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Episode.05 小鳥遊妙子 過去編② ★

私が、私を「一人の人間」として見ることを放棄してから、どれくらいの時間が経っただろう。



——高校一年生、初夏。



窓の外では、鬱陶しいまでの生命力を孕んだ新緑が、眩い陽光を反射して輝いている。


けれど、私——小鳥遊妙子が身を置く教室という名の檻には、そんな鮮やかな色彩は一滴も届かない。


「ねえ、小鳥遊さん。そのカーディガン、暑くない? もっと薄着すればいいのに。……せっかくの『宝物』がもったいないよ」


昼休み、隣の席の男子が、ニヤニヤとした下卑た笑みを浮かべて話しかけてくる。


彼の視線は、私の目ではなく、机に押し当てられて不自然に形を変えた胸の膨らみに、ねっとりと張り付いている。


私は、胃の奥からせり上がる不快感を無理やり飲み込み、顔に「いつもの笑顔」を貼り付けた。


「あはは、私、冷え性なんだよねー。脂肪が多いと冷えやすいって言うし」


——自虐。


それは、私が自分を守るために編み出した、最も惨めで、最も確実な防衛術だった。


自分から「脂肪の塊」であることを認めてしまえば、これ以上、言葉の刃で切り刻まれることはない。


そう信じて、私は毎日、自分の心を少しずつ削り取って、周囲に差し出していた。


……痛い。……誰か、助けて。


心の中の悲鳴は、誰の耳にも届かない。


京ちゃん……相澤京くんに「肉団子」と切り捨てられてから、私にとっての「救い」は、この世から消滅した。


私を見る彼の瞳には、かつての温かさは微塵もなく、ただ「関わりたくないもの」を見るような、冷淡な距離感だけが横たわっている。


私は、逃げるように教室を飛び出した。


向かう先は、誰もいない、静寂だけが許された場所——。


図書室の奥、一番端にある、古い百科事典が並んだ棚の影。


そこは、埃のダンスと、古い紙の匂いだけが支配する、私の「避難所」だった。


けれど、その日は先客がいた。


「……あ」


窓際の一角。


春の淡い陽光を背負って、一人の少女が座っていた。


彼女は、周囲の喧騒を一切遮断したかのような、圧倒的な「沈黙」を身に纏っている。


膝の上に置かれた古い文庫本——中原中也の詩集。


それをなぞる彼女の指先は、白磁のように白く、透き通るほどに繊細だった。


彼女の名前は、詞條詩織。


同じクラスの、一度も声を聞いたことがない、一匹狼の女の子。


……綺麗。……私とは、正反対だ。


彼女には、私のような「余計な肉」なんて、どこにもない。


凛とした、それでいて今にも消えてしまいそうな、完成された静謐。


私は、自分の存在が、彼女の聖域を汚してしまうような気がして、思わず足を止め、背中を丸めた。


けれど、彼女がふと顔を上げた。


潤んだ硝子玉のような、澄み渡った瞳。


そこには、私を品定めするような色も、蔑むような光も、何一つなかった。


ただ、迷子のような、震えるような「戸惑い」だけが、そこにあった。


「……あ、……その、本……」


気づけば、私は声をかけていた。


自分でも驚くほど、震えた声だった。


彼女の肩が、びくりと跳ねる。


彼女は、逃げ場を失った小動物のような仕草で、慌てて視線を落とした。


「……面白い、かな。それ。……私も、昔、少しだけ読んだことがあって」


——沈黙。


空気の振動さえ止まったような、長い、長い時間。


彼女は、震える手で鞄の中から一台のガラケーを取り出した。


そして、狂ったような速度で、プラスチックのボタンを叩き始める。


カチカチ、カチカチ。


乾いた音が、静かな図書室に響く。


やがて、彼女は顔を真っ赤にしながら、液晶画面を私の方へと向けた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

汚れつちまつた悲しみに。

私は、この言葉に、命を救われています。

貴方も、この『重み』が、わかるのですか?

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


画面に映し出された、痛いくらいに剥き出しの言葉。


私は、息を呑んだ。


彼女もまた、この世界で、何かに押し潰されそうになりながら、必死に「言葉」という名の浮き輪を掴んでいる。


その事実が、私の冷え切った心の深層に、温かな波紋を広げていった。


「……重み。……うん。わかるよ。……私、本当は、こんなに笑ってたくないんだ」


ポロリと、本音が零れた。


学校で「巨乳の小鳥遊」としてピエロを演じている私ではない。


家で、母さんの排泄物を処理し、将来への絶望を噛み殺している私でもない。


ただの、十七歳の、傷だらけの私が、そこにいた。


詩織ちゃんは、私の目を見つめた。


そして、もう一度、カチカチと文字を綴る。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

小鳥遊さんは、

笑っている時よりも、

今の方が、

ずっと、綺麗です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


その瞬間、私の頬を、熱い雫が伝った。


誰にも見てもらえなかった「中身」を。


この醜い肉の檻の中に閉じ込められて、誰にも触れられずに死んでいくと思っていた私の「魂」を。


この子は、今、見つけてくれた。


「……ありがとう。……ねえ、詩織ちゃん。……私と友達に、なってくれない?」


彼女は、驚いたように目を見開き、それから、耳朶まで真っ赤に染めて、何度も、何度も、小さく頷いた。


それからの放課後は、私たち二人だけの「聖域」になった。


図書室の隅、あるいは誰も来ない古い中庭。


私たちは、ほとんど言葉を交わさなかった。


詩織ちゃんはガラケーを、私は彼女の横で、彼女が貸してくれた詩集を。


文字という名の雫を、お互いの心の器に一滴ずつ注ぎ合うような、静かな、けれど濃密な時間。


「ねえ、詩織ちゃん。この詩、すごく切ないね」


私がページを指差すと、彼女は嬉しそうに目を細め、画面を光らせる。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

