Episode.04 実の兄への想い① ★
朝の光は、私にとって「ご褒美」の合図だ。
七ツ海の街を包む夜霧が、太陽の熱に焼かれて消えていく。
私は階下の台所で、母さんが朝食の準備をする音――まな板を叩く規則正しい響きや、味噌汁の煮え立つ匂い――を確認し、自分の「役割」を開始する。
「お兄ちゃん、起こしてくるね!」
一階のリビングでは、私はただの「元気で明るい、少しお兄ちゃんをからかうのが好きな妹」だ。
声を弾ませ、階段を一段飛ばしで駆け上がる。
トントン、とわざとらしく足音を立てて、二階の廊下を進む。
けれど。
お兄ちゃんの部屋のドアノブに手をかけた瞬間、私の顔から「妹」という名の仮面が、音を立てて剥がれ落ちる。
カチリ。
ドアを開け、一歩踏み込む。
そこは、世界で唯一、「私だけ」が呼吸を許された聖域。
カーテンの隙間から漏れる細い光の筋に、埃のダンスが踊っている。
そして、ベッドの上には、無防備に眠る「私の」お兄ちゃん。
私は静かに、獲物を狙う猫のように足音を殺してベッドの傍らへ近づいた。
まだ微睡みの中にいるお兄ちゃんの寝息。
規則正しく上下する胸のライン。
私は膝をつき、兄の枕元に顔を寄せた。
「……すぅ……」
深く、深く。肺の奥まで、お兄ちゃんの匂いを吸い込む。
洗剤の香りの奥に潜む、彼特有の、少しだけ甘くて、少しだけ汗の混じった、生命の匂い。
ああ……お兄ちゃん。お兄ちゃんの匂い。私の、お兄ちゃん……。
脳が痺れる。
視界が白く明滅するほどの多幸感。
この瞬間、お兄ちゃんの細胞の一つ一つが、私の吐息によって汚染され、塗り替えられていくような錯覚。
私はゆっくりと、彼の布団の上に這い上がった。
馬乗りになるようにして、その重みを彼に預ける。
お兄ちゃんの体温が、パジャマ越しに私の太ももへと伝わってくる。
本当なら、このままこの人を抱きしめて、この部屋から一歩も出さずに一生を終えたい。
お兄ちゃんの瞳には私だけが映り、お兄ちゃんの耳には私の声だけが響き、お兄ちゃんの心臓は私のためだけに鼓動を刻む。
そんな、誰にも邪魔されない、琥珀の中に閉じ込めたような二人だけの世界。
けれど、まだ我慢。
私は「物分かりの良い、可愛い妹」でいなきゃいけない。
そうじゃないと、お兄ちゃんは私を置いて、外の汚い世界へ逃げていってしまうから。
「……お兄ちゃん……。おーにぃーいーちゃん!!」
私は、自分の声を「兄の理想の妹の声」へと調整した。
鈴を転がすような、いたずらっぽくて、無邪気な響き。
耳元で囁き、彼の鼓膜を私の愛で震わせる。
「起ーきーてー! 遅刻しちゃうよ、お兄ちゃんっ!!」
最後は、わざとらしく明るい「わーっ!」っていう大声。
「う、うわああああっ!?」
お兄ちゃんが跳ね起きた。
その衝撃で、私はわざとらしく「わわっ!」と声を上げ、床へと転がり落ちる。
これも計算。
転んだ私を、彼がどんな顔で見るかを確認するための、小さなテスト。
「あいたたた……。ちょっとお兄ちゃん、いきなり起き上がらないでよ! 澪が飛んでっちゃったじゃない!」
私は床でお尻をさすりながら、頬を膨らませて彼を睨んだ。
内心では、彼の飛び起きた時の心音すら愛おしくて、今すぐ首筋に噛みつきたい衝動を必死で抑え込んでいる。
けれど。
……おかしい。
お兄ちゃんの瞳が、私を見ていない。
正確には、私を視界には入れているけれど、その奥にある「何か」を必死に探っているような、ひどく困惑した、けれど異様に鋭い眼差し。
いつもなら「うるさいぞ、澪」と、眠たそうに、けれど慣れ親しんだ呆れ顔を見せるはずなのに。
お兄ちゃん……? その目は、何……?
背筋に、冷たい氷の柱が突き立てられたような感覚。
彼は、自分の顔を触り、窓の外の景色を食い入るように見つめている。
まるで、自分がどこにいるのかを再確認するような、異邦人のような挙動。
「お兄ちゃん? ……ねぇ、本当に大丈夫? なんか、顔色が変だよ?」
私は立ち上がり、彼の顔を覗き込んだ。
心配しているフリをしながら、彼の瞳の虹彩の揺らぎを、睫毛の震えを、毛穴の一つ一つまでを精密に観察する。
お兄ちゃんの中で、何かが変わった。
決定的な、不可逆な変化。
私が今まで丹念に、時間をかけて飼い慣らしてきた「相澤京」という魂が、別の何かに塗り替えられたような、得体の知れない違和感。
もし、今のお兄ちゃんが、私の知らない「誰か」に心を奪われてしまった結果なのだとしたら。
もし、この瞳が、私以外の女を映すための準備を始めているのだとしたら。
殺しちゃうよ? ……お兄ちゃん。そんなこと、絶対に許さないんだから。
心の底から湧き上がる、どろりとした黒い殺意に近い独占欲。
それを、私は瞬時に心の檻へと押し戻し、最高の笑顔を浮かべた。
「……お兄ちゃん? 本当に、どうしちゃったの? もう、そんなに怖い顔しないでよ。……何か、嫌な夢でも見た?」
私は優しく、彼の腕に触れた。
逃がさない。どこへも行かせない。
たとえ魂が変わってしまっても、その器は私のもの。
その血の一滴まで、私の愛で繋ぎ止めてみせる。
「いや……」
お兄ちゃんが、口を開いた。
「……おはよう、澪。最高の朝だよ」
――最高の朝。
その言葉に含まれた、清々しいほどの決意。
私の知らない「お兄ちゃん」が、そこで初めて産声を上げた。
窓の外、キラキラと輝く七ツ海の海原を、彼は見つめている。
その瞳は、もう私の執着など届かないほど遠く、高い場所を目指しているように見えた。
……いいよ、お兄ちゃん。最高の朝だね。
私は、兄の手を握る力を、ほんの少しだけ強めた。
爪が食い込むほどに、けれど兄には痛みを感じさせない絶妙な加減で。
どこまででも行けばいいよ。……でもね、最後に戻ってくる場所は、私の腕の中だけなんだから。
もし、お兄ちゃんが私の元から飛び立とうとするなら……その時は、お兄ちゃんの羽を、私が一枚ずつ、丁寧に引きちぎってあげるね?
私は、彼の晴れやかな顔を見つめながら、心の裏側で、自分と彼を繋ぐ鎖をより太く、より重く、作り直す作業を開始した。
お兄ちゃん。
私の、大好きなお兄ちゃん。
これから始まる「最高の物語」の結末を、私が望む形に書き換えてあげる。
たとえ、この世界のすべてを敵に回しても。
―――――あとがき―――――
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