勇者に「釣り合わない」と婚約破棄されたので、釣り合いを求めたら、もっと強い勇者が召喚されました
王国の王宮大広間は、黄金色の魔灯に照らされて眩いほどだった。
勇者ユーグ・ベルフォールの凱旋祝賀会。北方の黒の森から溢れ出した魔物の大群を鎮圧した功績を称え、国王陛下自らが主催した盛大な宴である。大広間には王族、上級貴族、騎士団幹部が集い、勇者の武勲を讃える声が絶えない。
その華やかな空間の片隅で、ブランシュ・カルティエは壁に背を預けていた。
淡い亜麻色の髪を一つに編み、灰みがかった薄紫の瞳を眼鏡の奥に隠した、地味な佇まいの令嬢である。ドレスは仕立ては悪くないが装飾が控えめで、華やかな社交の場ではどうしても埋もれる。本人もそれを自覚しており、むしろ望んでいた。
(早く帰って、あの術式の続きがやりたいんですけど……)
三年間の婚約者であるユーグは、大広間の中央で取り巻きに囲まれている。金髪碧眼、鎧姿が映える長身の美丈夫。まさに「勇者」の称号にふさわしい見栄えだ。その傍らに寄り添っているのは、柔らかな金の巻き毛に翡翠色の瞳を持つ小柄な令嬢――「光の聖女」カミーユ・サントレール。
二人は並んで微笑み、貴族たちの祝辞を受けている。
ブランシュはその光景を見ても、特に胸が痛むということはなかった。もう慣れたのだ。三年間の婚約期間中、ユーグの遠征に必要な兵站計画の立案、魔道具の調達ルート確保、敵地の暗号通信解読――裏方業務のすべてを担ってきたが、功績が表に出ることは一度もなかった。手柄はすべてユーグとカミーユのものとされてきた。
(まあ、裏方の仕事が目立たないのは当然ですし。別に褒められたくてやっていたわけでもないですし)
そう自分に言い聞かせている時だった。
「ブランシュ」
ユーグが近づいてきた。珍しい。祝賀会の最中に婚約者に声をかけるなんて、三年間で数えるほどしかなかった出来事だ。
「少し、話がある。バルコニーに来てくれないか」
嫌な予感がした。しかしブランシュは「ええ、分かりました」と頷いた。
バルコニーは月明かりに照らされていた。眼下に王都の夜景が広がっている。ロマンチックな場所だが、ユーグの表情は硬かった。
そして彼は、よく通る声で――わざわざ大広間にも聞こえそうな声量で――こう告げた。
「ブランシュ。君は優秀な女性だと思う。だが、勇者の隣に立つ女性には、もっと別の資質が求められるんだ」
来た、とブランシュは思った。
「聖女カミーユこそが、僕にふさわしい。彼女の光の加護は、僕の力を最大限に引き出してくれる。戦場でも、社交の場でも、僕の隣に立つべきは彼女だ」
ユーグは一拍置いて、決定的な一言を放った。
「――君では、釣り合わないんだ」
沈黙が落ちた。
ブランシュの内心では、激しいツッコミが炸裂していた。
(三年間あなたの兵站やってた私に、釣り合わない? あの北方遠征の補給ルート、私が三日三晩かけて組まなかったら兵糧が尽きて全滅してましたけど? 暗号通信を解読して敵の伏兵を事前に把握したのも私ですけど? ……いや、言っても無駄か。この人、裏方の仕事の価値なんて分かってないもの)
しかし表面上は冷静だった。眼鏡を押し上げ、ブランシュは事務的に答えた。
「そうですか。では、解消の手続きは明日こちらから書面を送りますね。印鑑の件は父に確認しますので、二、三日お待ちいただければ」
ユーグが目を見開いた。明らかに、もっと取り乱すことを期待していたのだ。泣いたり、すがったり、「なぜ」と問い詰めたり――そういう反応を想定していたのだろう。
「……それだけか?」
「他に何か必要な手続きがありますか? 贈答品の返却リストも作成しましょうか」
「いや、そうじゃなくて……」
ユーグが言葉を探している間に、バルコニーの入口からカミーユが現れた。翡翠色の瞳を潤ませ、か細い声で言う。
「ブランシュ様……ごめんなさい。わたくしのせいで、こんなことになってしまって……」
ブランシュは眼鏡の奥で目を細めた。カミーユの目の端に浮かぶ涙は綺麗に粒が揃っている。泣き慣れている人間の涙だ。
「いいえ、お気になさらず。お似合いですよ、お二人とも」
にっこりと微笑む。カミーユが一瞬たじろいだのを、ブランシュは見逃さなかった。
