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九城霊異記  作者: pepe
3/10

2幕:発端

 翌日、昼をとっくに回ってから目覚めたメノウは、街に出ていた。せっかくの休みを、ごろごろして過ごすのは、彼女の性分に合わない。

 もっとも、なにか目的があるわけではない。だから、散策と言っても、いつもと同じ道順を辿るだけのことだ。

 まずは露天商が鎬を削りあう、闇市に向かいながら、ぶらぶらと歩く。通りに新しい店が出来ていれば、とりあえず覗いてみるので、歩みは遅々として進まない。

 九城市はまだまだ発展途上の都市であって、その景観は日々変わって行く。不景気で建設ペースが予定よりも大幅に遅れているとは思えないほどだ。ふと見上げた市街は、半年前に比べても高層建築が増えていて、眩暈がしそうだった。

 元々は地方都市――というのもおこがましい、農村の中心に街らしきものしかなかった、この一帯に、「九城」などという仰々しい名前が与えられたのは、新政権による十年ほど前の「新首都圏構想」の発表時だった。

 それから十年で、元の形が分からないほど開発が進んでいる。ただ、それでも都市としての機能は、まだまだ十分なものではなかった。街は首都の復興から発展への過渡期にあって、雑然とした湿度の高い熱気に満ちている。

 特に、闇市などでごった返すような、このあたりの区画は、新首都圏構想で、最も開発が手薄だった地域だから、計画性の薄い雑然とした景観が広がっている。

 ほどなくして大通りから横道に入ると、闇市通りなどと俗称される通りに入った。

 すると、左右にぎっしりと露店の並んだ通りに差し掛かる。本来なら路線バスが走れるほどの道幅はあるはずの道なのだが、所狭しと並ぶ露店が、商品を前へと広げていくものだから、とんでもなく狭苦しく感じる。

 それが生活用品から危ない品まで、金になるものならなんでも扱う、いわゆる「闇市」の光景だった。

 闇市などと呼ばれているが、本来は市の許可を取り付けた露店が店を出している、れっきとした定期市である。ところが、内戦の影響で統治の緩かった当時、不法な露店が大量に雪崩れ込んで、今のような形になってしまった。

 首都圏警察としては、こうした不法出店を取り締まりたいのだが、市民からはバッシングを食らい、内部の横領品リストを暴露されて、上の方でかなりの首のすげ替えがあったという過去から、強気な対応に出られない状況だった。

 後に「闇市事件」などと呼ばれる、内戦後最大の政治スキャンダルだが、闇市の消えない理由はそればかり、というわけではない。

 闇市はいつの間にか、市民生活を支える基盤のひとつとなりおおせて、公務員も利用しなければ生活が立たないのだから、実際に根絶することは不可能なのだ。

 それと言うのも、出自さえ気にしないというのであれば、欲しい物はなんでも揃ったし、正規の流通品より安く買うことができた。政府のインフレ対策が上手く行っていない中で、内戦中にインフレの頭打ちをした闇市の方が、物品は安い。

 もちろん生活の苦しい市民は、それだけ値段に敏感で、ゆえに売買する人の流入は激しく、常に活気に満ちている。

「おおう、メノウちゃん。いい物が入ったんだよ、見てってよ」

 さっそく、露店の親爺が声をかけてくる。金離れが良くて、足繁く通ってくる――メノウは闇市では上客だった。手に掲げて見せているのは、軍用品の編み上げ靴だ。

「米軍の正規品だって。丈夫なのは折り紙つきだよ」

 メノウの嗜好を良く知っている。とにかく頑丈で長持ち、見栄えなどすこしも気にしない。メノウの方も、最初に確かめることは決まっていた。

「死体からかっぱいで(・・・・・)きたんじゃないでしょうね?」

「大丈夫だって、ほら、新品! 新品!」

「ふうん、仕立てはいいみたいだけど……」

 それでも、ついつい商品に見入ってしまうのだから、この界隈の商売人からすると、メノウはぼろい客だった。

「こんなのどっから持って来るんだか」

「横須賀の駐屯部隊からの横流しらしいよ。無理して駐屯してるから、アメリカさんもこういうことしないと、飯が食えないんだってさ」

 へえ、とメノウは適当に相槌を打つ。政治など興味がないし、そもそも、なんで米軍が日本に駐留しているのかが分かっていない。

「ま、いいや。いくら?」

「千二百円」

「高っ! 半額ぐらいにしなさいよ?」

 で、そこから値段交渉だ。

 うーん七百、いや五百でしょ、六百は譲れないよ、じゃあ買わない、分かったよ五百、ついでに百円まけてよ――という具合だ。

「しょうがないなあ、メノウちゃんは。こっちも商売なんだけどなあ」

 などと、ぶつぶつ言いながら、結局はメノウの言い値に収まる。もっとも、元値がいくらだか分からないが、したたかな商売人が損をするような値段で折り合うはずもない。

「ありがとさん。ついでに帽子もいらない?」

 紙幣と引き換えに商品を渡したそばから、ひょいとワイドキャップも取り出してみせる親爺だった。



「さて、と。ちょっとお茶でも飲んで帰るかな。どうせ明日は、ナオが朝っぱらから呼びつけてくるんだろうし」

 結局、買った帽子を目深に被りながら、メノウの腕には、闇市で買いあさった戦利品の紙袋が抱えられている。

 香田に見せると間違いなく閉口する戦利品の数々は、胡散臭い呼び込みに引っかかったものに違いないのだが、彼女自身はまったく気にしていない。

 もちろん、部屋の押入れに押し込んで、二度と日の目を見ないであろう品々のことも、頭にはない。

 闇市通りを抜けて、駅の方へ戻る途中に、メノウがいつも立ち寄るカフェがある。

 日本建築の色合いの強い建物に、どうにも洒落た色ガラスの窓が不調和をきたしている。明治からの老舗とのことだが、当時のことだから、文明開化の一声で片付けていたのだろう。

