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Episode.04 蓮見遥 過去編① ★

世界は、生まれた時から優しさに満ちていた。


蓮見遥という人間がこの世に産声を上げた瞬間、周囲の大人たちが期待したのは完璧な蓮見家の長女だった。


そして私は、その期待に、生後まもなくから寸分狂わずに答えていった。


物心がつく前の記憶は、鮮やかな色の断片でしかない。


けれど、その断片のどれもが、私にとっては「退屈な既読感」に移り変わっていく。



――三歳の冬。



初めてピアノの前に座らされた日のことを覚えている。


象牙色の鍵盤は、冬の陽光を浴びて冷たく光っていた。


ピアノ教師が、私の小さな手を包むようにして、簡単な童謡の一節を弾いて見せた。


「いい、遥さん。こうして、指を一本ずつ……」


教師の言葉が終わった後、その全てを私は理解していた。


音が空気を震わせ、鼓膜に届く。


その振動が脳内で並び替えられ、鍵盤の配置と一対一で対応する。


楽譜に目を通すと、すぐに記憶に刻まれる。


私が指を動かすと、教師が弾いたものと全く同じ音、全く同じ強弱、全く同じ「正解」が室内に響いた。


一音の狂いもない。


指の形も、脱力の仕方も、教えられた後に「最適解」を選んでいた。


「まあ! なんてこと!」


教師は絶句し、やがて歓喜に震えながら私の両手を握りしめた。


「神童だ」


「天才が現れた」


「蓮見家の誇りだ」


周囲の大人たちは、まるで奇跡でも目撃したかのように騒ぎ立て、私の頭を撫で、賞賛の言葉を雪のように降らせた。



――けれど、私は。



その熱狂の渦の中心で、ひどく冷めた、透明な孤独を感じていた。


どうして、みんなこんなに騒いでいるの?


不思議で仕方がなかった。


だって、見えた通りに、聴いた通りに、体を動かしただけだ。


そこに「努力」という摩擦も、「苦悩」という熱量も存在しない。


ただ、Aという入力に対してAという出力を返しただけ。


計算機が計算結果を示すのに、誰も賞賛なんて送らないはずなのに。


「素晴らしいわ、遥。あなたは本当にお母さんの自慢の子ね」


母の微笑みは美しかった。


けれど、その瞳に映っているのは「私」ではなく、自分が作り上げた「完璧な最高傑作」という完成品だった。


私は、母を喜ばせるために、次々と「正解」を積み上げていった。


バイオリンを手に取れば一週間でコンクール用の難曲を暗譜し、絵筆を握れば写真のような精密さで風景を写し取った。


勉強は、娯楽にさえならなかった。


教科書を一度捲れば、文字は映像としてほとんどが脳に刻まれ、試験用紙を埋める作業は、ただの「確認作業」でしかなかった。


小学校に入学する頃には、私の世界から「未知」という名の色彩はほとんど失われていた。


教室で教師が黒板に書く文字。


同級生たちが必死に解いている算数の問題。


そのすべてが、私にとっては「一度解いたことのあるパズル」だった。


私は、周囲の歩調に合わせるために、わざとゆっくりと鉛筆を動かした。


「わからない」という振りをすること。


それさえも、私は完璧にこなしてしまった。


「遥さんは、控えめで、聡明で、それでいて努力を惜しまない素晴らしいお子さんです」


通知表に並ぶ、代わり映えのしない絶賛の言葉。


私は、誰もいない放課後の音楽室で、一人でピアノを弾いた。


けれど、それは音楽を愛していたからではない。


自分の指が、思考を介さずに「正解」を叩き出し続けるその運命に、一種の諦めを感じていたからだ。


私の視界は、いつの間にか灰色に染まっていた。


空の青さや花のみずみずしさは、ただの現象として理解する。


何を見ても、驚きがない。


何を聞いても、震えることがない。


誰と話しても、その言葉の裏側にある「私への期待」と「私への羨望」という二つの思惑が透けて見えてしまい、会話はただの定型文に成り果てた。


世界は、琥珀の中に閉じ込められた標本のように、静止していた。


私はその中心で、一分一秒の狂いもなく「完璧な蓮見遥」を演じ続ける、孤独な少女。


「……ああ、退屈」


誰もいない図書室で、私は何度目かの読了を終えた難解な哲学書を閉じ、ぽつりと呟いた。


私の声は、静まり返った部屋に吸い込まれ、波紋一つ立てることはなかった。


私の心は、凍りついた湖のように平坦で、深い。


その底に、何か熱いものが沈んでいるのか、それとも空っぽなのかさえ、自分ではわからなかった。


そんな私の平穏という名の地獄に、最初の「亀裂」が入ったのは。


妹の秤が、私の背中を見つめ始めたあの日だった。



――蓮見秤。



私と同じ血が流れ、私と同じ蓮見の姓を冠した、私のたった一人の妹。


彼女は、私とは決定的に違っていた。


彼女は「人間」だった。


泥臭く、不器用で、一生懸命に手を伸ばし、そして届かないことに涙を流す、愛すべき「凡庸」な少女。


「姉さん、見て! 私、ピアノの練習、百回やったの!」


幼い秤が、小さな、絆創膏だらけの手を差し出して笑ったあの日。


私は、彼女の瞳の中に、私には決して持てない「熱」を見た。


数回やれば、どんなことでもできる私には、百回繰り返すことの苦しみも、喜びもわからない。


私は、その眩しさに目を細めながら、いつものように「完璧な姉」の仮面を被り、彼女の頭を優しく撫でた。


「ええ、偉いわね、秤。でもね、そこは、もう少し指を立てて弾いた方が、もっと綺麗な音が出るわよ」


良かれと思ってかけたその言葉。


それが、妹の心を切り裂く最初のナイフになったことに。


完璧な蓮見家の長女であった私は、まだ気づいていなかった。


私の視界には、依然として色は戻らない。


けれど、妹の視界は、私の完璧さを間近で目にしてきたことにより、徐々に濁り始めていたのだ。



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