帰りの馬車の中、ブランシュは三秒だけ目を閉じた。悲しくないと言えば嘘になる。三年間という時間は短くなかった。けれど目を開けた時、胸を占めていたのは喪失感よりも、奇妙な開放感だった。
(あの人の遠征準備に費やしていた時間が、全部空くのか)
唇の端が、わずかに上がった。
「さて」
馬車の窓から月を見上げ、ブランシュは呟いた。あの術式の続きが、できる。
〜〜〜
婚約破棄から一週間。
カルティエ伯爵邸の書庫は、相変わらず古文献と羊皮紙の山に埋もれていた。その中心で、ブランシュは没頭していた。机の上には古代文字で書かれた術式の断片、自作の翻訳ノート、そして大量の計算用紙が散乱している。
「お姉様」
妹のマリエッタが扉を開けた。亜麻色のショートカットに快活な丸い目。手にはティーセットを載せたトアッシュ。
「……お茶、持ってきたわよ。あと、そろそろ少しは落ち込んだらどうなの? 婚約破棄されたのよ?」
「落ち込む暇がないの」ブランシュは顔も上げずに答えた。「この術式、あと少しで完成するから」
「術式って……まさか、またあの禁書区画の?」
「正規の手続きで借りてるから問題ないわ。閲覧許可証もある」
マリエッタはため息をつきながらお茶を置いた。「お姉様の『問題ない』は世間の『大問題』と同義なのよ……」
ブランシュが研究していたのは、王宮書庫の禁書区画に断片的に残されていた古代召喚魔法の文献だった。千年前に途絶えたとされる魔法体系。異世界から「契約者」を呼び出す術式。婚約期間中、ユーグの暗号解読の合間――つまり趣味の時間に――少しずつ解読を進めていたものだ。
婚約破棄のおかげで時間が出来た結果、ついに術式の再構築が完了しつつあった。
そして完成した夜、ブランシュはふと思った。
(釣り合わない、と言われた。なら、釣り合う存在を自分で呼べばいいのでは?)
これは知的好奇心が九割で、意地が一割。あくまで「召喚魔法が本当に機能するのか確かめたい」という学術的動機が主である――と、本人は主張している。
翌日の午後。伯爵邸の中庭に、巨大な魔法陣が描かれていた。
ブランシュは陣の中心に立ち、詠唱を開始した。古代語の響きが庭に満ちる。地面に刻まれた紋様が淡い光を放ち始め、やがてその光は柱のように天へ伸びた。
「お、お姉様!? 何か変な光が――」
マリエッタが屋敷から飛び出してきた時には、魔法陣は最後の輝きを放っていた。
光が収まった後、そこに一人の青年が立っていた。
銀灰色の短い髪。金色の瞳。長身で引き締まった体格。そして――頭の上に、銀色の三角形がふたつ、ぴくぴくと動いていた。
耳だ。犬の耳。
青年はきょろきょろと周囲を見回し、目の前のブランシュを見つけた瞬間、ぱあっと顔を輝かせた。
「あなたが俺を呼んでくれた人ですか!?」
声が弾んでいる。金色の瞳がきらきらと光っている。
「すごい、すごい魔力だ! こんなに綺麗な召喚陣、見たことない! 俺、アッシュっていいます! アッシュ・ベルガード! よろしくお願いします、ご主人様!」
彼がぺこりと頭を下げた瞬間、腰のあたりにふわりと銀色の尻尾が出現し、ぶんぶんと振られ始めた。
沈黙。
「犬……?」とマリエッタが呟いた。
「……犬、ですね」とブランシュが同意した。
アッシュと名乗った青年は、異世界出身の半獣人だった。元の世界では傭兵として戦場を渡り歩いていたという。召喚の際にブランシュの魔力と波長が合ったことで呼び出されたらしい。
「あなたの魔力に呼ばれた時点で、俺にとってあなたが主です」
「……主、ですか」
「はい! だから何でも言ってください! 戦うのも守るのも得意です! あ、荷物持ちもできます!」
尻尾がますます激しく振られている。ブランシュは眼鏡を押し上げた。
「分かりました。では、まずは従者として伯爵家に迎えます。名乗りはアッシュ・ベルガード、私の召喚した契約者ということで」
「やった! ブラン様! ……あ、ブラン様って呼んでもいいですか?」
「……好きにしなさい」
「ブラン様! ブラン様!」
嬉しそうに繰り返すアッシュの耳がぴんぴん跳ねている。マリエッタがブランシュの袖を引いた。
「お姉様……あれ、本当に大丈夫なの?」
「さあ。でも噛みついたりはしないと思いますよ」
