番外編「忠臣の目に映る光」
俺、衛兵隊長の浩然は、皇帝陛下がまだ皇太子でいらした頃から、その護衛を務めてきた。だから、誰よりも知っている。あの方の孤独の深さと、その心を覆う氷の厚さを。
先帝の崩御後、兄弟や有力貴族たちとの血で血を洗う後継者争いを勝ち抜くため、陛下は自らの感情を殺し、冷酷非情の仮面を被られた。誰も信じず、誰にも心を許さない。それが、あの玉座で生き抜くための、唯一の方法だったのだ。
そんな陛下が、変わられた。
きっかけは、一人の名もなき女官だった。毒見係の、鈴蘭。
初めて彼女の存在を意識したのは、あの毒殺未遂事件の時だ。居並ぶ高官や侍医たちが匙を投げた毒の謎を、あの小さな娘は、飾り葉の知識一つで、いとも容易く解き明かしてみせた。その聡明さには、正直、舌を巻いた。
陛下が彼女を側仕えにすると言った時、俺は少し心配した。罪人の娘という出自は、必ずや面倒の種になるだろうと。だが、陛下は聞く耳を持たなかった。あの時の陛下の目は、まるで面白い玩具を見つけた子供のようだった。
しかし、鈴蘭が側に仕えるようになってから、陛下は明らかに変わられた。万年床のようだった不眠が解消され、眉間に刻まれていた深いしわが薄くなった。そして何より、人を寄せ付けなかったあの雰囲気が、少しずつ和らいでいったのだ。彼女が淹れる薬草茶を飲むときの、あの穏やかな表情を、俺は初めて見た。
もちろん、それを快く思わない者もいた。珠妃様や、宰相の魏巌。奴らが、鈴蘭様に陰湿な嫌がらせを始めた時、俺はすぐに気づいていた。陛下にご報告すべきか迷ったが、陛下はすでにご存知だった。そして、こう言われたのだ。
「手を出すな。だが、決して目を離すな。あいつが本当に危険になった時、すぐに動けるようにしておけ」
あの時の陛下の声には、静かな怒りが満ちていた。陛下は、鈴蘭様を、ご自分の所有物のように、大切に思っておられたのだ。
奇病の騒ぎの時は、俺も肝を冷した。魏巌の罠だと分かっていながら、陛下はあえて鈴蘭様に全てを託された。もし、鈴蘭様が薬を作れなければ、どうなっていたことか。だが、彼女は、見事に期待に応えてみせた。それどころか、自らの命を懸けて薬の安全性を証明するという、常人では考えつかないような行動に出た。あの気概と覚悟には、男の俺でさえ頭が下がる思いだった。
そして、魏巌の処刑の日。あの宰相の最後の悪あがきは、見事という他なかった。民衆を扇動し、鈴蘭様を国賊に仕立て上げようとした。一瞬、俺も最悪の事態を覚悟した。だが、陛下は、微塵も動揺されなかった。鈴蘭様への信頼が、揺らぐことはなかった。
「彼女は、この世の誰よりも、朕の体を気遣い、その心を癒やしてくれた、唯一人の女だからだ」
広場に響き渡った、陛下のあの言葉。
俺は、陛下の護衛として、決して感情を表に出してはならない立場だ。だが、あの時ばかりは、涙がこみ上げてくるのを止められなかった。長年、孤独な戦いを続けてこられた陛下が、ようやく、心から信頼できる、魂の伴侶を見つけられたのだ。その喜びに、胸が熱くなった。
今、鈴蘭様は、皇后陛下となられた。国中の民から慕われ、その知識で国を豊かにされている。そして、皇帝陛下の隣には、いつも皇后様の優しい笑顔がある。あんなに幸せそうな陛下の顔を、俺は知らない。
時折、お二人が連れ立って庭園を散策されているのをお見かけする。そのお姿は、皇帝と皇后というより、どこにでもいる、仲睦まじい夫婦のようだ。
先日、陛下が俺に、ぽつりとおっしゃった。
「浩然。俺は、今まで、守るべきものはこの国そのものだと思っていた。だが、違ったようだ。俺が本当に守りたかったのは、この国で生きる一人の女の、あの笑顔だったのかもしれん」
そうおっしゃった陛下の横顔は、俺が知る中で、最も優しく、そして力強いものだった。
もう、陛下は孤独ではない。最強の護衛は、俺ではなく、皇后様だ。
俺の役目は、お二人が築かれる平和な国を、生涯をかけてお守りすること。
忠臣として、これに勝る喜びはない。




