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九城霊異記  作者: pepe
2/10

1幕:九城・1964

 一九六四年五月三日。暦の上ではともかく、夜も深まると冷気が体の芯まで滲みこむようで、寒さはまだまだ厳しい。

 白石(しらいし)メノウは厚ぼったい着古しのコートの襟をかき集めて、息切れを繰り返す街灯の下に立っていた。腕に巻いた時計で時間を確かめる。

 もう午後十一時を回っていた。するとかれこれ三時間もここに立ち尽くしていることになる。

 やれやれと言うように溜息をついて、ポケットを漁る。小腹の空きを満たすものを期待したが、出てきたのは、欠片というのもおこがましい、乾パンの屑だけだった。

「さっき食べたもんな……」

 落胆もあらわに、ぼそりと呟いた声は、意外なほど若い。いや、幼いと言っていい。

 継ぎはぎの鳥打帽のひさしから覗く相貌も、まだ幼さをはっきりと残していた。まだ十五、六歳と言ったところだろう。大きな瞳は、闊達な性格を示すように、落ち着きなく周囲をうかがっている。

 そうした少女は、見渡す限りの情景に似合わない存在だった。

 一帯は戦後復興の象徴とされた新首都・九城の一部ではあっても、増改築の繰り返された末に老朽化の進む、低層の木造建築ばかりが目に付いた。

 それもそのはず、市の南部は建設ラッシュを見込んで地方から流入した労働者たちの街だった。急造に急造を重ねて、そうした出稼ぎ労働者の住居を整えたものの、流入する労働力は、当局の予想をはるかに上回り、結果として無秩序なバラックが急増と融合を繰り返して奇妙な景観の街を生み出していた。

 戦後(・・)に最大の賑わいを見せたのは、おそらく、新首都圏構想の中心として建設された九城市北部ではなく、この低所得層のバラック群だった。

 さりとて、今なおかつての活況を呈しているかと言えば、その勢いは見るも無残に失速していた。

 開発計画が財政難によって縮小を余儀なくされ、雇用口を失った労働者たちは、糊口をしのぐことさえできない事態に愕然とした。

 貧困を背景とした、疾病や犯罪が多発し、南部区画のインフラの脆弱さがそれに拍車をかけている。

 路地の奥ではどんな犯罪が起こっているか分かったものではなく、メノウのような年頃の少女が一人でうろつけるような場所ではない。

 とはいえ、彼女よりも幼いような少女たちでさえ、犯罪や売春に手を染めているのが、この一帯の現状であって、それを考えれば、メノウの存在自体は奇異なものでもなかった。

 しかし、メノウが手を染めているのは、売春でもなければ、犯罪でもない。むしろ、その対極に位置する仕事をしている。

 特定の犯罪者の補殺と引き換えに、報奨金を得るという、俗称で請負人などと呼ばれる仕事だ。これはこれで年頃の少女がやるような仕事ではなかったが、彼女自身は相応の実績による自信と自負を持っていた。

 今も、三ヶ月に亘って追いかけている犯人のねぐらに張り込んでいるところだ。

 目当ての部屋は、今にも崩れそうなアパートの二階にある。ようよう場所を探り当てたのが一週間前で、慎重に犯人の行動を調査して、いよいよ捕獲に向かおうという段階だった。

 できる限り穏便に事を進めるために、寝入りを襲うのを定石としていたが、勘のいい奴はそれを察知して逃げたり反撃したりしてくることもある。その勘は逃亡歴に比例するもののようで、定式に当てはめるなら、今回の犯人もかなり勘が良さそうだった。

 大隅健吾――繰り返し手配書を見て覚えた知識を、メノウは頭の中で反芻する。十三年前に初犯の空き巣で逮捕されていたが、その後の逮捕歴はない。確定で七件の犯罪を実行ないし加担。推定で十件以上の犯罪に関与しているものと思われる。