 店内はきちんと洋服で正装した店員が、よく教育された接客態度で優雅に立ち回っている。再開発地区にありながら、そこらへんは老舗の伝統と誇りのなせる(わざ)だろうか。

 もちろん、そうした店の態度は、客にも相応の装いや立ち居振る舞いを要求するものであるはずだが、その伝統も誇りも、メノウの前には役に立たない。

 ちなみに今日の彼女の装いは、米陸軍の緑色(オリーブドラブ)のズボンにブーツ、それに帝国陸軍時代のカーキ色のシャツを着込んで、仕上げは米海軍のフライトジャケットという格好だった。いずれも丈夫だから愛用しているというだけで、そこからコーディネートのセンスは読み取れない。

 混合(・・)軍装を着崩したメノウが入ると、明らかに周囲の空気から浮いてしまう。彼女が気に入っているのは、出されるケーキがおいしいことだ。店がどうとか、自分の身なりがどうとかは、さっぱり気にしない。

 店員の方も慣れたもので、その異質な常連客に眉ひとつとして動かさない。

 午後のちょうどよい時間だと言うのに、店内は閑散としていた。コーヒー一杯で労働者の一日の給料が吹き飛ぶインフレっぷりのせいだ。そのせいで、多少の問題があっても、金を持っている客はありがたいのだろう。

「へえ……」

 何度も足を運んだ店内に、感心したように呟いたのは、奥の席に女性と向き合って座る相棒――直行の姿が見えたからだ。自分の事は棚上げして、店の雰囲気に馴染まない直行に忍び笑いを漏らす。

 ちょっとだけ、からかってやろう。邪気とは言わないが、このあたり、メノウは十分に性格が悪い。年頃の闊達さ、という弁護もやや苦しい。

 直行の座る席に近付く。と、向こうも異質な空気を感じ取ったらしい。何気なさを装ってこちらを向いた、若々しい細面は、すぐさま苦い表情を形作った。

「あら、偶然」

 さも、たったいま気付きましたよ、といった口調で、白々しく言って見せて、お相手の女性を観察しようとして、その奥の、入り口からの死角に男性がひとり座っていることに気付く。ちょっと状況が想像できない。

 直行の対面の女性は、黒髪を結い上げて、紫紺の着物を丁寧に着付けていた。背はメノウより少し低いぐらいだろうか。三十路の入り口あたりと見えた。優しい顔立ちの上品そうな女性だった。

 一方で、奥の男性はその隣で腕を組んで座っている。出されたコーヒーに手をつけた様子もない。黒い軍服のような制服を着て、傍らには、軍刀というにはあまりにいかつい、黒塗りの鞘におさめられた日本刀を立てかけていた。

 年齢は着物姿の女性と同じぐらいだろうが、異性であっても、受ける印象はあまりに対照的だ。人間という粘土細工から、優しさや脆弱さといったものを、いっさい削ぎ落とせば、こんな人物になるだろうといった、厳しい面立ちと揺るぎない体躯をしている。

「お知り合い?」

 硬直した直行とメノウが口を開けずにいると、女性がそっと直行に聞いた。温かみのある、上品な声だった。

「――仕事の相棒だよ」

 苦々しい感情を噛み殺した声で、直行が答える。面倒な、と言わんばかりの表情が、押し殺した上からでも垣間見える。

 そんな直行を気にした様子もなく、婦人は「まあ」と顔をほころばせた。メノウに向き直って、

「直行がお世話をおかけします」

 と言った。そうは言っても、母親にしては若すぎる。その疑問には、続いた言葉が答えてくれた。

「久瀬雪乃(ゆきの)と申します。直行の義理の姉になります」

 なるほど、奥に座った男性には、どこかしら直行と同じ面影がある。もっとも顕著なのは、兄弟揃って無愛想なところだが。

 納得したメノウは軽く自己紹介をした。

「直行は愛想がないから、あなたのような人が付いていてくださると、安心しますわ。この子ったら、久し振りに会えたというのに、笑顔のひとつも見せてくれないのですもの」

「照れてるんですよ。見栄っ張りだから、やせ我慢ばっかり」

「うるさい、バカは黙ってろ。義姉(ねえ)さんも、母親気取りはやめてくれ」

 言いたい放題に言われた本人は、鋭く切り返した。

「おれは家には戻らない。家訓とかに付き合わされるのは、まっぴらごめんだ。言ったはずだろう。おれは、おれのやりたいようにする。義姉さんだって分かってるだろうが! 兄貴は、周りを不幸にしかできないんだよ」