「そういう問題じゃないのよ……」
その夜、アッシュは「ブラン様の部屋の前で寝ていいですか?」と真顔で聞いてきた。ブランシュは額を押さえながら答えた。
「廊下は冷えますから、せめて隣の客間を使ってください」
「でも、ブラン様に何かあったらすぐ駆けつけられるように――」
「客間で十分です。おやすみなさい」
「……はい。おやすみなさい、ブラン様」
耳がしゅんと垂れる。尻尾も力なく下がる。ブランシュは一瞬だけ罪悪感を覚えたが、首を振ってドアを閉めた。
(いや、甘やかしたら駄目でしょう。犬じゃないんだから。……犬ですけど)
〜〜〜
アッシュを従者として連れ、ブランシュが王都に戻った日から、周囲の視線が変わった。
「あら、勇者に捨てられた伯爵令嬢ですって」
「しかも変な犬耳の従者を連れているらしいわよ」
「哀れねえ……おかしくなってしまったのかしら」
社交界の囁きは容赦がない。しかしブランシュの関心は、そんなものには向いていなかった。
「ギルバート副団長、訓練場をお借りできますか」
騎士団の訓練場。ブランシュが頼んだのは、アッシュの戦闘能力の検証だった。立ち会うのは騎士団副団長ギルバート・ノイマン――黒髪を短く刈り上げた精悍な男で、左頬に古い刀傷がある。公正で実直な人物として知られており、ブランシュとは書類仕事を通じて面識があった。
「構わんが、怪我をしても責任は取れんぞ」
「ご心配なく。怪我をするのはたぶん、お相手の方ですので」
ギルバートが片眉を上げた。
訓練場に立ったアッシュは、リラックスした様子だった。犬耳がそよ風に揺れている。対するは騎士団の精鋭五人。いずれも実戦経験豊富な歴戦の騎士たちだ。
「では、始め」
ギルバートの合図と同時に、五人が動いた――が、次の瞬間には全員が地面に転がっていた。
アッシュは元の位置からほとんど動いていない。剣すら抜いていなかった。五人の騎士がそれぞれの武器を弾かれ、体勢を崩され、制圧されるまでにかかった時間は、息をつく暇もないほどだった。
訓練場が静まり返った。
「……もう一組、出せるか」
ギルバートの声が低い。追加の五人が出てきたが、結果は同じだった。今度は一人だけ、アッシュの袖に触れることに成功した騎士がいたが、それが精一杯だった。
検証の結果をまとめたギルバートの声は、いつも以上に抑揚がなかった。感情を殺している時の癖だ。
「剣技、体術、魔力感知、反応速度。全項目で、勇者ユーグの全盛期の記録を上回っている」
ブランシュは静かに頷いた。
「そうですか」
「……カルティエ嬢。この男、一体何者だ」
「私の従者です」
ギルバートは無言でブランシュを見つめ、それからアッシュを見た。アッシュはブランシュの横に座り込み、「ブラン様、今の俺、どうでしたか? 良かったですか?」と尻尾を振っていた。
「……あれが、従者か」
「ええ。少し変わっていますが」
「少し、か」
この噂はたちまち広がった。「婚約破棄された伯爵令嬢の従者が、騎士団の精鋭を一蹴した」という話は尾ひれがつきながら王都を駆け巡り、当然ユーグの耳にも届いた。
「くだらない。訓練場の手合わせと実戦は違う」
ユーグは一笑に付した。だが彼の手が握られていたことに、傍にいたカミーユは気づいていた。
「ユーグ様、お気になさらないでくださいね。あなたは王国最強の勇者なのですから」
「ああ、もちろんだ」
そう答えるユーグの声には、しかし、以前ほどの揺るぎなさがなかった。
程なくして、王都近郊で中級魔物の大量発生が報告された。騎士団が出動し、ユーグにも出撃要請が入る。勇者の実力を見せつける絶好の機会――のはずだった。
だが、ユーグが現場に到着した時、すでに魔物は一匹残らず殲滅されていた。
「あ、すみません。もう終わっちゃいました」
アッシュが片手を上げて、のんびりと報告した。返り血一つ浴びていない。周囲の騎士たちが茫然としている中、ユーグの顔だけが引きつっていた。
その日の夕方、伯爵邸に帰還したアッシュは、ブランシュに駆け寄った。
「ブラン様! 全部倒してきました! 褒めてください!」
尻尾がぶんぶん振られている。耳がぴんと立っている。
「……はい、よくやりましたね」
「やった!」