 よくもまあ、これだけやって捕まらなかったものだと思うのだが、切れ者でもあるのだろう。同時に、政府の治安維持能力が下がり続けているという実態もある。

 結局、戦後(・・)日本の実情とは、極度に疲弊した社会である。熟練の技術者や労働者を欠いた、脆弱な工業基盤もさることながら、内戦(・・)の影響で食料の自給率は史上最低水準で推移している。まともに経済活動が機能するはずもなく、インフレーションが表面化したときには、これに全面的な対処ができるだけの余力は、政府には残されていなかった。

 治安維持活動に対しても、財政難から十分な予算と人員を充てることができず、一方では貧窮から犯罪に走る者が後を絶たない。

 やれやれ、とメノウは思うのだが、そのおかげで、自分は賞金首に困ることはない。あまり良い構図ではないのだが、メノウは深く考えたりはしなかった。

 自分がその中で生き残ることだけを考えている。それがいいとか悪いとかいう次元の話ではなく、今はそうする必要があるというだけだ。

 一つ年上の少年とコンビを組んでいるのも、それが生き残るために必要だと思ったからだ。相手もそう思っているだろう。

 大隅は、まだ部屋には帰ってきていなかった。

 二人で調査してきたといっても、できることは限られていて、完璧というにはほど遠い。大隅のライフサイクルも、おおよその当てがついたという程度で、それを検証しつつ、場合によっては行動に移るというのが、現状だった。