「直行、お兄様になんてことを――」

「捨て置け」

 顔色を変えた雪乃に、いままで黙っていた兄が口を開く。その声は、物理的な重圧すらはらんでいるように、重たく響いた。

 関係ないはずのメノウまで、ちょっと身を引いてしまった。

「しょせん、逃げ出すことしかできん奴だ。すこしは成長したかと思って会うことにしたが、相も変わらず子供のたわ言しか吐けんようだな」

「なんだと……」

「口先ばかりだと言っている」

 それ以上、言うべきことはない。そんな様子で、男は口を閉ざした。あまりの屈辱に、直行は声すら出ない。ぶるぶると肩を震わせる彼を、雪乃は心配そうに、メノウは所在なげに見つめている。

「――表へ出ろ」

 かすれた声で、囁くように言った。その手には、使い込んだ愛刀が鞘ごと握られている。

 ぴくりと、兄の左眉が動いた。まなじりの上で、いちど眉が途切れていた。擦過傷によって、毛根ごと削ぎ取られた跡だと分かる。あらためて見れば、顔じゅう、のぞく首筋にも、無数の傷痕が刻まれていた。

「やめておけ。それに、力に訴えて片が付くのなら、とうにそうしている」

「逃げるのか!」

「縛りつけはしないと言っている。これが、兄として示せる、せめてもの情けだ」

 好きなように生きろ、ということだった。

 直行が眼をそらす。勝てないことなど、はなから分かっている。それでも挑んだのは、覚悟を見せたかったからだ。それを冷静に受け流してしまう。だから嫌いなんだ――そっと呟いた声には、悔しさが滲んでいた。兄は決して、同じ次元で戦ってはくれない。足掻く弟を見下ろすだけだ。

 想定外の修羅場に、自分から踏み込んでしまったメノウは、感圧地雷を踏んだように動く事もできずに立ち往生してしまった。あまり家庭というものに馴染みのない彼女には、久瀬家の事情など推し量れるものでもない。

 居心地の悪そうなメノウに、雪乃が困ったような微笑を向けた。

「ごめんなさいね、メノウさん。すこし立て込んでいるものだから、席を外していただけるかしら?」

 申し訳なさそうな口調に、メノウは救われた気分でお辞儀して、さっさとその場を離れる。他人の家庭事情には触れないのが得策だ。それぐらいの分別は働く。

 離れた席に座って、

「おっかない所に首を突っ込んじゃった」

 溜め息を吐き出しつつも、旺盛な好奇心はまだ直行の方に関心を寄せている。とは言っても、その好奇心もウェイトレスが注文を取りに来るまでだった。彼女の場合、食欲に勝るものと言えば、睡眠欲ぐらいのものだ。

 適当に注文をすませてから、ようやく一息つこうとしたところへ、表通りから耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。

「今日は厄日かな……」

 ガラス窓から外をうかがうと、よりにもよって店のまん前で拳銃を振り回す男が女を人質にしている様子が見えた。男を追ってきたらしい警官数人の姿も見える。犯罪者を追い詰めはしたものの、取り押さえるのに失敗した、と言ったところか。犯人の顔に手配書での見覚えはない。霊子力犯罪者かどうかは分からない。

「落ち着きなさい。投降すれば、罪は軽くてすむから」

 警官の説得の声が聞こえるが、男は殺すとかなんとか脅し文句を怒鳴るばかりだ。

 まあ、普通の犯罪者でも、逮捕協力で金一封ぐらいはもらえるか――そう思って腰を浮かせたメノウのそばを、黒い制服姿がすばやく通り過ぎる。直行の兄だ。

 決断が遅かったらしい。さきほどの会話から察するに、直行以上の使い手となると、自分の出る幕はなさそうだった。それに、慎重な直行の兄だ。さぞ上手い事やるのだろう。

 たまには見物も悪くないか。そう思って、腰を下ろす。

 直後に度肝を抜かれた。

 店から出るや、直行の兄は抜刀した。犯人に対して警告も説得も、それどころか警戒する様子すらない。無遠慮にずんずん近付いていく。

 気付いた犯人がぎょっとした表情を浮かべて、何度か口をぱくぱくと開閉させた。それから、近寄るな、殺すぞ、といった物騒な脅し文句が、裏返った声で聞こえた。

 が、近付いてくる抜刀した男は止まらない。さすがに、その常識外れの行動は、メノウすら唖然とした。家族会議らしきものから、さっき飛び出して行ったところだ。彼が罠を張っているはずもない。警官たちも、いきなりのことに驚いて、止めることも思いつかない様子だった。

 来るんじゃねえ、という悲鳴を最後に、犯人がついに発砲した。乾いた音が響き、だが、銃弾は背後のカフェのガラス窓を撃ちぬいただけだった。

 カフェの内外で悲鳴が上がるのを尻目に、メノウは窓の傍らで壁を盾にして、外の様子を窺った。

 撃ったことがないのか。いや、それにしても外れすぎだった。発射の反動なり力みすぎなりでずれるにしても、さきほどの銃弾は、右に大きく外れていた。普通、そんな外れ方はしない。

