第6話「呪いの噂と黒い影」
鈴蘭への嫌がらせは、日を追うごとに陰湿さを増していった。しかし、鈴蘭が何も訴え出ないことをいいことに、珠妃の行動はさらに大胆になっていく。
「ねえ、聞いた? あの鈴蘭という女官、呪いの術を使うそうよ」
「まあ、恐ろしい。だから、陛下はあの女に夢中なのね」
後宮に、そんな根も葉もない噂が流れ始めた。呪いの札を鈴蘭の部屋の前に置いていたのは、珠妃の手の者だった。自分で蒔いた種を、さも真実であるかのように吹聴して回っているのだ。
噂はあっという間に広まり、女官たちは鈴蘭を悪鬼か何かのように恐れ、避けるようになった。麒麟宮の中でも、鈴蘭は完全に孤立していた。
鈴蘭は、ただ黙々と自分の務めを果たした。噂を否定したところで、誰も信じてはくれないだろう。罪人の娘という出自が、噂に信憑性を持たせてしまっている。彼女にできることは、これまで以上に真摯に皇帝に仕え、いつかその信頼に応えることだけだった。
だが、珠妃はそんな鈴蘭の態度が、さらに気に食わなかった。何をされても動じない、その澄んだ瞳。まるで、自分たちのやっていることが、取るに足らないことだと言われているようで、屈辱を感じた。
(もっと、あいつが絶望するような、二度と立ち直れないような目に遭わせてやる……)
珠妃は、宰相である魏巌の屋敷を密かに訪れた。
魏巌は、珠妃の父親と古くからの盟友であり、彼女が後宮に入る際にも、その後ろ盾となった人物だ。穏やかな笑みを常に浮かべているが、その目の奥には、底知れぬ野心が渦巻いていることを、珠妃は知っていた。
「これはこれは、珠妃様。このような夜更けに、いかがなさいましたかな」
魏巌は、いつものように柔和な笑みで珠妃を迎えた。
「宰相様にお願いがあって参りました」
珠妃は、単刀直入に切り出した。
「陛下のお側におります、鈴蘭という女官を、どうにかしていただきたいのです」
珠妃から一連の事情を聞いても、魏巌の表情は変わらなかった。
「ほう、皇帝陛下が、毒見係上がりの小娘にご執心とは。それはまた、面白い話ですな」
「笑い事ではございません! あの女のせいで、わたくしへのご寵愛が……!」
「おやおや。しかし、妃殿下。嫉妬は身を滅ぼしますぞ」
魏巌の諭すような言葉に、珠妃はカッとなった。
「宰相様! わたくしを誰だとお思いです! あなたが、わたくしの父の力を借りて今の地位にあることをお忘れですか!」
その言葉を聞いた瞬間、魏巌の目から、すっと笑みが消えた。その代わりに現れたのは、凍るような冷たい光だった。珠妃は、思わず息をのむ。
「……失礼いたしました、珠妃様。少し、言葉が過ぎましたな」
魏巌は、再びいつもの笑顔に戻った。
「承知いたしました。その鈴蘭という女官、この魏巌が、よしなに計らいましょう。ですが、一つよろしいですかな」
「何でしょう」
「その女官の父親は、確か、薬師の白蓮とか言いましたな」
その名を聞いて、珠妃は訝しげに眉をひそめた。
「ええ、確か……。十年前に罪を犯して投獄されたとか。それが何か?」
「いや、何。ただの老婆心です」
魏巌は、意味ありげに微笑むだけだった。
「ご安心なさいませ。近いうちに、良い知らせをお届けできるでしょう」
珠妃が屋敷を去った後、魏巌は一人、暗い書斎で酒盃を傾けていた。
「白蓮の娘、か。因果なものよ」
彼は、誰に言うでもなくつぶやいた。
十年前に、宮中の貴重な薬を横流ししたとして白蓮を陥れたのは、何を隠そう、この魏巌だったのだ。当時、まだ一介の役人に過ぎなかった彼は、その薬を密かに売りさばいて得た金で有力貴族に取り入り、現在の地位への足がかりを掴んだ。白蓮は、魏巌の不正に気づいたため、邪魔になったのだ。
(あの男の娘が、皇帝の側に……。何か嗅ぎつけられる前に、消さねばなるまい)
魏巌の脳裏に、新たな、そしてより悪辣な計略が浮かび上がっていた。ただ宮中から追い出すだけでは生ぬるい。皇帝の信頼を逆手に取り、鈴蘭を国家反逆の罪人に仕立て上げ、父と同じ、あるいはそれ以上の絶望を味あわせてやる。
その数日後、後宮に激震が走った。
隣国との国境付近で、原因不明の奇病が流行しているという知らせが届いたのだ。高熱と発疹が出て、次々と民が倒れているという。宮中の侍医たちも、治療法が見つけられずにいた。
蒼焔は、連日、対応に追われていた。そんな彼の元に、宰相である魏巌が進み出た。
「陛下、この国難を救うため、一つ提案がございます。陛下のお側に仕える鈴蘭という女官、彼女の父は名うての薬師だったとか。彼女ならば、この奇病の薬を作れるやもしれませぬ」
その言葉に、居並ぶ重臣たちがざわめいた。一介の女官に、国の命運を託そうというのか。
しかし、蒼焔は、魏巌の顔をじっと見つめていた。その瞳には、深い猜疑の色が浮かんでいる。彼は、この老獪な宰相が、何の裏もなくこのような提案をするはずがないと知っていた。
これは、罠だ。鈴蘭を標的にした、巧妙に仕組まれた罠に違いない。
だが、蒼焔は静かに口を開いた。
「……よかろう。鈴蘭に、薬の調合を命じる」
その言葉に、最も驚いたのは、提案した魏巌自身だった。
彼は、蒼焔が反対するか、少なくとも躊躇することを見越していた。皇帝がためらえば、鈴蘭の能力を疑問視する声が上がり、彼女の立場を危うくできると考えていたのだ。
しかし、蒼焔はあっさりとそれを受け入れた。その真意が読めず、魏巌はわずかな不安を覚えた。
蒼焔には、蒼焔の考えがあった。
これは、鈴蘭の知識と能力を、後宮の全ての人間に認めさせる好機だと。そして、もしこれが魏巌の罠であるならば、その尻尾を掴む絶好の機会でもある。
彼は、鈴蘭を信じていた。あの小さな体の中に、どんな困難にも屈しない強い心と、豊かな知識が秘められていることを、誰よりも知っていたからだ。