 張り込みを始めてから三時間ということは、予測精度が低いということだ。まだ調査に穴がある可能性が高い。つまり、今夜はまた調査で終わる可能性が高い。

 相棒はなにを考えて、この退屈な時間を過ごしているのだろうと考える。アパートの裏手には、相棒が潜んで見張りを続けているはずだった。

 生真面目な少年だ。むっつり黙りこんで、余分なことは何一つ考えたりしないのだろう。光景を想像して、メノウはうんざりした。

 その間隙をつくようにして、アパートの錆びついた鉄階段を踏む足音が聞こえた。反射的に首をめぐらせる。階段を昇る背中は、この一週間で見慣れた――大隅だった。

 しまった、そう思う間もなく、メノウは大きくリアクションしたことを後悔した。なにか感じたのか、大隅がこちらを見ていた。

「…………ッ!」

 勘が良い、と言うべきなのか。それとも経験のゆえか。大隅は一瞬の間をおいて、咄嗟に階段を駆け上がりはじめる。

「気付かれた!」

 低く唸ってから、メノウは街灯の影を飛び出していた。なにも考えてはいないし、そんな余裕もなかった。

 大隅の後を追って、階段を駆け上がる。

 目的の部屋のドアに手をかけて、鍵がかけられていることが分かると、ためらうことなく肩口をドアにぶつけた。

 薄いベニヤの板がたわみ、錠より先に錆びついた蝶つがいがはじけて、扉は難なく破れた。

 そのままの勢いで、転がり込むように室内に飛び込んだメノウは、暗い室内をざっと見渡して、狭い四畳半の部屋にある、ひとつきりの窓に目を留めた。

 カーテンと呼んでいいのか、窓にかけられた小汚い布が、冷たい夜風に揺れている。

 窓から外へ飛び降りたのか。異変に気づいた相棒は、逃亡の阻止に動いているはずだが、一人では危険だ。加勢に――そこまで考えた瞬間に、首筋に寒気が走った。

 感覚から一瞬遅れて、メノウは背後から伸びてきた腕に、首を締めあげられていた。

「ぐっ……なんで?」

 咄嗟に右腕を差し込んで、締め上げてくる腕から動脈を守るのが精いっぱいだったが、それでさえ驚くべき反射神経だった。

「上だよ」

 メノウを逃がすまいと太い腕に力を込めながら、答えた男は、確かに大隅健吾だった。

 土間の上の狭い空間に、手足を突っ張って体を支えていたのだろう。開けられた窓は罠で、メノウはそれに引っ掛かって頭上の大隅に気付かなかった。

 傍目には滑稽でも、演じている当人たちからすれば、真剣勝負だ。大隅も、相手が子供らしいと油断したりはしない。

 大きく舌打ちして、大隅の右手が自分の腰をまさぐった。引っ張り出してきたのは、黒光りする拳銃だった。

「追っかけてきた嬢ちゃんが悪いんだぜ。恨んでくれるなよ」

 そう言ったところを見ると、この男にも幾ばくかの良心はあるらしかった。だが、銃口をこめかみに向けられたメノウからすれば、慰めになるものでもない。

 メノウが左腕を振り下ろし、大隅の腹に叩きつける。それを最後の抵抗と見ていた大隅の目が、突如として痛みに歪んだ。

 拘束していた腕が緩む。メノウは素早くそれを振りほどいて退避すると、荒い息をつく。

「てめえ……」

 うなった大隅は、灼熱感に似た痛みを感じる腹部に、五寸釘かなにか――いや、棒手裏剣が突き刺さっているのを見た。

「油断大敵って、ね」

 メノウがコートの袖に隠れた左腕のリストバンドから、次の手裏剣を取り出すのを見て、男は唾を吐き捨てた。

「やっぱ、素人じゃねえとは思ったんだがな」

 低くうなりながら、痛みに顔をしかめて、銃口をメノウに向ける。彼女もまた、手裏剣を構えたが、どう考えてもこの対決は分が悪い。

 六連発リボルバーの撃鉄を引き上げながら、大隅は自分が状況の主導権を握っていることを確認する。向こうは下手に手裏剣を投げては、銃で撃たれる。一方、こちらは好きなタイミングで発砲できる。反撃はあっても、致命的な怪我をすることはないだろう。

 メノウもそれが分かっているから、能動的に動けなかった。なんとか、大隅の呼吸を見極めるしかない。ただ、メノウは荒事に多少は慣れていても武術家ではないから、それにしたって、分の悪い博打に違いないのだが。

 だが……撃鉄を引き上げた大隅が、トリガーを引かずにいるのは、どうにか銃を使わずに追跡者を始末したいと考えているからだ。最前も銃を使うつもりはなく、腕をずらして動脈を締め上げる腹積もりだった。

 犯罪の横行する南部と言っても、銃声が響けば、周囲の耳目が集まる。犯罪を繰り返してきた大隅にすれば、そうした野次馬に目撃されるのは面白くない。警察は間抜けだが、アンダーグラウンドの情報屋は抜け目がない。

 近づいて、ねじ伏せてしまえば、どうとでもなる。拘束した際の抵抗力を思い出して、大隅はそう判断した。拳銃の狙いをつけたまま、一歩を踏み出す。

 メノウは後退しない。距離が縮まるのは、銃を持たない彼女にすれば、都合のいいことだ。なるほど、と大隅は納得した。追い詰められてからは、冷静だし、度胸もある。

 やっぱり、可哀そうだがここで始末するしかないな。もう一歩を踏み出そうとしたその時、背後でなにかが動いたように思った。

 鈍い衝撃が肩に走る。なんだ? あまりに唐突な出来事に、大隅はなにが起こったのか理解できない。構えていた銃が、視界から消えていた。銃を取り落とすような衝撃ではなかったはずだが……?