 それは、犯人にしても想定外だったらしい。不可解そうな表情を浮かべたかと思うと、すぐさまいきり立って引き金を次々と引いた。

 直行の兄は動じた様子もなく、歩く速度も変わらない。ただ真っ直ぐ歩いているだけだと言うのに、銃弾は冗談のように左右に外れ――拳銃の残弾がゼロになるのと、直行の兄が犯人の目の前に立ったのは、ほぼ同時だった。最後の一発は、外しようのない至近距離から撃ったはずなのに。

 黒い制服姿の男が握った白刃が、青白く揺らめく燐光をまとっていることに、気づいた者はいない。

 ちくしょう、そう叫んで、拳銃を捨てた犯人が、一本のアンプルを取り出す。

 やっぱ、出るだけ出とくんだった。後悔先に立たず、という言葉の見本のように、身を翻しかけたメノウは、すぐさま「出て行く」ことが無駄な労力だったことを知るはめになった。

 一瞬、動きがあったと思った瞬間には、犯人の体は宙に放り出されていた。人形のように地面に放り出された犯人がうめく暇すら与えず、柄頭によるこめかみへの一撃で昏倒させ、状況終了――。

 だれもが白昼夢を見るような表情で、その無茶苦茶な逮捕劇を見守っていた。

 そうして、だれもが釈然としない中で、犯人の身柄を警察に委ねて、男はカフェの中に戻ってきた。

「あんた、何者なの?」

 思わず、メノウは傍らを通り過ぎようとする男に訊いていた。ふと歩みを止めたのは、弟の知り合いに対する、せめてもの礼儀だったか。物騒な男が立ち止まってこちらを見ると、さすがに不躾な少女も身がすくむ思いがした。

「久瀬直人(なおと)。公安庁霊子力犯罪捜査局局員」

 簡潔な物言いで答えた。メノウには、その名前に覚えがあった。まさか、と思ったのは、その名前は直行とただの同姓の、まったく関係ない人間だと思って見過ごしていたからだ。直行には怪物の弟という雰囲気はない。繊細すぎるのだ。

「第一特機の久瀬大尉?」

「そうだ」

「噂なら、かねがね。でも、噂なんて当てにならないのね。想像以上の化け物だわ」

「化け物か……」

 うっそりとした眼に、背筋が冷えた。

 だが、再び開かれた口からこぼれた言葉は、予想外のものだった。

「直行を頼む」

 霊捜局の実働部隊の中でも、中核となる第一特機を預かる男は、それきり興味を失ったようにメノウの前を去った。

 ほんとうに、噂以上だ。メノウはそう思う。

 その噂自体が、都市伝説だと思っていた。十人以上の凶悪犯に囲まれて、一人ですべて始末したとか、そういう類の噂だ。

 なるほど、人を斬ることに躊躇いのない直行が、どうして捕縛に拘るのか――それがメノウにはなんとなく分かった。十中八九は犯人を殺している特機の兄に対する、当て付けみたいなものだ。妙に合理的なくせに刀だけを使うのも、対抗心なんだろうとメノウは納得した。

 しかし、メノウの興味はそれ以上、持続したりはしなかった。

 待っていたケーキを、仕事に忠実なウェイトレスが運んでくるのが目に入ったからだ。



 霊捜局本部ビルは、公安庁本局や首都圏警察局本部からは、やや離れた位置にある。路面電車で一駅ほどの距離に過ぎないが、官庁オフィス街の外れにあるのは、そこが実戦部隊を統括する基地だからに他ならない。

 近年、増加の一途を辿っている都市型犯罪、その中でも強い懸念を示される、エリキシルを始めとする霊子制御の悪用を取り締まる部署である。

 久瀬直人大尉は、休暇中の呼び出しを受けて、その本部ビルへと出頭していた。ビル、と言っても、本部施設の大半は地下であり、地上部分は一階しかない。

 警備についていた兵士が敬礼する。直人も当然のように答礼するが、組織の管轄はあくまで公安庁であって、ここは軍隊ではない。

 とはいえ、現場要員を陸軍からの人材に依存しているため、彼らの大半は現役の階級を持っている。陸軍からの出向員として、書類上は扱われるので、なんとなく習慣で敬礼する。

 おまけに、霊捜局は首都最強の治安戦力を保有している。属している人間にさえ、軍隊と区別がつかないのも無理はない。

 実際のところ、組織規模は警察や憲兵隊に遠く及ばないものの、首都における戦力規模は、近郊に配備されている二個親衛師団を勘案しなければ、最大と言って差し支えない。

 霊捜局の戦力とは、大東亜戦争(・・・・・)および、十年に亘る内戦(・・)において、十分な市街地戦闘を経験した陸軍選抜メンバーを要とする、三個の特務機動隊である。

 兵員輸送装甲車、突撃小銃(アサルトライフル)から対装甲兵器(AMW)までを保持し、そして、それらの運用制限を持たない(・・・・)。ここまでの重武装を平時運用しうる部隊は、特機に限られる。