耳がぴくぴく跳ねる。ブランシュの淡白な反応なのに全力で喜んでいる。マリエッタが窓から覗いて呟いた。
「あの化け物みたいに強い人が、犬みたいに懐いてる……」
「お嬢様」メイドが控えめに言った。「犬みたいに、ではなく、犬そのものかと存じます」
「……そうね」
〜〜〜
アッシュの活躍は続いた。
二度目の魔物討伐では、騎士団が苦戦していた上級魔物をアッシュが単独で討ち取った。三度目は、辺境の村を襲った魔物の群れを、到着から半刻で鎮圧した。いずれもユーグが過去に成し遂げた戦果と同等か、それ以上の成果だった。しかもアッシュの戦い方は効率的で、民間への被害が毎回最小限に抑えられていた。
やがて、静かに、しかし確実に、ある疑問が広がり始めた。
「勇者ユーグの過去の戦果は、本当に彼一人の実力によるものだったのか?」
その疑問を最初に形にしたのは、騎士団副団長ギルバート・ノイマンだった。
ギルバートは公正な人物だが、同時に極めて緻密な男でもあった。アッシュの実力を目の当たりにしたことで、以前から抱いていた違和感に向き合う決心がついたのだ。彼は過去五年分の遠征記録を精査した。
結果は明白だった。
ユーグの華々しい戦果は、すべて「ブランシュ・カルティエが兵站を担当した遠征」に集中していた。補給計画の精密さ、魔道具の適切な配備、敵の行動パターンの事前分析。それらの裏方業務がなければ、ユーグの勝利の半数以上は成立していなかった。
さらに、聖女カミーユが同行した戦闘では、彼女の「光の強化魔法」によってユーグの身体能力が大幅に底上げされていたことも記録から読み取れた。
つまり。
ユーグ・ベルフォール単体の実力は、「勇者」の称号に見合うものではなかった可能性が極めて高い。
ギルバートは報告書を国王に提出した。勇者称号の再審査が、非公式に検討され始める。
一方、ユーグ自身も焦りを感じていた。アッシュの活躍が自分の存在を脅かしていることは、プライドの高い彼にも分かっていた。意地になったユーグは、自ら魔物討伐に出向いた。
だが、結果は芳しくなかった。
ブランシュの兵站支援がない。カミーユの強化魔法は短時間しか持続せず、以前ほどの効果が出ない。ユーグは苦戦し、辛うじて任務を達成したものの、以前の鮮やかな勝利には程遠い内容だった。
苛立ちが限界に達したユーグは、ある日、ブランシュの元を訪れた。
「ブランシュ。あの従者を僕に貸してくれないか」
伯爵邸の応接間。対面に座るブランシュは、いつもの冷静な表情で紅茶を口に運んだ。
「お断りします。アッシュは私の従者です。貸し出しはいたしかねます」
「君は分かっていないのか? あの男の力を僕が使えば、王国の防衛は――」
「それはあなたの実力で成し遂げるべきことでは?」
ユーグの眉がぴくりと動いた。
「……君は、僕の邪魔をするつもりか」
その声には、明確な威圧が含まれていた。勇者としての圧、侯爵家嫡男としての圧。かつてのブランシュなら、目を伏せて従っていたかもしれない。
だが今は違う。答える前に、別の声が割り込んだ。
「ブラン様に、それ以上の無礼は許しません」
アッシュだった。応接間の壁際に控えていた彼が、すっとブランシュの前に立った。声のトーンが低い。普段の犬系の人懐っこさは消え、金色の瞳が射抜くようにユーグを見据えている。
犬耳は伏せられ、尻尾は出ていない。それは彼が本気の時の態勢だった。
「俺はブラン様の従者です。ブラン様が行けと言えば行くし、留まれと言えば留まる。でも、あなたに従う理由はない」
ユーグは椅子から腰を浮かせかけたが、アッシュの放つ圧に気圧され、再び座り直した。
「……覚えておけ、ブランシュ」
それだけ言い残して、ユーグは立ち去った。
アッシュの表情が一瞬で崩れた。
「ブラン様、大丈夫でしたか? 怖くなかったですか? あいつ、二度と来させませんから!」
尻尾が復活し、心配そうにぶんぶん振っている。ブランシュは小さく笑った。
「ありがとう、アッシュ。大丈夫よ」
「本当ですか? お茶のおかわり入れましょうか? 肩、揉みましょうか?」
「お茶だけで十分です」
〜〜〜
ユーグの訪問から数日後、王宮からブランシュに通達が届いた。