 乾いた音が弾ける。床に落ちた拳銃の撃鉄が、衝撃によって落ちたのだ。でたらめな方向へ発射された銃弾が、壁に小さな穴を開けた。

 水音が聞こえる。雨でも降り出したのか。しかし、そういった類の音ではないように思える。

「抵抗するな」

 呼吸の聞き取れそうな至近、背後から聞き覚えのない声。低く抑えられているが、それは声変わりをしたばかりの、若い声だ。

 仲間がいたのか。くそ――内心で悪態をついた大隅は、振り向きざまに右腕を叩きつけようとして、ようやく異常に気付いた。

 あるべき右腕が、そこにはない。

 戦慄の走る瞳が、右往左往した末に、床を見た。リボルバーを握ったまま、無造作に横たわる太い右腕があり、畳を叩く液体は、噴き出した大隅の血だった。

 顔から一気に血の気が引いた。ようやく熱さとも痛みともつかない何かが肩から脳へ駆け上がり、ふらついた男は膝を落とした。

「な……なんだ、こりゃ? なんだよ、ちくしょう!」

 ひざまずいた大隅の顔の横へ、薄暗い部屋の中でも鈍い光を放つ刃が突き付けられた。血を滴らせて、ぞっとする鋭さを見せるそれは、粗製のドスやサーベルではない。重ね厚く、緩やかな反りを見せる、本物の刀だった。

「抵抗しなければ、殺しはしない」

 少年の声が、重ねて言った。大隅の頭には、そんな警告は届かない。こいつがこの凶器を用いて右腕を落としたのだ。それだけが、大隅の頭に理解できるすべてだった。

 状況の推移を見守っていたメノウが、大隅がポケットから小さなアンプルを取り出すのを見た。背後の相棒、久瀬(くぜ)直行(なおゆき)は、それに気付いていない。

「ナオ!」メノウが鋭く叫んだ。「エリキシル(・・・・・)を持ってる!」

 一瞬、怪訝な表情を浮かべて直行は、ようやく大隅が握ったアンプルに気づいた。状況を理解するとともに、小さく舌打ちした。が、余裕を保てたのもそれまでで、大隅がアンプルを噛み砕いて飲み下すという荒技に出ると、後ろへ飛んで戸の外へ身を隠した。

「ぶっ殺してやるぞ、ちくしょうが!」

 突如として、部屋のあちこちが炎をあげた。凄まじい熱量に、冷え切っていた肌が一気に汗を噴き出す。

 炎に取り囲まれる形で部屋に取り残されたメノウは、まばゆい光彩に目を細めた。どうすべきか。そう考えて、どうもこうも、取るべき行動はひとつしかありはしない。

 胸元から、青いクリスタルのペンダントを引っ張り出したメノウは、そのチェーンを引きちぎって、クリスタルを手に握りこむ。

 炎が躍った。部屋全体の温度が上昇している。まるで部屋全体にガソリンでもぶちまけたように、あちこちから新たな火が噴き出し、もう手の施しようがない。

 その中を、少女は大隅に駆け寄り、クリスタルを握りこんだ拳を思い切り、男の胸板に叩きつける。その拳は男の巨体をどうこうできるほど、強力なものには見えなかった。

 だが、拳が触れた瞬間、その拳が内側から青白く発光したように見えた。と、同時に、大隅の巨躯が、跳ねるように身をのけぞらせた。喉から、声にならない叫びがほとばしり、大きく後ろに倒れこむ。

「うまくやれた……?」

 半信半疑といった口調で、メノウは倒れた男の体が痙攣を繰り返すさまを見下ろし、外にいる相棒を呼んだ。

「こいつ、お願い。気絶させただけだと思う(・・・・)から」

「おまえは?」

「ここをなんとかする!」

 燃え盛る室内を指さして、さっさと大隅を外に引っ張り出すように催促する。直行はまた舌打ちをして、大隅の体を重そうに引きずり始めるが、そんなことは気にしていられない。

 メノウは室内に向き直ると、両手でクリスタルを握りしめた。



 霊子、あるいはエーテルと呼ばれる粒子が、大気に満ちている。その霊子は、高いエネルギーを含有し、局所的に集積することで、大規模な現象を引き起こす。

 現在、霊子力学と呼称される理論の骨子である。化石燃料に代わる、次世代のエネルギーと期待されたそれは、すでに実用化されてはいた。

 だが、霊子機関と呼ばれるそれらの実態は、霊子の集積によるエネルギーの暴走を取り出しているというだけに過ぎず、制御というにはほど遠い。

 霊子のエネルギー制御が困難な要因は、結局のところ、実際には霊子そのものが観測できていないことに、求められる。

 では、霊子さえ観測しうるならば、その制御は可能となるのではないか。

 そうした論法によって、試行錯誤の末にひとつの薬品が日本で完成する。感覚補助剤、通称をエリキシルという。

 エリキシルは、人間の感覚器官を加速し、増幅させる。人によっては、第六感とも霊感と表現する――すなわち、人間が本来的に感じることのない感覚の果てに、霊子の存在を把握する。