 霊捜局設立より前から、霊子力犯罪者は組織化される傾向を示していたが、彼らの行動が都市ゲリラに酷似するようになってからは、一般警察では対応が困難になっていた。

 組織化された結果、犯罪者の行動は統率されるようになり、保有する火力は増強されている。

 これに対応し、治安を維持するのが、霊捜局の実働部隊、いわゆる特機であって、その戦力は強固でなければならない。その一方で、クーデターを懸念する風潮から、組織規模は拡大できない。結果として、人員は最小限、装備と仕事の荷重は最大限という、いびつな組織が出来上がっていた。

「最良の選択などは、夢想に過ぎない」

 地下へ降りるエレベーターに乗りながら、直人はそう思った。現在の状況が出来上がるまで、影響を与えた事件は様々にある。

 しかし、その大元は霊子の発見そのものだろう。

 霊子力学の雛形が学会を騒然とさせたのは、一九二〇年代に入ってからのことだ。おりしも対外折衝に行き詰まりを見せ、深刻なエネルギー危機が予測されていた日本では、大々的な研究が開始された。

 それは国民に幸福をもたらすはずの研究だった。少なくとも、現在のような状況を、当時の研究者たちは想定しなかっただろう。

 一九三〇年代に入ると、大型の霊子機関が登場し、霊子炉とも呼ばれる霊子力発電機関が建設されるに至り、エネルギー資源の問題は徐々に解決の兆しを見せていた。

 だが、ほとんどの鉱物資源を輸入に頼る状況は改善できるはずもなく、満州事変によって国際的に孤立した帝国は、日中戦争の泥沼化の果てに、米国の対日輸出品目の全面的な強化を受けて、国家経済基盤が完全に破綻――大東亜共栄圏を掲げての大東亜戦争に踏み切った。

 当初より、帝国軍は戦況を有利に進めた。文明開化より約一世紀の、辺境後進国の奇跡的な勝利。白人至上主義への現実的で明確なアンチテーゼ。世界の有色人種が夢見た瞬間は、唐突に幕切れを告げた。

 エレベーターのベルが鳴って、目標の階層に到達したことを告げた。格子のドアを引き開けると、直人は廊下を歩き出す。

 ……対米戦も佳境に入った一九四四年、帝都・東京は、その政府機能とともに消失(・・)した。

 焼き払われたのではない。文字通りに消え去ったのだ。およそ半径二〇キロメートルという範囲が、齧られたリンゴのようにごっそりと消え去った。

 その地域にいた、すべての人間の生死は不明。消失現象と推定される事象の原因も不明。米軍の秘密兵器だとする噂も根強い。

 残ったものは、国力限界を超えての継戦により、極度に疲弊した社会だった。

 夢から覚めたのか、夢に落ちたのか、直人にも分からない。その後に訪れた地獄も、現実なのか、夢なのか、過去の感覚は曖昧なままだ。その時々の感情は熱く、冷たく、それぞれに感じられても、一貫した現実感は薄い。

 混乱と内戦。暫定政府の乱立と激化するゲリラ戦。その中を、確かに生きてきたはずだった。その中で願ったのは、なんだったろうか。

 地下発令所に入ると、発令所要員は忙しく立ち回っていた。喧騒が殺気立っている。よほどのことがあったと見るべきか。

 冷静に観察しながら、司令席へ足を運ぶ。

 霊捜局のボスは、部下らと協議しながら、大量の書類に目を通している最中だった。

「来たか、久瀬大尉」

 目ざとく気付いて、秋島大佐が手にしていた書類をデスクに放り出した。

 そもそも、彼女自身が陸軍の現役階級を持っていることが、組織の体質を暗示している。内戦終了とともに、影響力の維持が課題となった軍の苦肉の選択の結果でもあるし、そこに付け入って有力な部隊を引き抜きたい秋島の選択でもあった。

「休暇中にすまない。奥方には文句のひとつも言われそうだな」

「余分なことはいい。それより、なにがあった? 休暇申請には、三日前に自ら署名したはずだ」

「三日前とは、状況が変わった」

 分かるだろう、というような口調で応じる。

 指令席の前に山積された資料は、通常業務の量をはるかに超えていた。

 公安庁の蓄積する情報量は、一般人の想像を絶する。事件との関連性があると思われた資料は、すべて提出される。秋島の前に山積される資料は、そこから、調査班の検討を経て絞り込まれたものだ。それですら、うんざりする量なのだ。

「そうらしいがな……」

 すり鉢状になっている発令所の底にある、都市の地図を見たところで、異変は察知できない。そこには収集された情報を元に、発生した霊子力犯罪のポイントがナンバリングを受けてマークされるが、普段よりマークが多いというわけでもないのだ。