聖域の定期浄化儀式の記録係を務めよ、という国王からの命令だった。ブランシュの文書作成能力と正確な記録技術は、婚約破棄後も王宮で高く評価されていた。
聖域は王都の地下深くに眠る古代の聖域だ。大陸全土の魔力バランスを安定させる要石の役割を果たしており、正統な「聖女の加護」を持つ者だけが泉に触れて浄化の儀式を行うことができる。年に一度の重要な儀式であり、今年はカミーユ・サントレールがその大役を担うことになっていた。
ブランシュはアッシュを護衛として同行させた。
儀式の準備が進む中、ブランシュは奇妙なことに気づいた。アッシュの様子がおかしいのだ。カミーユの近くを通るたびに、鼻を押さえて顔をしかめる。最初はさりげなかったが、二度目、三度目と繰り返すうちに隠しきれなくなっていた。
儀式の前日、人気のない回廊でブランシュはアッシュに尋ねた。
「アッシュ。さっきから聖女様の近くで顔をしかめていたでしょう。何かあるの?」
アッシュは困惑した表情で答えた。
「……ブラン様、信じてもらえるか分からないんですけど。あの聖女様から、光の加護の匂いがしないんです」
「匂い?」
「俺の固有能力です。――嘘や偽りの加護の匂いを嗅ぎ分ける力。異世界では、偽装した魔族を見破るのに使ってました」
ブランシュの眉が上がった。
「あの聖女様から、光の加護の匂いは一切しません。代わりに……瘴気に近い、魔族の呪術の匂いがします。しかもかなり強い」
ブランシュは沈黙した。アッシュが嘘をつく理由はない。だがこれは、もし事実なら王国を揺るがす大事だ。
「……アッシュ、このことは誰にも言わないで。まだ証拠がない」
「分かりました、ブラン様」
その夜、ブランシュは持ち前の分析力を全開にした。王宮の記録庫に入り、カミーユが「光の聖女」として行った過去の「奇跡」の記録を片端から洗い直した。
浄化の光を発して魔物を退けた、という記録――しかし同じ現場に聖別済みの魔道具が配置されていた。ブランシュ自身が手配したものだ。
負傷兵を癒した、という記録――しかし治療の前後で王宮付きの治癒術師が別途処置を行っていた。
カミーユの力だけで奇跡が成った事例を探した。一件もなかった。
すべての「奇跡」に、別の要因が重なっていた。カミーユの力は、あくまでその上に「上乗せ」された装飾に過ぎなかったのだ。
翌朝、ブランシュはギルバートに接触した。
「副団長。お耳に入れたいことがあります」
ギルバートは報告を聞き、眉間の皺を深くした。
「……確証は?」
「まだです。ですが、明日の儀式で確かめられます。聖女の力だけで泉が反応するかどうか――それが答えになるはずです」
「どうする気だ」
「カミーユ様が頼りにしている補助魔道具を、無効化します。彼女の力だけで儀式に臨んでいただく。それで泉が反応すれば、私の杞憂です」
ギルバートは長い沈黙の後、短く頷いた。
「やれ」
〜〜〜
聖域は、王宮の地下百段の階段を降りた先にあった。
青白い光を放つ泉が洞窟の中央に静かに湛えられている。その周囲には古代の紋様が刻まれた石柱が並び、天井からは鍾乳石のように光る結晶が垂れ下がっている。荘厳な空間だった。
見届け人として、国王をはじめとする王族、大貴族、高位聖職者が居並んでいる。ユーグもカミーユの傍に立ち、誇らしげな表情を浮かべていた。
ブランシュは記録係として壁際に控え、アッシュは彼女の背後に立っている。アッシュの犬耳は伏せられ、鼻がわずかにひくついていた。
儀式が始まった。
カミーユが泉の前に歩み出る。白い聖衣が青白い光に照らされ、幻想的に浮かび上がる。彼女は両手を胸の前で組み、目を閉じ、祈りの言葉を唱え始めた。
本来ならば、ここで聖女の体から光の柱が立ち、泉が応えるように輝きを増す――はずだった。
しかし。
何も、起きなかった。
カミーユの額に汗が浮かぶ。祈りの言葉を繰り返す。声が微かに震え始める。だが泉は沈黙したままだ。
会場にざわめきが走った。
「どうした……?」「聖女様に何か……?」
カミーユが目を開いた。翡翠色の瞳に焦燥が浮かんでいる。ちらりと足元を見る――彼女が密かに頼りにしていた補助魔道具が埋め込まれているはずの位置。だがそこからは、魔力の反応が返ってこない。
(なぜ……!? なぜ補助陣が動かないの……!?)
