腹が立つ。
慎重だったのもそこまでで、三田は部屋を飛び出し、病室へと駆け戻る。病室のドアを叩きつけるようにして開けて、中へ飛び込んだときには、腰の拳銃を抜き放っていた。何事かと、外を見張っていた部下が一人、後に続く。
「全員、動くな!」
白々しいほど白い蛍光灯の明りの下で、三田の声を聞いたのは、たった一人だった。
虫も殺さぬ、といった顔をした看護婦が、血塗れの病室の中で、ひとり立っているだけだ。治療に当たっていたはずの医師やもう一人の看護婦は、赤い血だまりを作って床に倒れている。張り付いていた部下も、ろくに抵抗できた様子もなく倒れ、ベッドでも田辺曹長が布団を赤く染めている。
白衣を染める鮮血と、手にした小太刀が、看護婦の犯行を告げるだけだった。
美人というわけでもなく、醜いというわけでもない。顔や身体に特徴もなく、十人が十人とも「普通」と言うだろう女だった。しかし、だからこそ覚えにくい。そういう人間だった。悪行を生業とするなら、それは有利な特徴だった。
「どうかなさいましたか?」
平然と看護婦は銃を突きつける三田に対して、聞き返した。ほぼ確実に狙いを外さない距離で、小太刀で戦うには遠すぎる間合い。そんな不利を気にかけた様子もない。相手に害意がないと思っているような口ぶりだった。
「どうやって潜り込んだ?」
さんざん悩ませた眠気も、今は吹き飛んでいる。銃を持つ手も確かで、狙いもしっかりと付けている。
「わたし? わたしは見ての通りの看護婦ですが?」
「動くな!」
わざわざ小太刀を持った右手を上げて、自分を指し示す看護婦に、鋭い制止の声が飛ぶ。
「動けば射殺する」
「はあ」
困ったな、というように眉根を寄せたのは、それでも脅しが悪質な冗談だと思っているようなしぐさだった。
「現行犯で逮捕する。武器を捨てろ」
「武器? ああ、これですか?」
言って、看護婦はただの医療器具ですと言わんばかりの顔で、小太刀を放り出す。三田と部下の眼が凶器を捨てるのを確認した瞬間、看護婦の左手が恐ろしい速さで動いていた。
眠気は吹き飛んでも、疲れは騙せない。集中力はあっても、全体に対する注意力が散漫になっていた。本来ならば、捨てた凶器よりも、相手の動きにこそ注意を払うべきであった。
白衣の胸元から、隠匿していた二連装のデリンジャーを引っ張り出すと、躊躇う必要もなく引きがねを引いた。確かな狙点は、特機隊員二人の眉間を続けざまに撃ち抜いていた。
「困ったものね。あとすこし、駆けつけるのが遅かったら、死なずにすんだのにさ」
平然と人を殺した女――久遠は、特になんの感情も見せることなく呟いた。凶器の小太刀を拾い上げると、血塗れの姿のまま廊下に出る。
「それでも、さすが特機。引きがねを引かれたら、死ぬところだったわ。もっとも、それを引けないところが、公務員の限界かしらね」
倒れた死体を見下ろして、囁くように言った。
「そうかも知れんな」
突然の声に、女が驚いたように前を振り返る。気配はなかったはずだ。だが、それは空耳などではなく、振り返れば、惚れ惚れするほど逞しい男が立っていた。
「まだ残っていたの?」
黒い制服と、その襟章は霊捜局特務機動隊のものだ。看護婦はめんどうくさそうに呟いた。
「それとも、応援?」
「暗殺者にしては、口数が多いな」
呟いて、男は日本刀を抜いた。薄暗い廊下でさえ、ぎらりと貪欲な輝きを放つ『桜花』を構えて、久瀬直人は暗殺者を見据えた。
仕方ない、という様子で女は右手に小太刀を構える。
直人は一切の警告を発することなく、踏み込んだ。鋭く踏み込み、制服の下で、ぐっと盛り上がった筋肉が、鮮やかに刀を振り下ろす。
予想以上に鋭い斬撃に、女は体を開いてやっとかわし、反撃を試みようとしていた小太刀は、磁石にでも引かれたように翻って飛んできた白刃を受け止めるのが精一杯だった。
だが、不自然な体勢では、その一撃の威力を受け止められず、暗殺者の身体は真横に吹っ飛んで、壁に背中を打ちつけた。非常識なほど重たい一撃だ。小太刀を手放さなかっただけでも、賞賛されるべきだろうか。
直人は躊躇しない。よろめく白衣姿に、すかさず接近して水平に刃を振るった。背後に壁があることも気にした様子はなく、深く踏み込んでの一撃だ。女は肩に小太刀の背を当てて、『桜花』を防ごうとする。うまくすれば、コンクリートで刀身が折れるか、壁の木材部分に刺さるはずだ。
「なんで――?」
久遠は再び吹き飛ばされ、今度は倒れ込んでいた。
『桜花』は振り抜かれている。反射的に壁を見ると、横一文字に、木材もコンクリートも鉄骨すら関係なく切り裂かれている。手にした小太刀は無事だが、背を当てていた肩に鈍痛が走る。
なにもかも砕き割るわけではなく、斬っている?