 説明を求めるように視線を移された秋島は、発令所を殺気立たせている案件を説明した。

「昨夜十一時過ぎ頃、飯田市長が暗殺された。護衛についていたのは、憲兵が二十五名と市長の専属警護役が五名だ」

「公安が情報を統制しているのか」

 驚かないところがかわいくない。初めて耳にする事件に、直人はそのように納得した。当然、自分が呼び戻された理由も、おおよそ察することができた。

「情報統制は明日――五月四日までだ。恐怖で締め上げていた時代とは違う。あまり情報公開が遅れれば、国民に不審を残すからな。その限界が明日だという判断だろう」

「統制解除までに犯人を挙げられるのか?」

「分かっていて訊くな」うんざりしたような秋島。「それ以前の問題も多い。貴官を呼び出したのも、そのためだ」

 薄い肩に疲れが見える。昨日は徹夜だったのだろうが、それ以前に慢性的に休みが不足していた。それは霊捜局の職員すべてに言えることだが。

「詳細を知りたい。話はそれからだ。それと、部隊の現状を」

 秋島を通じて出された命令に、即座にレポート形式の報告書があがってくる。虚飾を廃した対応は、おそろしく早い。直人は立ったまま、それらに素早く眼を通した。

 飯田以下、護衛五名、憲兵隊二十四名、料亭勤務の民間人二十二名が殺害されている。奇跡的に憲兵の一人が命を取り留めたものの、現在も意識不明で治療中。殺害方法の大半は、霊子制御による『切断』と推定。

 ほとんどの傷跡が同様の痕跡を示しており、犯人は単独犯ないしは少数グループの犯行である可能性が高いと思われる。

「切断というのは?」

「そうとしか表現できない。まるで、包丁で豆腐でも切ったような傷口だった。通常の刀傷と思われる傷もあるが、傷口から見て、相応の手練のようだ。お望みなら、写真を添付するが?」

「そうしてくれ。憲兵が警護ということは、市長の会談相手は軍の高官か」

「そうだ。同日、別行動を取っていた秘書官から事情を聴取できた。相手は親衛師団の師団長二名だ」

「親衛師団?」

 それは首都近郊に配置された、精鋭二個師団だった。いずれも現政権樹立のために、最初期から行動を取った功労師団を改編・改称したものである。

 だが、直人が聞き返したのは、そういった基礎知識ではない。内戦の一応の終息後も過大な戦力整備を要求する軍部に対して、不信感を抱いていた飯田市長の会談相手として、ふさわしくないように思えたからだ。

「首都圏での大規模テロないしクーデターを想定した演習の許可について、折衝を行う予定だったらしい」

「公安庁への牽制か」

「どうかな、おそらく目的は我々だろう。軍務省はともかく、実戦部隊からの受けは悪いから……いや、そんな話はどうでもいい。ともかく、今回の事件は霊捜局の存続に関わる。最優先事項だ」

 聞き流すような様子で、直人は資料の確認を続けた。麾下の第一小隊は一級犯罪者の捜索中。第二、第三はすでに本件に関する調査を開始している。

「生存者が意識を取り戻す可能性は?」

「重傷だそうだ。医者は保証できないと言っている。いずれにせよ、口封じの警戒に、第二小隊の三田(みた)分隊を護衛につけている」

 直人はうなずいた。練度に不足のない部隊だと記憶している。前線から引き抜くのは痛手だが、不測の事態に対応できる部隊を付けておくのは当然だった。

「合同調査というのは?」

 資料にある見慣れない単語について尋ねる。

「憲兵と警察との合同調査だ。事が事だから、霊捜局に一任はできないと言う事だ」

 むしろ、霊子力が行使されたから、霊捜局を捜査に加えたというのが、向こうの言い分だろう。

 内戦を通じて、国家非常事態宣言の下、軍政を理由に勢力を拡大した憲兵隊は新設組織を信用していない。同時に強力すぎる装備を運用し、なおかつ主要な人員を陸軍から抽出した霊捜局を、首都圏警察局はこころよく思っていない。

「一応、捜査委員会が設置されて、一日に二度、合同調査報告会をやる。相手への捜査協力の申請も、委員会を通すことになっている」

 もっとも、警察も憲兵も、参加は形ばかりであって、実質的な捜査の進展状況は、霊捜局の働きいかん――という、秋島からすれば、報われない報告会だった。一度だけ出席して、後は代理を出して済ませるつもりだった。

「他の連中からすれば、ノウハウを持っている我々が働いて当然というところか」

「そもそも、霊子力犯罪に関する実績のない連中など、邪魔なだけだ」

「使えるものは使うべきだ、指揮官ならば……」

 堅物の大尉の言葉を手振りで遮って、秋島はややうんざりしたような表情を見せた。

「分かっているよ」

「だが、実働部隊としても、早めに片付けたい事件ではある。四月からの犯罪件数の増加で、各隊の疲労の蓄積がひどい。ローテーションは組んでいるが、これ以上は、特機の対応能力に問題が生じる恐れがある」

 そう言う直人自身、一年ぶりの休暇を返上して、ここに居るのだ。昼間の逮捕劇など、茶番にすぎないほど、危険極まる犯罪者と不眠不休で戦っている。特機とは、そういう組織なのだ。

 分かっているが、と言葉を濁した秋島は、苦い表情で発令所の中央底部にある都市地図を見た。そこに散らばるマーキングの示すポイントでは、なんらかの霊子力犯罪が行われている。すべての部隊を投入しても、その中で対応できるのは、ほんの一握りにすぎない。それがいつもの状況だ。

 霊捜局が抑止力となるには、まだまだ社会の混迷が深すぎるのだ。犯人の中で圧倒的に多いのは、貧しさから罪を犯す者だ。他にも内戦による心の傷から、市民生活に溶け込めない者など、いずれも動機は社会の暗部に直結している。