カミーユの顔から血の気が引いていく。もう一度試みる。三度目。四度目。泉はぴくりとも反応しない。
「カミーユ!」
ユーグが駆け寄った。「どうした、何があった。いつも通りにやればいい――」
その瞬間、アッシュの声が静かに響いた。
「――今、匂いが変わりました」
全員の視線がアッシュに集まる。アッシュの金色の瞳はカミーユの右腕を見つめていた。
「あの人の体から、呪印が浮き上がってきています」
ブランシュがカミーユの右腕に目を向ける。そこに――白い聖衣の袖からはみ出すように、禍々しい紫黒の紋様が浮かび上がりつつあった。
聖職者たちが悲鳴を上げた。
「あれは……!」
「模倣の呪印……! 魔族の禁術ではないか!?」
カミーユの顔が凍りついた。取り繕う余裕すらなく、必死に袖で腕を隠そうとする。だが紋様は広がり続け、首筋にまで這い上がっていた。補助魔道具による偽装が切れたことで、呪印を抑え込む力がなくなったのだ。
「カミーユ、これは何だ。説明してくれ」
ユーグが彼女の肩を掴んだ。カミーユはがたがたと震えながら――そして、一瞬だけ、震えが止まった。
次に口を開いた時、か細い声は消えていた。
「――ちっ。あと少しだったのに」
会場が凍った。誰もが、あの儚げな聖女の口から出た言葉とは信じられなかった。
「あの泉に触れさえすれば、計画は完成したのに。よりによって、こんなところで……!」
カミーユの翡翠色の瞳が、冷たい光を帯びている。聖女の仮面が完全に剥がれ落ちた顔は、別人のように鋭かった。
「聖女の加護なんて、最初から持っていなかったわ。この呪印は魔族の長から授かったもの。光の加護を模倣して、あなたたちを騙すためのね」
逃走を図ったカミーユだったが、アッシュが一瞬で回り込んで退路を塞いだ。犬系の俊敏さは、狭い地下空間でこそ真価を発揮した。
「逃がしません」
低い声。穏やかな犬系勇者の面影はなく、立ちはだかるアッシュの姿は捕食者のそれだった。カミーユが凍りつく。
ギルバートが部下を率いて前に出た。
「カミーユ・サントレール。聖女詐称、および国家転覆未遂の嫌疑で拘束する」
カミーユが引き立てられていく中、ユーグは呆然と立ち尽くしていた。
「嘘、だろ……。カミーユが、偽物……? 僕が選んだ相手が……」
誰も答えなかった。ブランシュも何も言わなかった。彼女はただ、淡々と儀式の顛末を記録し続けていた。感情を交えず、正確に。それが今の彼女の仕事だった。
〜〜〜
カミーユの正体が露見してから、一週間。
王都は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。「光の聖女」が魔族と通じた詐欺師だったという事実は、王国の信頼の根幹を揺るがした。そしてその余波は、当然のようにユーグ・ベルフォールに襲いかかった。
「偽聖女を見抜けなかった勇者」――それだけならまだ弁明の余地はあった。だが問題はそれだけでは終わらなかった。
ギルバートの報告書が正式に受理され、勇者称号の再審査が開始されたのだ。
過去の遠征記録が公開され、ユーグの戦果の大半がブランシュの兵站支援に依存していたこと、さらにカミーユの偽りの強化魔法に底上げされていたことが白日の下に晒された。
社交界の風向きは完全に変わった。
「あら、勇者様の実力って、婚約者と聖女あってのものだったの?」
「しかもその婚約者を『釣り合わない』と切り捨てて、偽聖女を選んだのでしょう?」
「見る目がないにも程があるわねえ」
かつてユーグを称賛した貴族たちが、手のひらを返すように嘲笑する。社交界とはそういう場所だった。
ユーグの勇者称号は「保留」処分となった。剥奪ではないが、事実上の停止であり、再び功績を挙げない限り復活はない。侯爵家の面目は丸潰れだった。
追い詰められたユーグは、ある雨の日、カルティエ伯爵邸を訪れた。
応接間に通されたユーグは、かつてのような自信に満ちた表情をしていなかった。金髪は乱れ、目の下にはうっすらと隈がある。
「ブランシュ」