 霊子を感覚できたならば、後は簡単だ。元より高いエネルギーを持つ霊子の分布を、ほんの少し置き換えるだけで、望む形でエネルギーを放出させることができる。水面に石を投げ込むように、広がった波紋が連鎖反応を促進させ、普通の人間が感覚するレベルでの現象を引き起こす。

 大隅がエリキシルを用いて引き起こした火災も、ごく単純な作用にすぎない。マッチで火をつけるよりも造作ない作業だったが、結果はボヤでは済まない火災になっている。

 政府がエリキシルの所持と使用に対して、徹底的な厳罰をもって臨む、これが理由だった。

 そして、その脅威に対応する形で、霊子力犯罪者とカテゴリされる彼らを専門に取り締まる、霊子力犯罪捜査局――通称、霊捜局が開設された。

「まったく、手筈とぜんぜん違うじゃないか」

 ぼやいた直行は、大隅の止血処理を手早くこなす。主要な血管の場所を把握してさえいれば、傷が派手でも難しいことではない。止血を確認したうえで、用意してあった縄で大隅を縛りあげる。

 処置を終えて、相棒の背中を見上げると、青白い燐光が炎の光の中でも、はっきりと見て取れた。霊子への干渉の余波が、光となって現われているのだ。

 メノウはエリキシルを使わない。どうやって霊子制御を行っているのかは、直行も聞いてはいないが、あのペンダントがその正体なのだろうと、見抜いてはいる。

 霊子制御の不法な行使には違いないのだが、実際にはそれを検挙することなどできない。エリキシル以外によって、人が直接的に霊子を制御することなど、学術的にも実証不可能だからだ。

 だが、その青白い燐光を見るとき、直行はそうした瑣末な事柄は忘れた。美しく揺らめく光に満ちた光景は、この世のものとは思われず、さりとて、天上とも地獄ともつかない。

 なにより、その光をまとって、特別な力を行使しうる少女こそ、人ならざる者のごとく見えるのだ。

 ぶるりと身震いしたのは、その不気味さゆえではなく、実際に震えるほどに寒いからだ。指向してはいるのだろうが、メノウが火災を鎮めるために、一帯から熱量を奪っていた。

 どうやっているのか、エリキシルを使ったこともない直行には、想像もつかない。本人に尋ねたところで、無駄だ。人の言語は、人がその感覚を示すための言葉でできているのであって、五感を超えた先の感覚を表す言葉などは存在しない。存在するとすれば、それは哲学や宗教用語になってしまい、たちまち実体を喪失する。

 青い燐光が光を増すごとに、炎の色彩は減退していく。

 霊子がどうこうというのは、ちょっと説明できないけど――メノウはそう言った。必要なのは自分がどうしたいのか、それだけ。

 魔法か、でなければ神通力にしか思えない。それが現代科学の領域なのだと言われれば、それは怪しいと直行は感じてしまう。

 人間の能力の限界を超えた、このような力は、どう考えてもおかしいのだ。

 炎が完全に消え去ると共に、メノウの周囲に舞っていた青い光も失われていく。それが完全に消えると、少女は崩れるように、その場にへたり込んだ。

「だいじょうぶか?」

「……なんとかね」

 荒い息の合間から、メノウが答える。精神的な疲労が、肉体にも及んでいる。顎から滴り落ちた汗は、炎の熱のためばかりではない。

 エリキシルの使用者は、個人差はあれど、常用すればまず精神に異常をきたす。本来は備わっていない感覚野を与えられ、他の感覚も異常に加速される。その負荷が精神を蝕むのだ。