「せめて、もう一隊あればと思うのだがな」

「詮無いことだ。実現のための努力は無為ではないとしても、な」

 応じた直人は再び資料に眼を落として、状況から導き出される推察を読み進めた。そこには、おおよそ予想どおりの事が書かれている。

「やはり、犯人の背景には『黒龍会』か」

「おそらくは」

 秋島は慎重な表現で応じた。確証があるわけではないのだ。『黒龍会』は霊子力犯罪者のコネクションである。九城でも最大の規模を誇ると考えられながら、その実態は掴みきれていない。

 『黒龍会』がらみと思われる霊子力犯罪は多いが、逮捕された犯人は、切り捨てられることを前提とされている者ばかりで、自身の属する組織の実態を知らない。「多分、あいつらだ」という程度の証言には、まったく意味がない。

「飯田市長は霊子力犯罪の摘発に意欲的だった。犯罪組織から狙われる理由は十分だ。シチリアのマフィアのように、な。そこまで奴らをのさばらせているつもりはないが」

「さすがに憲兵隊の警護をものともせずに、単独ないし少数人数で暗殺を実行できるほどの者を抱える組織は――推測だが――他にない」

 引き継いだ大尉の言葉に、秋島がうなずく。

 古い体制の犯罪組織は、霊捜局の厳しい対応で弱体化ないし壊滅している。その状況下で現れてきたのが、『黒龍会』のような体制の組織だった。

 エリキシルの製造能力も有すると見られる、首都圏最大の犯罪組織であり、大陸系犯罪組織との繋がりも噂されている。

「それが妥当な判断だろう。いずれにせよ、『黒龍会』も叩いておくにこしたことはない。それで、これから、どうするつもりだ」

 そこで秋島は、どこか悪戯っぽい笑みを瞳にひらめかせて、答えた。

「おそらく、考えている事は貴官と同じだろうな」

「それが妥当とは言えないが、やむをえんな」

 珍しく苦いものを含んだ顔で、上司の言葉に応じた。そして、胸の内をこぼす。

「いまにして思うが、霊子というものは、我々にとって、過ぎたる力だった。自らを滅ぼす力だ」

 霊子力犯罪を取り締まる立場であるがゆえに感じる、究極の問題がそれだった。しかしながら、それがなければ、というのは都合が良すぎる。なければ、そもそも戦後日本そのものの存立が疑わしい。

「それに頼らざるをえないのが現状だ。言っても始まらん」

「東京はそうして(・・・・)消え去った。世界最大の霊子力都市だったがためにな」

「しかし、それは――」

 直人はうなずいた。分かりきっている、という表情で。東京の消失現象が、調査プロジェクトを実行しながらも、ついに結論を公表しなかったばかりか、調査員に対して秘密の厳守を誓約させた理由も知っている。現象の爆心地(・・・)が霊子炉だったから――そうせざるをえなかった。

 現実は都合のいいことばかりではない。それは知っているつもりだ。それでも重すぎた代償と、強すぎる力に巡る因果は、あまりにも暗すぎる。

 他の道があったのだろうかと、直人でさえ思うことがあった。それが意味のない思索だと分かっていても、考えてしまう。

 すでに選択された道は、覆ることなどないというのに。



 夜半となると『シャンソン』のマスターこと香田桂介は、ようやくゆったりとした時間を取り戻す。大半の客は引けて、残っている常連客たちも、ほどよく酔いが回って、追加注文も少ない。

 メノウがウェイトレスをやってくれれば、もう少し楽ができるんだけどな、と未練がましく思う。もちろん、彼女にウェイトレスの適性があるかは、香田自身、はなはだ疑問ではあるのだが。

 からん――入り口のドアにしつらえたベルが、静かに鳴って、物思いに耽っていたマスターは、時間外れの来客に驚いた。

「おや、秋島さん。いらっしゃい」

 入って来たのは、ようやく発令所の指揮席から解放された秋島だった。私服のスーツに着替えているのは、さすがに制服の威圧感を考慮するからだ。

「ようやく仕事から解放されてね」

 そうですか、とマスターは微笑んだ。事情を知らない、というのは救いなのかもしれない。

 市長の暗殺を、公安庁はまだ伏せている。無用な混乱を防ぐための、その対策に時間が必要になるからだ。だが、社会的に、知らされていないことはなかった(・・・・)ことと同じだ。市民の中では、まだ飯田市長は生きている。

「仕事があるだけ、ありがたい――とも言えないですね、あなたの場合は。なんにしますか?」

「お任せするわ」

 公人としての仮面を外して、女らしい言葉遣いに戻った秋島は応じた。部下と話していると、どうしても外せない仮面だった。ある意味、自分も不器用なたち(・・)らしい。

 カウンター席に座りながら、控え目な照明と、落ち着いた空気が、ささくれ立った神経を宥めてくれるのを感じた。

 そっとブランデーの入ったグラスと、つまみのチーズを秋島の前に差し出すと、彼女がふと尋ねた。

「そういえば、メノウは今日も?」

「いいえ。今日はお休みだそうで、夕方ごろには戻って来ましたよ。まあ、できればね、危ない仕事はやめて、ここのお手伝いでもしてくれれば、それがいいんですけれどね」

 言っても、頑固だから聞かなくって。そう付け加える。

「僕はね、帰ってくるあの子を待つのが辛くて。帰って来ないんじゃないかって、そう思うと、たまらないんですよ。まだ一六歳なんです。他にもっとやらなくちゃいけないこともあると思うんです。……あなたに、こんな話をするべきじゃないのかもしれませんけれど」