「お久しぶりです、ユーグ様」
ブランシュはいつもの冷静さで紅茶を差し出した。
「僕は……間違っていた」
ユーグの声が震えた。プライドの高いこの男が、声を震わせている。ブランシュは黙って聞いていた。
「君の力を、僕は正当に評価していなかった。裏方だからと軽んじていた。でもそれがなければ、僕は何も成し遂げられなかった。全部……全部、君のおかげだったんだ」
それは恐らく本心だった。すべてを失って初めて気づく――よくある話だ。
「ブランシュ。もう一度、僕の傍に――」
「お断りします」
間髪を入れない返答だった。穏やかだが、揺るぎがない。
「ユーグ様。あなたは祝賀会の夜、こうおっしゃいましたね。『君では釣り合わない』と」
「あれは――」
「あの時、私もそう思ったんです」
ブランシュは静かに続けた。
「ただし、釣り合わないのは、あなたの方だった」
言葉が、空気を切った。ユーグが目を見開く。
「私はあなたの遠征を三年間支え続けました。睡眠を削って兵站を組み、命がけで暗号を解読し、あなたが戦場で輝くための舞台を裏から整え続けた。それを『釣り合わない』の一言で切り捨てたのは、あなたです」
ブランシュの声は淡々としていたが、言葉の一つ一つに重みがあった。
「私の三年間を、なかったことにはしません。でも、恨んでもいません。あなたのおかげで、私は自分の力を自覚できましたから。だからこれは、感謝です」
「ブランシュ……」
「でも、だからこそ。もう一度あなたの隣に立つ理由はありません」
ユーグが言葉を失っている間に、アッシュがゆっくりとブランシュの横に並んだ。犬耳は穏やかに立ち、尻尾がゆっくり揺れている。ユーグに対して敵意も優越感もなく、ただ静かに口を開いた。
「ブラン様は、俺が守ります。もう、あなたの出る幕じゃないです」
沈黙が落ちた。
ユーグは長い間、二人を見つめていた。それから何も言わず、静かに背を向けた。
応接間のドアが閉まった音を聞いて、アッシュの表情が一変した。
「ブラン様、お疲れ様でした! すごくかっこよかったです! あの、お菓子持ってきましょうか? それとも肩揉みます?」
「……お茶のおかわりだけで十分です」
「はい! すぐ入れてきます!」
尻尾がぶんぶん振られながらアッシュが走り去る。ブランシュは紅茶のカップを傾けた。冷めかけた紅茶の、ほんの少し苦い味が、今の気分にちょうどよかった。
〜〜〜
偽聖女事件の後処理が一段落した頃、ブランシュに国王から直々の呼び出しがあった。
玉座の間で、国王は静かにこう告げた。
「カルティエ嬢。失われた古代召喚魔法を独力で再構築したことは、学術的に極めて重大な功績である。王立魔法研究院の特別研究員として、今後の研究を国家事業として支援したい」
ブランシュの学術的才能が、ようやく正当に評価された瞬間だった。
「光栄です、陛下。謹んでお受けいたします」
「それから、あの半獣人の青年についてだが」
「アッシュのことでしょうか」
「ノイマン副団長の推薦もある。異世界からの来訪者ではあるが、王国への貢献は明白だ。『特別客人』として正式に受け入れる。身分保障はこちらで手配する」
ブランシュは深く頭を下げた。
その日の夕方、研究が一段落したブランシュは、伯爵邸の庭で茶を飲んでいた。薄紫の瞳が夕焼けを映している。穏やかな時間だった。
足音が近づいてきて、アッシュが隣にしゃがみこんだ。金色の瞳がブランシュを見上げている。尻尾がゆらゆらと揺れている。
「ブラン様」
「……なんですか」
「王宮での話、聞きました。特別研究員、おめでとうございます」
「ありがとう。あなたのおかげでもあるわ。特別客人の件も」
「俺は何もしてないですよ。全部ブラン様がすごいんです」
「そうね。私はすごいわね」
「あ、そこは謙遜しないんですね」
「事実ですから」
アッシュが笑った。犬歯が覗くくだけた笑顔。ブランシュも唇の端が緩む。こういう軽いやり取りが、いつの間にか日常になっていた。