 メノウにしても、そうした危険があるのではないかと直行は疑っているのだが、はっきりとはしない。精神障害がエリキシルじたいの副作用なのか、それとも第六感とも霊感とも呼ばれる感覚野の取得が精神を蝕むのかは、データがないから分からない。

 だが、それが必要な力であるのなら、不確実な危険を理由に封印することはない。メノウも直行も、そのように判断してはいたが、その現実的な判断が正しいかどうかには、確証はないのだ。

「……少し休んでろ。警察を呼んでくる」

「そうする。……っていうか、動けって言われても無理ね」

 疲弊しきった顔で応じたメノウの双眸が、ほのかに青白く輝いたような気がした。ぞっとして見直した直行だが、しかし、月明かりに照らされた黒い瞳を認めただけだった。



 かつての陽性の活気は影をひそめ、湿り気を帯びた暗い熱気が息づく街。

 継ぎ足されたベランダのような小部屋が、街路の頭上を梢のように折り重なってふさいでおり、昼なお暗く、ろくに区画整理されなかった路地は迷路のように入り組んでいる。

 その中を、メノウと直行は帰路についていた。

「なんとか、なりはしたが……」

 賞金の交換手形をポケットにしまいこんで、直行は相方を睨みつける。

「どうして、捕り物になってたんだ?」

「あー、あいつ、異常に勘が良くてね。逃げようとしたから追いかけたら、さ?」

「……まったく、本当ならもっと簡単に捕縛できてたはずなのに、危ない橋を渡る羽目になっちまった。事前調査もぜんぶ無駄だよ。力技で踏み込むだけなら、いつでもできたんだ」

「いまさら、ぶつぶつ言わないでよ。だいたい、ナオが腕を斬ったりするから、あんな大事になったんじゃない」

 確かにそれはそうなのだろう。大隅がエリキシルを使うほどに追いつめてしまったのは、直行の一撃が素人剣法ではなかったからだ。

「おかげで、疲れてるのに事情聴取なんかされてさ」

 メノウが不満顔で付け加える。

「これはまた、派手にやったもんだ」

 呆れたような口調で、直行に呼ばれてきた巡査は二人に言ったものだ。警察が犯人の身柄を確保して、あとは賞金の手形を渡されるのが、通常のやり取りだ。が、周辺に被害が出ているとなると、話は別だった。

 二人とも公安が発行する『特別治安維持協力認可証』を所持していて、霊子力犯罪者の補殺権限を政府から与えられている。ただし、それも嘱託の身であって、公安の正規職員ではない。

 霊子力犯罪者以外への殺傷や器物破損には、一般人同様に自己防衛でないかぎりは通常の刑罰が科せられる。

 今回も大隅が火を点けたのでなければ、放火犯として逮捕されるところだった。

「そうかよ。眉間を撃ち抜かれても、生きてられるか、試すつもりだったのか? あんな状況じゃ、腕ごと斬り落とすしかないだろ」

 責任を転嫁されて、直行がイライラと答える。そうした様子は、年頃の少年そのものなのだが、人の腕を平然と叩き斬るという判断も、その技量も、並の少年ではなかった。

 言い返すのも億劫だし、口論で勝てる気もしないので、それきりメノウは黙り込んだ。すると、直行もわざわざ自分から話題を振るような性格でもないので、そのまま会話もなく通りを歩き続けた。

 計画は慎重で緻密なわりに、判断は現実的で容赦がない。メノウとしてはとにかく苦手なタイプなのだが、それだけに仕事の相棒としては重宝する。自分に足りない部分を補ってこそのコンビなのだ。

 もっとも、若すぎて他の候補がいなかったというのも実情で、直行がこの大雑把すぎるきらいのある相棒に我慢しているのも、そのせいだった。

 まあ、腕は悪くないと、少しひねくれた感のある評価もしないではないのだが、欠点がそれを凌駕して余りあるようにも思えた。

「三日以内には、次の仕事について連絡を入れる。賞金の分け前は明日中には振り込むから、確認しとけよ」

 駅前で別れる前に、直行が予定を告げる。なにかと細かいだけに、そうした実務は性に合うのだろう。メノウはそれらを彼に任せきりにしていた。振り込まれた金額を確認することもない。生活に困らなければそれでいい、という丼勘定でしか考えていないだけに、確かに几帳面で実直な直行は、重宝する相棒だった。



