第6章:これが僕の目的だ
それは、あまりにも激しく動き出した。
手足が不自然な方向に乱舞し、ありえない角度でねじれる。体のあちこちが膨らんでは沈み、まるで内側から何かが逃げ出そうとしているかのようだ。切り落とされたはずの頭部さえも、地面を叩くほど激しく震えている。
閃光とネルは、死んだと思っていたその死体に釘付けになり、呆然と立ち尽くしていた。死体は奇怪な痙攣を繰り返し、甲殻が骨を削るような、鋭く耳障りな音を立てている。
やがて、ゆっくりとその色が変わっていった。
腐敗が目に見える形になったかのように、黒い斑点が死体中に広がっていく。頭から、そして胴体から、何かが漏れ出し始めた。次の瞬間、肉を突き破り、無数の穴を開けてその物質が噴き出した。
間近で見て、ようやく正体が判明した。
小さく、黒く、病的な輝きを放つサソリだ。
数十、いや、数百もの不気味な黒サソリが死体から溢れ出す。サソリたちが逃げ出すにつれ、死体そのものが急速に崩れ、溶けていく。まるで最初から肉体など存在せず、そのサソリたちこそが形を作っていたかのように。
数秒後には、何も残らなかった。
ただ、どす黒い液体が地面を汚し、鼻を突く悪臭を放つ小さな池を作っているだけだ。
その時、動きがあった。
暗い液体の中から、細長く不自然な手が伸び、地面を掴んだ。もう一本、さらに一本。
そして、その悍ましい溜まりの中から、ゆっくりと頭がせり上がってきた。
その顔は呪われ、歪み、判別がつかないほどに狂っていた。四つの邪悪な眼が開き、冷徹で人間離れした光を宿してこちらを見据える。
「グルルル……ガハァ……」
怪物は喉を鳴らしながら、その全貌を現した。細長く、奇怪に枝分かれした複数の手足。病的にねじれた体躯の先には、猛毒の液体を滴らせるサソリの尾が、神経質に痙攣していた。
怪物はゆっくりと、二人の方へ視線を向けた。
【閃光】 「……なんや、あいつ!? あの男はどうなったんや!?」
目の前の歪な怪物以上に、閃光はさらに不穏なことに気づいた。
ネルが、反応していない。
彼は硬直したまま立ち尽くし、目は見開かれているが焦点が合っていない。その顔には恐怖が刻まれていたが、それはただの恐怖ではなかった。
【ネル】 「まさか……この術式……あいつの……」
声はかすかな囁きだった。震えているが、その表情にあるのはパニックよりも深い「認識」と「絶望的な確信」だった。
その言葉から、閃光には分かった。ネルを恐怖させている源は、目の前の怪物そのものではないのだと。
【閃光】 「ね、ネル! どうしたんや!? 聞こえてるか!? ネル!」
返答はない。ネルは自らに言い聞かせるように呟き続け、唇は意志に反して無理やり動かされているかのように震えている。
【ネル】 「なんで……あいつが……ここに……?」
激しく震える声が、冷静さを保とうと必死に抗う全身の震えと同期していた。
【閃光】 「ネル! 前や! 危ない!!!」
閃光は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。怪物が瞬時に跳躍し、猛毒を纏ったサソリの尾がネルを目掛けてしなった。
シュッ!
