Episode.01 闘う生徒会長①
―――――まえがき―――――
今作はカクヨムの方で110話ほど先行公開しております。
小説家になろう様のプロフィールにリンクがあるので、もし気になる方がいらっしゃればチェックしてみてください。
今作はカクヨムの日間・週間・月間の部門ランキング1位、総合は7位でした。
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――四月の第二週。
月曜日の朝、校舎を包む空気は、先週よりもわずかに湿度を増していた。
七ツ海の海から吹き上げる風は、湿り気のある春の予感を孕んでいる。
僕は二限目と三限目の間の短い休み時間、騒がしい教室を抜け出して中庭の自動販売機へと向かっていた。
手帳の中の「攻略メモ」は、第二週目に入ってから急速にその必要性を増していく。
僕が介入し、本来のシナリオを強引に捻じ曲げた結果、この世界のヒロインが目に見えて揺らぎ始めていた。
……さて、次は「あのイベント」をどう回避するか。
自販機の前。
小銭を投入口に入れようとしたその時、不自然なほどに整った、けれどどこか「必死さ」を隠しきれていない気配が、僕の左隣に滑り込んできた。
「……また会ったわね。相澤君」
振り返るまでもない。
蓮見遥。この学校の太陽であり、僕の「優先順位最下位」の先輩。
彼女は自販機に軽く背を預け、長い黒髪を指先で弄びながら、僕をじっと見つめていた。
先週の自爆のせいか、その頬には微かに朱が残り、完璧な生徒会長の仮面は、どこか脆いガラス細工のように危うく見えた。
「蓮見先輩。……また待ち伏せですか。上級生の方は、そんなに暇になったんですか?」
僕は小銭を投入し、炭酸飲料のボタンを押す。
ガコン、という重い音が響く。
彼女の反応は、僕の予想とは少し違っていた。
いつものように怒ったり、余裕たっぷりの「お姉さん」を演じたりするのではなく、彼女はひどく静かに、僕の目を覗き込んできた。
「……傷ついたわ。先週のキミの仕打ちには」
彼女の声は、湿り気を帯びていた。
「『最下位』なんて言われて、私の好意を『飲み損』なんて言葉で片付けられて。私、週末、ずっとキミのことばかり考えていたのよ。悔しくて、恥ずかしくて。でも、不思議ね。そんな風に誰かに心をかき乱されたのは、人生で初めてだったわ」
先輩の視界。
そこには、僕には見えない「景色」が広がっていることを、僕は知っている。
彼女は、生まれながらの天才だ。
ピアノを弾けば、一度聴いただけで旋律を完璧に再現し。
勉強をすれば、教科書を一度捲るだけで満点を取る。
スポーツも、芸術も、人間関係さえも。
彼女にとって、この世界は「二度目には必ず解けてしまう問題集」でしかなかった。
一度目は新鮮。二度目は退屈。三度目には、もう色彩を失う。
すべてが予定調和。
彼女が微笑めば、誰もが跪く。
彼女が願えば、世界は望み通りに形を変える。
その結果、彼女の世界からは徐々に「刺激」という名の色彩が消え、冷たい、無機質な白と黒の残滓だけが残されていった。
「……だから、責任をとって。相澤君」
彼女が一歩、距離を詰めた。
ふわりと、清楚な石鹸の香りが鼻腔を突く。
その瞳は、獲物を狙う猛禽のそれではなく、暗い海の底から光を求める溺死者のような、切実な色を帯びていた。
「私のお願いを、一つだけ聞いて。……そうすれば、先週の失礼は許してあげる」
「内容次第、ですね。……忙しいので」
僕はわざと冷淡に答える。
だが、次に彼女の口から飛び出した言葉は、僕が暗記していた『Sweet Kiss』の全シナリオ、全イベント、全テキストのどこにも存在しない、未知の「シナリオ」だった。
僕がそんなことを思案していると、彼女は頬を桜色に染めて微笑みながら言った。
「私の『初めて』、もらってくれない?」
……。
…………。
………………。
……………………え。
持っていた炭酸飲料の缶が、指先から滑り落ちそうになった。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
聞き間違いじゃない。彼女は今、はっきりとそう言った。
周囲の男子生徒たちの視線が一斉にこちらに向くのがわかる。
「先輩、今、自分が何を言ったか分かってますか? ここ、学校ですよ」
ダメだ。動揺してはいけない。彼女のペースに乗せられるな。
「分かっているわ。キミが思っているような、『えっち』な意味じゃない。もちろん、キミがそれを望むなら別だけど?」
先輩は、僕の動揺を楽しむように、一瞬だけ小悪魔的な笑みを浮かべた。
けれど、その奥にある真剣な眼差しは揺るがない。
「私が言っているのは……まだ、私が経験していないこと。学校をサボって、あてもなく街を彷徨ったり。行ったこともない騒がしい場所で、下らない遊びに興じたり。完璧な『蓮見遥』としての人生では、決して許されなかった、無意味で、無価値で、けれど鮮やかな『初めて』。それを、キミと一緒に体験したいの」
僕は、彼女のステータスに目を向けた。
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好感度:35 → 78[状態:生意気な後輩]
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数値が、呼吸するように不規則に波打っている。
これは……「イベント」だ。
僕が彼女を突き放し、彼女の予定調和を壊したことで発生した、原作には存在しない、この世界独自の特異点。
彼女は、僕なら自分の世界を塗り替えてくれると信じているのだ。
僕が彼女に媚びず、彼女を特別視せず、ただ一人の「人間」として突き放したからこそ。
「……友人としてなら、いいですよ」
僕は、数秒の沈黙の後、そう答えた。
ここで彼女の誘惑に靡くことは、彼女を再び「予定調和の称賛」という無価値な世界の中に引き戻すことになるかもしれない。
僕は、彼女の「攻略者」になりたいわけじゃない。
ただ、この美しすぎる先輩が孤独な世界で朽ち果てていくのを見過ごせないだけだ。
「友人として?」
先輩が、意外そうに目を瞬かせた。
「ええ。恋人でも、ファンクラブの会員でも、奴隷でもなく。ただの、対等な友人として。それなら、付き合いますよ」
「ふふっ。友人、ね。私にそんな言葉を投げた男の子は、キミが『初めて』よ?」
先輩は、本当に、心から楽しそうに笑った。
その笑顔には、先週までの「計算された美しさ」は微塵もなかった。
「いいわ。友人として、私の世界に色を塗って。相澤京君、『私の思い通りにならないキミ』が、今の私には何よりも眩しいわ」
――チャイムが鳴る。
現実へと引き戻される合図。
「五限目が終わったら、校門で待っていて。……逃げたら、生徒会長の権限で校内指名手配にするから」
彼女は、それだけ言い残すと、流れるような所作で去っていった。
残されたのは、冷えた炭酸飲料と、僕の中の「計画」が完全に崩れ去ったという、妙な高揚感だけだった。
僕は、炭酸のプルタブを引いた。
鋭い刺激が喉を焼く。
僕が彼女の思い通りにならない存在となったことで、彼女の世界に色がつき始めた。
――彼女の思い通りにならない友人。
独り言は、騒がしくなった廊下の雑踏に消えた。
まだ、この時の僕は気づいていなかった。
彼女にとっての「初めて」が、僕との「友人関係」という極彩色の毒によって、修復不可能なほどに深い「初恋」へと塗り替えられていくことを。
色彩の薄れた世界で、彼女が見つけた唯一の毒。
それは、決して手に入らない、けれど誰よりも近くにいる「友人」という名の、あまりにも甘美な拷問だった。
―――――あとがき―――――
今作をここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
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