 疲弊した社会といえども、さすがは首都というべきか。市民の足である、九城市中央環状線は、深夜まで営業を続けている。

 終電も近い電車には、ほとんど人の姿はない。メノウが乗った車両には、酔いつぶれて眠り込んでいる男が乗っているだけだった。

 車窓から外を眺めると、透明度の低いガラスの向こうに、くすんだ輝きが広がっていた。眠らない街は、夜が明けるまで、人工の灯を消すことはない。

 貿易が途絶え、燃料は石炭と人工石油に頼っている今、街の明かりや電車の運行を支えるのは、九城市近郊の地下にある、霊子力発電所だった。

 帝都にあった一号炉と同型の超大型霊子機関は、新首都圏構想の先駆けとして、真っ先にその建造が行われていた。もっとも、その一号炉は終戦直前に帝都とともに消失(・・)しており、モデルに用いたのは、大阪の二号炉だったが。

 ともかく、この街で生きていくには、何から何まで霊子制御と無縁ではいられない。

 三つ目の駅で降りて、大通りをしばらく歩く。そこから少し外れると、メノウが部屋を借りているバー『シャンソン』に辿り着いた。

 目立たない、小さな看板だけを出したバーは、なじみの客だけが立ち寄るような、小ぢんまりとした店だ。扉を開けると、ちりんと、吊るされたベルが涼やかに鳴った。

「おかえり、メノウ」

 暖かい笑顔で迎えてくれるのが、バーの店主であり、メノウにとっては家主の香田(こうだ)だった。三十路に入ったばかりで、髪をオールバックに撫でつけ、口元にちょっとだけ髭をたくわえている。一貫して紳士的なマスターは、しかし、恵まれすぎた体格のせいで、第一印象はまったくの逆に感じられる男だった。

「どうしたんだい、コート?」

 血糊と、わずかについた焦げ跡に目ざとく気付いて、香田が尋ねたが、メノウは曖昧に笑ってごまかした。

「ああ、うん。ちょっと予定外のことがあったから。今日は秋島さん、来てないんだ?」

「いいや。いらしてたんだけど、急にお仕事が入ったそうで、ついさっき、お帰りになったよ」

「ふうん。こんな時間まで仕事だなんて、大変だね」

「そうだね。もっとも、メノウが言うことじゃないと思うけど。いい加減、危険な仕事はやめて、ここで働いてもらいたいな。人手が足りないんだ」

「ああ、うん。考えとく。疲れたから、もう寝るね」

 いつものやりとりだ。香田の言葉が好意からなのだから、メノウは困った表情でその場しのぎの返答をするしかなかった。

 請負人という仕事に対して、メノウに不満はない。稼ぎはいいので、満足していると言っていい。しかし、その稼ぎに付きまとう危険が、香田には不満なのだから、話はいつも平行線を辿るだけだった。

 逃げるように店内を突っ切って、メノウはさっさと自室に戻った。



 目の前には血の海が広がっている。

 陳腐な表現だが、実際にそうした光景を目にすれば、それ以上の言葉は思いつかない。では、床を染める血が海だとすれば、倒れた体は大陸で、切断されて散らばった四肢は島だろうか。

 九城でも屈指の高級料亭は、いま血の臭いでむせ返りそうなほどだった。

 殺害されたのは、九城市市長の飯田(いいだ)重三(じゅうぞう)と、この料亭に居合わせた者すべて。暗殺という言葉もバカらしいほど、堂々たる殺戮劇だった。

「これは酷いな……」

 ハンカチで口元を抑えながら、秋島(あきしま)鳴津奈(なづな)は呟いた。仕事を終えて、自由な時間を『シャンソン』で過ごしていたところへ、店に電話があり、緊急の呼び出しを伝えた。職務上、常に居場所は知らせている。だから、なにかあるとすぐに呼び出しがかかる。いつものことだが、しかし、さすがに自分が現場へ向かうことになるとは、思いもしなかった。