寸前のところで閃光の声がネルを現実に引き戻した。彼は横に飛び退き、つい先ほどまで立っていた地面を毒針が貫く。
【閃光】 「よかった……! ネル、しっかりしろ!」
ネルはまだ震えていたが、閃光の声が彼を繋ぎ止めた。胸のパニックがわずかに引き、代わりに決意が宿る。
(「クソ……この鎖さえなきゃ……」)
焦燥と苛立ちが閃光の思考を焼き焦がす。
怪物が再び襲いかかり、ネルに向かって突進する。間合いに踏み込んだ瞬間、その体がいきなり弾け、空中で小さな塊へと分裂した。
それぞれの破片が鋭い尾を持つ形へと変貌し、包囲するようにネルへと襲いかかる。
【閃光】 「気をつけろ!」
鋭い反射神経としなやかさで、ネルは身構え、群れの中に身を投じた。その手に紅いレニン(Renin)が渦巻き、鋭い爪が形作られる。
【ネル】 「二の爪:野良猫」
その動きは素早く、柔軟で、正確だった。腕を激しく振り抜き、四方八方の空気を切り裂く。
一見無秩序に見える動きだが、その一撃一撃は寸分違わず敵を捉え、到達する前に怪物の群れを切り刻んでいく。
細切れになった怪物の残骸が降り注ぐ中、彼は静かに着地した。
【閃光】 「ナイスや、ネル!」
声には明らかな安堵が混じっていた。
だが、まだ終わってはいなかった。
ネルは目を細め、周囲をゆっくりとスキャンする。感覚を研ぎ澄ませ、隠れている「何か」、自分たちを監視している「何か」を探る。
【ネル】 「……聞け、閃光。」
先ほどの恐怖は消え、表情には真剣さだけが残っていた。
「さっき俺が殺した男……あれはただの分身や。さっき聞こえた声の主が作った操り人形やな。」
【閃光】 「……変装か何かやったんか?」
【ネル】 「ああ。顔も声も、全部偽物や。」
「今、俺らが相手にしてるのは並の奴やない。……それとな、もう一つ……」
彼は言葉を切り、その次に出る言葉の重みが石のように突き刺さった。
「……俺じゃ、あいつには勝たれへん。」
閃光は、雷に打たれたような衝撃を受けた。ネルの声からこれほどの絶望を感じたのは、初めてだった。
「流石は俺の可愛いネルやな。」
再び声が響いた。だが今度は、背後からだ。
ネルは完全に凍りついた。目を見開き、金縛りにあったように動けない。
「その身のこなし、反射神経。レニンを爪に変えるほどの緻密なコントロール……。相変わらず、惚れ惚れするわ。」
背後の木から、ゆっくりと手が現れた。それは、優しく、しかし確実な精密さでネルの顎へと伸ばされる。
「自分ならやってくれると思てたで、ネル。」
ネルは一歩も動けず、完全に硬直していた。
「ネル……ええ名前付けてもろたなぁ!」
最大限の警戒を払いながら、ネルはゆっくりと首を回して背後を仰ぎ見た。
そこに立っていた男は、体格こそ先ほどと同じだったが、顔は全くの別人だった。あらゆるパーツから悪意が滴り落ち、その表情からは純粋で冷徹な邪悪さが放たれている。
半分閉じられた穏やかな眼差しの奥で、眼球は完全に黒く染まり、その闇の中でたった一つの黄金の瞳がギラリと輝いていた。
その顔を見た瞬間、ネルの瞳が激しく揺れた。ねじ曲がった記憶の断片が脳裏をよぎり、反射的な恐怖が引き金となる。彼は無意識に後方へ飛び退き、男との距離を取った。それは、体の防衛本能が引き起こした拒絶反応だった。
閃光は衝撃と困惑の中でそれを見ていた。これほどまでに怯えきった親友の姿は、見たことがない。
【閃光】 「お前、誰や!? 何者やねん!!」
ボロボロになった親友の姿を見て、閃光の声に怒りが宿る。
「さっきも言うた通り、俺はただの生物学者や……自分の所有物を取り戻しに来ただけのな。」
男は肩をすくめ、唇をからかうように歪ませた。
【閃光】 (「所有物? 何の話や……まさか、ネルのことか?」)
「……けど、連れて帰る前に……ちょっと遊んだろか?」
一瞬だった。何の前触れもなく、男は目にも止らぬ速さでネルへと肉薄した。
ドサッ!
強烈な拳がネルの腹部にめり込み、彼は膝から崩れ落ちた。
【ネル】 「ガハッ……!」
【閃光】 「ネル!」
「否定はせんで、俺の可愛いネル。自分には最高の価値がある。俺がここに来た、最初の理由やからな。」
ドゴッ!
蹴りがネルの顔面を捉え、地面を転がす。
【ネル】 「グアァッ!」
【閃光】 「やめろ!!」
叫び、魂の限りの力を込めて拘束を解こうとするが、無駄だった。
「……けどな、ついさっき見つけたんや。もう一人の……ガキ。自分以上に俺の興味を引く存在をな。」
男は閃光に向かって手を上げた。
「自分はもう、排除すべき邪魔な障害物でしかないんやわ。」
ネルは腹を押さえ、血を吐きながら立ち上がろうとする。攻撃の衝撃で全身が震えていた。
【閃光】 「ネル、逃げろ! 走れ!!」
ネルは構えを解かず、爪にレニンをチャージして攻撃に備える。
「友達の言うこと聞いといた方がええんちゃうか? ほんまに勝てると思てんのか?」
【ネル】 「……いや。勝たれへんのは分かってる。」
刹那、ネルが猛烈な速度で回転し、地面に向かって爪を突き立てた。濃密な土煙が舞い上がり、周囲の視界を完全に遮断する。
男の目が動き、彼を追おうとする。
「煙幕で逃げるつもりか?」
【閃光】 「ええぞ、ネル! その隙に——」
そう思った矢先、ネルは煙の中から真っ直ぐ閃光の方へと飛び出してきた。
【閃光】 「えっ!? な、何してんねん!」
驚きに目を見開くる。
ネルが爪を向けたのは、閃光を縛る鎖だった。彼は最初からこれを狙っていたのだ。一人で逃げることも、勝つこともできない。ならば二人を自由にすれば、どちらかが囮になってもう一人が逃げられる。
【ネル】 「鎖を壊したら、走れ!」
言葉を交わす暇もない、行動あるのみの指示。しかし、閃光の顔には躊躇の色が浮かぶ。
だが、反応するよりも早く……。
【閃光】 「後ろや!」
ベキッ!