霊子力によって、高周波振動を与えれば、この程度の建材を切り裂くことはだれでもできる。問題は、それをなしうるだけの霊子力を、どうやって作り出し、制御するか、ということだ。
「冗談でしょ?」
非常識に対して、そう言うしかない。理屈が分かっていたとしても、人間の業ではないと感じられるのだ。分からなければ、もう相手が化け物だと思うしかない。
直人はそんな女に向かって、無機質な瞳を向けるだけだ。殺意も害意もなく、しかし、現に殺そうとしている。どうすれば、そんな目ができるのか。
「あまりに非常識……。そうか……それが『桜花』?」
直人は答えない。ひとたび刃を向ければ、それは斬る対象以外のものではないというように。
「なるほどね。だれもが敵わないと言うはずだよ。こんなデタラメぶりじゃ……」
久遠は構わず喋ったが、直人はそれに付き合うつもりも義理もない。ただ『桜花』を振りかぶる――
「そこまでだ!」
廊下の向こうから、女に救いの手が差し伸べられた。見れば拳銃を構えた男たちが厳しい目と銃口を直人に向けている。
清掃服やらパジャマ姿やらの不ぞろいで、見ようによっては間抜けな男たちは、潜入していたサポートチームなのだろう。
「こちらへ」
清掃員の姿をした男が、日本刀を振り上げた男に油断のない目を向けながら、久遠に告げる。一も二もなく、女が走り出そうとする。その影から、直人が走り出していた。
「こいつ……ッ!」
直人が女を盾にしていたことで、反応が一瞬、遅れた。
清掃員姿が引きがねを引くより早く、白刃が薄暗い廊下にきらめいた。拳銃を持ったままの腕が飛び、腕を失った男を蹴り飛ばすと、反応を示せないでいるもう一人を袈裟切りに斬り捨てた。
最後の男がようやく、恐怖に竦みながらも引きがねを引いた。隣の男を斬り捨てた特機の隊長は、眼前で向けられた銃口にたじろぎはしなかった。
コルト・ガバメントが火を噴く。米軍がハンドキャノンと呼んだ、堅牢で信頼性の高い拳銃は、威力の高い四五口径弾を使用し、対人阻止効果に優れる。
銃弾は確かに発射され、直人の胸を貫くはずだった。しかし、その手にあるのは、オリジナルのヒヒイロカネで精製された『桜花』――回転する銃弾は、透明な壁に阻まれたように進む事ができず、力を失って床に乾いた音を残しただけに終わった。
何事も無かったかのように、直人は男のみぞおちを柄頭で一撃して昏倒させた。
振り返れば、白衣を着た女の姿はない。引き際は鮮やかなものだ。
「逃がしたか」
呟いた直人は、刀を収めた。逃走経路の見当はついたが、今からでは追いつけまい。封鎖するにも連絡手段も人手もない。
あの女、確かに『桜花』と言った。『桜花』の銘を知るのは、ごく一部の人間に限られる。学会でヒヒイロカネ=霊子力デバイスという説が流布していても、『桜花』の存在にまで辿り着いたのが、白石博士ただ一人だという事実が、その実際の知名度を示している。
「となれば、久瀬の縁戚か……あるいは」
あるいは、同じようにヒヒイロカネを受け継ぐ一族か。いずれにせよ、その辺りの伝承は欠損している。断定はしえない。
そして、それなりの鍛錬を積んでいるとは見えたが、動きの端々は甘い。なにより、『桜花』と同格の武装が現存する可能性は極めて低い。
考え合わせて、この場で殺して構わないし、殺しておいた方がよいと思えば、口を開く必要も、ためらう必要もまったくなかった。
取り逃がしたのは、失態だったが。
逞しく、不動とさえ思える長身が、よろめくようにして壁に背を預けた。ひどい疲労を感じて、目を閉じる。
そうしていると呻き声が幾重にも聞こえ、火薬の焦げ臭さが鼻につく。そして血臭。無機質さも消毒液の臭いも吹き飛ばして、ここはさながら戦場だった。
「戦争か。まさしく……」
地獄のような光景だった。
暴動の鎮圧に明け暮れた時期を思い出した。多くの戦友が死に、生き残った者も語り継ぐことを拒んだ、あの時期、苦難の記憶。
希望は、どこにあったのだろうか。
廊下を走る複数の靴音が聞こえた。第一小隊からの選抜分隊が、到着したらしかった。先行した直人の勘は正しかったわけだが、結果は良くない。
直人は壁から身を離して、分隊の方へ向かった。
「派手にやられたものです」
酸鼻な光景を目の当たりにして、分隊長が鼻白んだ口調で言った。直人は制帽の鍔を引き下ろして、うなずいた。
「暗殺者だ。確かな事は言えんがな」
「手段を選ばない、と言った感じを受けますが」
「相手が切羽詰っていると、そう思いたいところだ」
同感です、と答えて、分隊長は部下に指示を与える。現場検証のための鑑識の派遣と、生存者の救護活動。そして逃走した犯人の追跡。
やるべき事は多いが――果たして、それが実を結ぶのかどうか。それは特機だけではなく、治安機構全体の抱える矛盾であった。