 まだ血は乾ききっておらず、なんらかの証拠が残っていないかと、捜査員たちが細部にまで目を光らせている。

 血を踏まないように気を付けながら、一人の男がこちらへ向かってきた。

「公安霊捜局の、秋島局長ですか?」

「そうだが、貴官は?」

 陸軍の制服を着た壮年の男は、火を点けていない煙草をくわえて、整えられていない髪を軍帽の中に押し込んでいる。はだけた襟元にもだらしなさが見えた。

 そうした外見とは関係なく、秋島がいやな予感を覚えたのは、男の腕章が憲兵隊を示していたからだ。

「失敬。自分は陸軍憲兵少佐、高原(たかはら)(あつし)といいます。今回、そちらさんと合同調査するように命じられたチームの、まあ責任者ですな」

 気をつけているようだが、口調には関西圏特有のイントネーションがあった。最近になって九城に来たのか。が、それよりも秋島の気を引いたのは、

「憲兵が調査を?」

 という、その一事だった。軍事か反体制活動に関係しない限り、憲兵隊の名が聞かれる事は、まずもってない。軍閥政治の側面があるため、管轄は不明瞭ながら、それでも棲み分けをしてきたのが、公安庁と憲兵隊であるはずだった。

 すると、高原少佐は少し眉根をひそめ、ついでに声を落として、

「はあ、実は、殺害された飯田市長の護衛をしとったんは、憲兵(ウチ)なんです。身内も()られとりますし、市長も守れんかった、ではメンツの問題もあるもんで……秋島大佐からすると邪魔かもしれんのですが、ひとつ堪えたってください」

 弱りきった表情で暴露話をする。とぼけた表情には、そうした行動が良く似合ったが、だからと言って、無能だというわけではないだろう。

 三十代前半と見える男は、少佐なのだ。彼よりもさらに若く、そして高い地位にあるからこそ、秋島は一応の警戒心を見せた。それなりの野心があり、加えて、相応の実力を持っていなければ、このような位階に身を置くことはない。

「その辞令は正式に頂けるものなのか?」

 話が通じたと思ったのか、答える高原はご機嫌だった。

「ああ、そりゃもう。こんな時間なんで、今すぐは無理でしょうがね、上の方から、明日にも届くはずです」

「分かった。ただ、合同というのが気に入らないな。指揮系統が不明瞭だ。障害になるかもしれない」

 そう言いながら、耳元をかざるイヤリングをいじった。不満のある事に接する時の、秋島の癖だった。

「それは自分に言われても困りますなぁ。自分は命令を受けて、ここに遣されただけですから」

「その話は後日にでも。私もここに着いたばかりで、状況が掴めていない。失礼する」

 実りのなさそうな会話を切り上げて、秋島は部下を呼びつけながら部屋を後にする。その後姿を見送りながら、高原はひとつ息を吐いて、緩んだ襟元をさらにくつろげた。

「やれやれ、ええ(・・)女なんやけどなァ。さすが、女だてらに霊捜局の局長しとらんわ。えらい怖いサンやな」

 感想を述べた表情は、ほっとした、というようだったが、一方で帽子のつばで隠れがちな目は、どこか楽しむようで、好戦的ですらあった。

 それから意識を周囲に向けて、どう見ても慣れない仕事に右往左往する憲兵たちに、こめかみを押さえた。

「こら、あかんわ。邪魔しとるだけとちゃうんか? まったく……上の連中は気楽なもんやで。縄張り争いも、そりゃそれでええんやけどな」

 まったく宮仕えはかなわんなあ、と小さく呟いて、高原もその場を後にした。

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