Episode.01 頑張る幼馴染①
―――――まえがき―――――
今作はカクヨムの方で110話ほど先行公開しております。
小説家になろう様のプロフィールにリンクがあるので、もし気になる方がいらっしゃればチェックしてみてください。
今作はカクヨムの日間・週間・月間の部門ランキング1位、総合は7位でした。
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午前四時。
世界がまだ、深い藍色の底に沈んでいる時間。
七ツ海の街を包む朝霧は、窓硝子の向こう側で音もなく停滞し、湿った沈黙を家々に押し付けている。
カチッ、という小さな音が、無人の台所に響いた。
ガスコンロの青い炎が、冷え切った空気の中にゆらりと立ち上がる。
僕は、まだ寝静まっている家族を起こさないよう、慎重に、けれど手慣れた手つきで、鉄のフライパンを火にかけた。
まな板の上に置かれた、新鮮な野菜と鶏肉。
包丁を握る指先に、金属の冷たさが伝わってくる。
トントン、トントン……。
規則正しいリズムで刻まれる音が、僕の意識を現実の輪郭へと繋ぎ止めていく。
今、僕が作っているのは、ただのお弁当ではない。
それは、運命という名の、あまりにも残酷なシナリオへの「抵抗」だ。
脳裏に、前世の記憶が浮かび上がる。
かつて僕が、ブラウン管越しに愛したゲーム『Sweet Kiss』。
そのパッケージの裏側、あるいは取扱説明書の片隅に記されていた、数行の無機質な紹介文。
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小鳥遊 妙子:主人公の幼馴染。一年前に父を亡くし、病床の母と幼い妹を支える苦労人。趣味はお腹いっぱい食べること。
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……苦労人。
たった三文字に、当時の開発者たちは彼女の人生のすべてを押し込めていた。
前世の僕は、35歳まで独身を通した。
30歳を過ぎたあたりから、健康診断の結果に怯え、外食続きの生活を改めた。
自分の体を作るのは自分だけだと悟り、毎日キッチンに立った。
出汁の取り方、塩分の控え方、冷めても美味しい調理法。
それらはすべて、一人の男が「生き抜く」ために必死で身につけたスキルだ。
だからこそ、今の僕には見える。
説明書の数行に隠された、彼女の過酷な日常が。
一年前、大黒柱だった父親が不慮の事故で急逝し、優しかった母親は病で倒れ、今は寝たきり。
小学生から中学生になったばかりの妹は、姉を気遣って甘えることすら我慢している。
そんな地獄の中で、彼女はたった一人で家事と介護を背負い、学校では「明るい幼馴染」を演じているのだ。
頑張っている人間が、必ず報われるとは限らない……そんなことは、前世で嫌というほど見てきた。
誠実な人間が泥を被る。そんな理不尽を、僕はたくさん見てきた。
でも、あんなにいい子が人知れず涙を流すところを、僕は見たくない。
自分の身を削り、母と妹を、歯を食いしばって支え続ける彼女の、最後にたどり着く場所が地獄であっていいはずがない。彼女は報われるべき人間だ。
だが、彼女の力になるにしても、一方的に「与える」だけの関係性は、いつか破綻することを、35年の人生経験から知っている。
僕は、彼女に返すことのできないような「重い貸し」を背負わすことのないよう細心の注意を払いながら、彼女を支え続けていくと決めていた。
僕は、大きな重箱を取り出した。
一つは、学校で彼女と一緒に食べるための、普通サイズの弁当箱。
そしてもう一つは、三段重ねの立派な重箱。
これには、彼女たちが今日の夜、そのまま食卓に並べられるだけのおかずを詰め込む。
鶏の照り焼き、出汁をたっぷり含ませた卵焼き、そして南瓜の含め煮。
35歳の僕が培った「健康への配慮」を、17歳の僕の指先が形にしていく。
油は最小限に。野菜は素材の味が引き立つように。
その時。
背後のリビングに続く扉の影で、何かが動いた気配がした。
「……え?」
掠れた、信じられないものを見たというような声。
振り返ると、そこにはパジャマ姿の母さんが、目を丸くして立ち尽くしていた。
母さんの視線の先には、整然と並べられた色鮮やかなおかず。
無駄のない動きでフライパンを回し、まるで長年厨房に立っているかのような風格で盛り付けをこなす息子の姿。
調理台の上は、使い終わった道具が次々と洗われ、一滴の水跳ねすら拭き取られている。
17歳の男子高校生が、午前四時に、重箱三段分の「本格的な家庭料理」を完璧な衛生管理下で仕上げている。
その異常なまでの「女子力」という名の家事スキルに、母さんは言葉を失っていた。
「……京? あなた、一体どうしちゃったの……? その、お料理……」
母さんの困惑はもっともだ。
今までの僕は、自分の靴下すら脱ぎ散らかしていたかもしれない「ただの息子」だったのだから。
「……あ、おはよう、母さん」
僕は、35歳の落ち着きを必死に抑え込み、努めて自然なトーンで答えた。
「ちょっと、思うところがあってさ。……妙のところ、大変だろう? 少しでも助けになればと思って、多めに作ってるんだ」
母さんはまだ「ええ……?」と呟きながら、信じられないというふうに重箱を覗き込んでいる。
その様子をリビングの影から、澪がじっと見つめているのを感じたが、今は気付かないふりをした。
「大変だろうから助けてやる」なんて、上から目線の顔をするつもりもない。
僕はただ、彼女の「幼馴染」でありたいだけだ。
このゲームの発売当時は、まだ、『ヤングケアラー』という言葉すら浸透していない時代。
一人で背負い込んでいる彼女の、その義務感という名の鎖を、僕は少しずつ解いていきたい。
料理を詰め終え、重箱に風呂敷をかける。
手に持つと、ずっしりとした重みが伝わってきた。
この重みこそが、今の僕にできる精一杯の誠実さだ。
ようやく完成した頃。
時計を見ると、午前六時半。
僕は自分の制服に着替え、玄関へ向かった。
お弁当を作るくらいなら、彼女も僕に「貸しがある」とは感じにくいだろう。
あの子が、もう二度と「半額の惣菜」を寂しく食べる夜を過ごさなくていいように。
この重箱に込めた祈りが、彼女の心の檻を、少しでも溶かしてくれることを願って。
―――――あとがき―――――
今作をここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
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