「いえ、分かるわ」

 部下を死地へ追いやる事には、今も慣れない。幾人もの訃報を聞き、その葬儀に参列した。香田のそれとは違うかもしれないが、待つことの恐怖は分かるつもりだった。

「情が移りやすいのも、ちょっと考えものですね。心配ごとが増えるばかりで……」

 苦笑を浮かべながら、マスターはそう言った。ふと、直人の妻――久瀬雪乃はどんな気持ちで夫の帰りを待っているのだろうかと思った。月に二度、三度しか自宅に帰れない夫を待つためには、どれだけの精神的な強さが必要なのだろう。

 それきり、二人は黙り込んで、秋島は包み込むような疲労感の広がりに心を委ねていた。押し込んでいた疲労は、心地よく全身に広がっていく。

 だが、疲労感とは別に、それは決して報われる仕事ではなかった。

 減らない犯罪件数に、公安も警察も、年々、その規模を拡大しつづけていた。霊捜局のような組織だけでは対応できない実情に、武装警察隊の創設も、政府の議題に上っている。

 もちろん、それらは場当たり的な対応でしかない。

 圧力だけでは払拭できない、根源的な理由があった。

「だれもかれも、生きることに必死で、先を見ない。それが現状だ。狂騒的と言ってもいい。悪い状態とは断言できないが、手段を問わない者が多いのも事実だ」

 直人はそう言っていた。達観しすぎた意見には同調できないが、まだ社会秩序が定着するには、時間が足りないということなのだろう。

 問題はあまりにも多岐にわたり、そして複合的な要因によって引き起こされる。社会構造の専門家ではない秋島には、それらの問題の深い部分は分からなかった。直人の言葉を一面の真理かと思うのは、犯罪の取り締まりに携わる者の肌感覚でしかない。

 そして、現状において手段を問わないのは、犯罪者だけではなかった。

 メノウを危険な場所へ送り込むきっかけを作ったのは、無思慮で余裕の無い政府の法案だったが、その法の存続を否決しえなかった原因は、実行戦力の足りない霊捜局に他ならなかった。

 マスターの控えめな笑顔に、心が痛む。

 まだ甘い……直人の声が聞こえるようだった。

「言うなよ……久瀬大尉」

 冷めた瞳で秋島が呟いた。

 思えば、追い詰められているのは犯罪者だけではなかった。過激な弾圧を行ってきた霊捜局=特機もまた、それに見合う結果、すなわち犯罪件数の抑制を達成できてはいない。

 明日には、情報統制が解かれる。

 すべてはそれからのようでいて、あるいは、もうなにもかも終わっているのかもしれない。

 グラスの中で、小さく氷が鳴った。



 夕方には部屋に戻ったメノウだったが、それで夜には眠れるというものでもなかった。なにしろ、昼過ぎまで寝ていたのだから、起きてから一二時間も経っていない。

 布団の上に寝転がりながら、ふと直行のことを思い出す。家族、というものに、メノウは特にこれといった覚えがない。

 父の形見といって、いいものなのか、どうなのか。そう思いながら、首から提げた、瀟洒なクリスタルを掌に載せる。

 安っぽい電灯の光に、無機質に青く光るそれは、装飾品ではない。

「試作品だが、くれてやる」

 せめてもの愛情、というには、その声に温もりがあまりに乏しく、死の床に駆けつけた娘を煩わしくさえ思っているかのようだった。

 霊子理論の研究者だった父が、たったひとつだけ、娘に残した物だった。他にはなにもくれなかった。母は印象に薄く、父はらしい(・・・)印象をひとつもくれなかった。

 それがどう、というわけではない。恨むつもりもない。ただ、そうだったというだけで。それが一抹の寂しさとともに思い出される、というだけだ。父が娘を、おそらく愛さなかったように、娘も父を愛してはいなかった。それが不幸だと言うなら、その二人の間に血のつながりがあった、というその一点だろう。

 このクリスタルが、いったいどういう物なのか、メノウにはよく分からない。分かっていることは、このクリスタルを通じて、霊子力を扱えるということだけだ。

 こんな物騒な物、どうしろってのよ。そう思いながらも、使っている。そのことに対して、不安を覚えないではないが、そもそも霊子がなんなのか、確実な答えを知る者など、居はしないのだ。

 こういうものであるらしい、という仮説に過ぎず、だから、こういう訳の分からないクリスタルに対して、それが何なのかを問うことじたいが間違っている。

 それがメノウの結論だ。

「結局、父様にとって、わたしはなんだったのですか?」

 恨むというわけではなく、それだけは確認したかった。だが、今はもう、机に向かう父の後姿しか思い出せない。どうしたって、それは知ることの出来ない過去になりおおせてしまっていた。

 それがただ哀しく、捨てられない形見が、今の自分の生活を支えていると思えば、惨めになるばかりだった。


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