少しの沈黙があった。夕焼けが庭の花を橙に染めている。
「ブラン様」
「……はい」
「俺、ずっとブラン様の側にいていいですか」
「従者なのですから、当然でしょう」
「従者じゃなくても?」
ブランシュの手が、茶杯の上で止まった。
アッシュの金色の瞳が真っ直ぐに彼女を見ている。いつもの犬系の無邪気さはそのままだが、その奥に、真剣な光が灯っていた。犬耳がわずかに倒れている。不安の表れだ。
「俺、ブラン様に出会えて本当に嬉しかった。召喚された時、あなたの魔力に触れた瞬間、ここが俺の居場所だって分かったんです。主だから側にいたいんじゃなくて……ブラン様だから、側にいたいんです」
ブランシュは眼鏡を押し上げた。少し黙って、それから小さく息を吐いた。
「……あなたは本当に、犬みたいな人ですね」
「犬でいいです。ブラン様の犬なら」
ブランシュはもう一度息を吐いた。今度は少し長く。夕焼けのせいか、頬がほんのり赤い。
「……好きにしなさい」
アッシュの耳がぴんと跳ね上がった。尻尾が一瞬で全力稼働を始めた。
「やった! ブラン様! 大好きです!」
「だから近い近い近い……っ!」
両手を広げて飛びつこうとするアッシュを、ブランシュが片手で押し留める。紅茶がカップの中で波打つ。押し留めながらも、ブランシュの眼鏡の奥の瞳は笑っていた。
二階の窓から、マリエッタが覗いていた。
「やっぱり犬だわ、あれ」
隣のメイドが小さく頷いた。
「お嬢様。犬は犬でも、大変優秀な番犬かと存じます」
「……そうね。お姉様にはちょうどいいのかもしれないわ」
マリエッタはくすりと笑って、窓を閉めた。
〜〜〜
数ヶ月後。
ユーグ・ベルフォールの勇者称号は正式に剥奪された。
しかし、それは彼の終わりではなかった。ユーグはベルフォール侯爵家の名誉を自らの手で取り戻すため、辺境の魔物討伐に志願した。今度は誰の兵站支援もなく、偽りの強化魔法もなく、自分自身の剣と体一つで。
出立の朝、騎士団の門前に立つユーグの背中を、ギルバートが見ていた。
「……ノイマン副団長」
「何だ」
「僕は、取り戻せるだろうか」
「知らん。だが、実力で取り返す以外に道はないだろう」
ユーグは小さく笑った。それは傲慢さを削ぎ落とされた、初めて見る穏やかな笑みだった。
「ああ。そうだな」
馬に跨がり、ユーグは王都を発った。
一方、カルティエ伯爵邸の書庫には、新たな古代文献が山積みになっていた。王立魔法研究院から次々と運び込まれる資料に、ブランシュは至福の笑みを浮かべている。
「ブラン様! お茶の時間です!」
アッシュが書庫の扉を勢いよく開けた。トアッシュの上にはティーカップと、マリエッタが焼いたクッキーが載っている。
「あと五分……」
「駄目です! もう三十分前にも『あと五分』って言いました!」
「……あと三分」
「ブラン様!」
アッシュが眉を下げて訴える。耳がぺたんと倒れる。あの戦場で肉食獣のように立ちはだかった男と同一人物とは思えない姿だ。
ブランシュは羽根ペンを置き、眼鏡を外して目を擦った。
「……分かりました。行きましょう」
「やった!」
耳がぴん。尻尾がぶんぶん。
ブランシュは立ち上がり、アッシュが差し出す手を取って書庫を出た。
庭に出ると、春の陽光が暖かかった。テーブルにはアッシュが淹れた紅茶が湯気を立てている。向かいに座ったアッシュが、嬉しそうにブランシュを見つめている。
「ブラン様、今日のお茶は特別ブレンドです。この国の紅茶葉と異世界でも飲まれてたハーブを混ぜてみたんです」
「あら。研究熱心ね」
「ブラン様に美味しいって言ってもらいたくて!」
ブランシュは一口飲んで、小さく目を見開いた。
「……美味しい」
「本当ですか!?」
「ええ。とても」
アッシュの尻尾が史上最速で振られる。ブランシュは紅茶のカップを両手で包みながら、穏やかに笑った。
眼鏡の奥の薄紫の瞳は、三年前より少しだけ柔らかい。
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