それは、魂の断片が、雫となって零れ落ちる音です。

妙子ちゃんの声も、私には、そんな風に、聞こえます。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「私の声が? ……あはは、そんなに綺麗じゃないよ。私なんて、ただの『肉団子』なんだから」


冗談めかして言った言葉。


けれど、詩織ちゃんは、今までに見たことがないほど、悲しそうな顔をした。


彼女は、激しい勢いでボタンを連打する。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

そんなこと、言わないで。

妙子ちゃんは、綺麗でかっこいいですし、私の神様です。

暗い海の底から、私を見つけてくれた、唯一の光なんです。

身体なんて、ただの器です。

私は、貴方のその、震えながらも、なお戦おうとする気高い心が、『大好き』です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


心臓が、大きく跳ねた。



――大好き。



京ちゃんにさえ言ってもらえなかった、外面ではない、私の中身への肯定。


詩織ちゃんの言葉は、私を性的な対象として消費しようとする世界からの「盾」になってくれた。


詩織ちゃんと一緒にいる時だけ、私は「女」であることを忘れられた。


胸の重みも、腰の曲線も、周囲の卑猥な視線も。


すべてが、彼女の紡ぐ静謐な言葉の海に溶けて、消えていく。


「詩織ちゃん。……私、詩織ちゃんと出会えて、本当によかった」


私が彼女の細い手を握ると、彼女は壊れ物を扱うような慎重さで、私の手を握り返してくれた。


私の手は、介護と水仕事で荒れて、ひび割れている。


それでも、彼女は「汚い」なんて言わなかった。


むしろ、その荒れた指先を愛おしそうになぞり、画面に一言だけ、綴った。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

戦友、ですね。私たち。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


戦友。


そう、私たちは戦っていた。


この、残酷で、下劣で、声の大きい人間ばかりが勝つ世界。


私たちは、お互いの沈黙と、お互いの孤独を、唯一の武器にして、背中合わせで戦っていた。



けれど、季節が移ろい、秋の気配が濃くなるにつれ。


私たちの聖域の外側では、不穏な影が確実に濃くなっていた。


「ねえ、小鳥遊さん。最近、あの『無口な子』とばっかりいるよね。……類は友を呼ぶってやつ? 『牛』と『幽霊』のコンビじゃん、ウケるんだけど」


廊下ですれ違いざまに、女子グループが吐き捨てた言葉。


私は、いつものように笑顔で聞き流そうとした。


けれど、隣にいた詩織ちゃんの肩が、激しく震えているのを見て、私の中で何かが、プツリと切れた。


「……今、なんて言ったの?」


私は、自分でも驚くほど低い声で、彼女たちの行く手を阻んだ。


笑顔の仮面が、内側から砕け落ちる音がした。


「え、……何よ。冗談じゃない、そんな怖い顔して——」


「私を『牛』って呼ぶのは勝手だよ。慣れてるから。……でも、詩織ちゃんを汚す言葉は、絶対に許さない。……次、言ったら、私……」


私の胸元が、激しい呼吸で大きく波打つ。


その「豊かさ」が、今は彼女を守るための「威嚇」の武器のように、力強く主張していた。


彼女たちは、私の迫力に圧され、舌打ちをしながら去っていった。


「……妙子、ちゃん……」


詩織ちゃんが、震える手で私の服の裾を掴んだ。


彼女は、顔を真っ赤にしながら、液晶画面を突き出す。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ありがとうございます。

でも、私のために、傷つかないで。

妙子ちゃんが、汚れちゃうのが、一番悲しい。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「いいんだよ、詩織ちゃん。……私はもう、十分に汚れてるから。……でも、詩織ちゃんだけは、私が守るから」



夕暮れの中庭。


私たちは、どちらからともなく抱き合った。


詩織ちゃんの細い体は、羽毛のように軽くて、けれど確かな温もりがあった。


私の大きな胸が、彼女の華奢な体を包み込む。


それは、性的な意味など微塵もない、ただの「魂の抱擁」だった。


……ああ。……寂しいな。


ふと、心の片隅で、誰にも言えない冷たい予感が過ぎった。


こんなに大切で、こんなに愛おしい詩織ちゃん。


けれど、私たちがどんなに寄り添っても、この地獄が消えるわけじゃない。


家に戻れば、相変わらずの絶望が待っている。


母さんの病状は悪化し、美枝はどんどん「年相応さ」を失っていく。


そして、京ちゃんとの距離は、もう、埋められないほどに遠い。


「……詩織ちゃん。もし、私が死にたくなるくらい壊れそうになったら、私と一緒に逃げ出してくれる?」


冗談めかした問いかけ。


詩織ちゃんは、私の胸に顔を埋めたまま、ただ、強く、強く頷いた。


その手の温もりだけが、私がこの地獄で「小鳥遊妙子」という名前を繋ぎ止めていられる、最後の、そして唯一の命綱だった。


木枯らしが吹き抜ける中庭で、私たちは、来るべき厳しい冬の予感に震えながら、ただ、お互いの存在を、痛いくらいに確かめ合っていた。



―――――あとがき―――――

今作をここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。

少しでも続きが気になった方は、モチベーションに繋がりますので、

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