凄まじい蹴りがネルの背中に叩き込まれ、無慈悲な力で地面に叩きつけられた。
【ネル】 「ギャアアッ!!!」
「おいおい、人のもんに勝手に触ったらあかんやろ?」
泥の中に半ば埋もれたネルの体は、意識を失いかけて激しく震えている。
「その小細工……俺の注意を逸らして、逃げると思わせたかったんやな。けど逃げても無駄や。自分、このガキを逃がしてどっちか一人だけでも生き残らせようとしたな?」
ネルは地面でもがき、動くこともままならない状態でありながら、残された全気力を振り絞って閃光の方へと這い寄る。
片手……もう片手……さらにもう片手……。
横に立つ圧倒的な脅威を無視して、ネルは前へ進む。その頭には、ただ一つのことしかなかった。
「……は?」
男の顔が不快感と苛立ちで歪む。
【閃光】 「……ネ、ネル? 何してんねん……」
押し殺した悲鳴のような声が漏れる。
「……まだこいつを助けるつもりか?」
男の目が細まり、容赦なくネルの腹を蹴り上げた。
「ほんまアホやな! 救いようのない、頑固なクソボケや。」
【ネル】 「ぐふっ……!」
ネルはうめき声を上げ、激痛に耐えながらも、閃光への前進を止めようとはしなかった。
痛みも、恐怖も、過去も無視して、たった一つの思いだけが彼を動かしていた。
【閃光】 「もうやめてくれ! なんで……なんでこんなことするんや!!」
つい感情が爆発し、閃光の目から涙が溢れ出した。声は震え、生々しい痛みと悔しさが言葉になる。
「無駄やって分かってるのに、なんでそんな意地張るんや!!」
男が眉をひそめる。
【ネル】 「……だって……こいつは……俺の……唯一の家族やから……」
血を吐き、顔は痣で腫れ上がり、声も震えていたが、その瞳だけは強く輝いていた。
閃光は衝撃に目を見開き、そしてゆっくりと視線を地面に落とした。胸が激しく上下し、涙が暗がりに光りながらこぼれ落ちる。世界が止まったかのような、重く、息苦しい沈黙が二人を包んだ。
「気が変わったわ。」
男の忍耐が切れた。彼はネルの首を掴み上げ、強引に宙へ吊り上げた。ネルの足が弱々しく宙を掻く。顔は青ざめ、唇は震え、瞳が泳ぐ。
「二人とも連れて帰るつもりやったけど……もうええわ。あのガキ一人でお釣りが来る。」
首を締め上げる力が強まり、残酷なまでに逃げ場を奪う。ネルは意識を保つのが精一杯だった。
「死ねや!」
ネルの視界に闇が迫る。体はもう限界だった。動きが鈍くなり、一呼吸ごとに生の光が薄れていく。
ゆっくりと、彼は目を閉じた。命の火が消えかけ、呼吸が浅くなる。
静寂が支配した。
その時、前触れもなく、暴力的な圧力が大気を叩き伏せた。空気が凝縮され、形を持った重みとなって男の集中力を切り裂く。周囲の温度が急激に下がった。
男の目が剥かれ、そこに映ったのは、周囲に放射される計り知れない、圧倒的なエネルギーだった。
鎖が、生きているかのように激しくのたうち、震え出した。
金属質の、緊急事態を告げるような音が響き渡り、空間を警鐘のように満たしていく。地面がわずかに揺れ、逃げ場のないレニンの奔流があらゆる隙間を埋め尽くした。
ガシャン……ガシャガシャッ……!
「な、なんや……!?」
[つづく]




