第4章:凶悪な、スタイリッシュな科学者
「喉乾いた……。喉乾きすぎて死ぬ。お菓子食べすぎたのに、水飲むん忘れとった……」
頭が重く、思考が鈍い。半分夢の中にいるような感覚で、祭りの記憶がゆっくりと蘇る。
そう、祭りの菓子だ。大量に食べたのに、その後は水一滴すら飲んでいなかった。
今はただ、水のことしか考えられない。起き上がって飲みに行きたい、それだけなのに……。
「起きんのしんどいし……でも喉乾いて寝られへん。ほんまこれ嫌やわ」
意識が朦朧とする中、弱々しく独り言が漏れる。ゆっくりと目を開けると——。
「自分、いっつもそんな風に独り言言うてんのか?」
近くから声がした。
20代後半くらいの男の声。苛立ちと退屈が混じったような、すっかり忍耐を使い果たしたような響きだ。
センコはその声を無視した。というか、聞こえていないかのように反応しなかった。
「……あかん、諦めた。もう一回寝て、なんとか忘れよう……」
男が苛立ちを込めて呟く。完全にスルーされたことに腹を立てているようだ。
「……いや、待て。やっぱりあかん。トイレ行きたなってきた。この感覚は無視できへん」
センコはため息をつきながら、再び顔を上げた。
「しゃあない……とりあえず起きるか——」
その言葉を言い切る前に、眩暈と霞の向こう側で、何かが「カチリ」と噛み合った。
動けない。
センコ: 「え……? 俺……動かれへん。」
その衝撃で、一気に目が覚めた。霧が晴れるように意識が鮮明になり、周囲を必死に見渡す。
「……! ここ、どこや!?」
そこは森の中だった。街からそれほど遠くはないが、決して安全とは言えない場所。
背後には巨大な岩がそびえ立ち、そこに——彼は。
両手両足が宙に浮いた状態で、鎖のような呪術の術式に拘束されている。鎖は手首と足首から伸び、岩のあちこちに固定されていた。
その鎖の端には、どす黒い物質で彫られた不気味な悪魔の頭が付いており、大きく開かれた口から鎖が吐き出されている。
それぞれの頭の額には、文字が刻まれていた。
『汚濁』
『断罪』
『刑罰』
『呪詛』
手首と足首からは、封印のような紋様が皮膚を這い、腕、脚、胴体、そして顔にまで侵食している。
センコ: 「なんやこれ……!? 動けへん……!」
ありったけの力を込めて抗うが、全くの無駄だった。
「無駄な力使いなや。これは**『四罪人の鎖』**いう術や。」
男の声は冷静で、どこか退屈そうだった。
「それに繋がれとるうちは、レニン(Renin)は一切練れへんし、使われへん。つまり、自分は今ヘロヘロの状態や。あがいても無駄やで。」
センコの表情が強張る。
目の前の男が誰なのか、目的は何なのか。そして最悪なことに、自分は完全に無力な状態だ。
「落ち着き。別に今すぐ殺したりせえへんから。」男は事もなげに付け加えた。「今は、な。」
センコ: 「その声……」
聞き覚えがあった。
1時間ほど前、意識を失う直前に聞いた、最後の声だ。
拘束に耐えながら焦点を合わせると、男の姿が見えた。
背が高く、細身だがどこか芯の強さを感じさせる体格。短く淡い黄色の髪を後ろで一つに結び、その毛先は黒く染まっている。
何より不気味なのは、その顔だった。
丸眼鏡の奥にある目は半分閉じられ、傲慢で自信に満ちた笑みを浮かべている。だが——何かが「正しくない」感覚がした。
センコ: 「……誰や、お前。」
センコは低い声で問いかけた。冷静さを保ちつつ、眉間に皺を寄せる。
「綺麗やろ?」
彼は空を仰いだ。
「あの青い月……静かな森に透き通るような青い光が差し込んで。穏やかやけど、どっか悲しい感じがするやろ。」
彼はまるでその光景を抱きしめるかのように、軽く腕を広げた。
「仰々しい言葉並べても、科学はこの珍しい現象を説明できへん。なんであんな青いんか、未だに分かっとらんのや。」
「伝説やら神話やらで適当な理由つけてる連中もおるけどな。」
センコは沈黙して聞いていたが、男の言葉が続くたびに困惑が深まっていく。
センコ: 「はぁ……?」
「喋りすぎたな、堪忍。」男は腕を組んで言った。「一応科学者やってると、世界の謎やら事実やらには黙っとれんのよ。」
「ま、『科学者』言うても広すぎるな。正確には生物学者に近いわ。」
彼は間を置いた。
「……まあ、そういうこっちゃ。分かったか?」
センコ: 「……へぇ。ずいぶん短くて、目的がはっきりした、役に立つ答えやな。」
センコは半目で、冷めた表情で毒づいた。心の中では(こいつ、何をごちゃごちゃ言うてんねん……)という思いが渦巻いている。
正体を聞き出すのは無駄だと悟り、センコは別の問いを投げかけた。
センコ: 「……で、目的は何や? なんで俺がこんな目に遭わなあかんねん!」
センコの表情に険しさが戻る。
「何そんな急いでんねん。すぐ分かることや。」
男は即座に答えた。不透明な瞳の奥に、微かな傲慢さを滲ませて。
センコ: 「……俺自身には、あんまり用はないんやろ?」
「……なんでそう思うん?」
センコ: 「見え見えや。俺が生きてるってことは、何か別の理由があるはずや。尋問か、人質か、何かの取引材料か。でも、それもちょっと違うな。」
男は興味深そうに首を傾ける。
「それにこれや。」センコは続けた。「こんなデカい岩に俺を括り付けて、丸見えの状態。数百メートル先からでも気づかれるわ。おまけに街からそんなに離れてへん。」
「もし俺自身が目的やったら、とっくに何百キロも先に連れて行ってるはずや。でもお前はここで待ってる。……つまり、俺はただの『餌』や。」
センコの目が鋭くなる。
「俺がいなくなったことに気づいて、助けに来るたった一人の人間を引きずり出すための……。……ネル。狙いは、ネルやな。」
男の目が見開かれ、やがてその唇が心底感心したような笑みに歪んだ。彼は足元の地面を鳴らしながら、ゆっくりと歩み寄る。
「凄いやん。」
彼は言った。
「その年でそこまで見抜くんか。頭ええなあ! ほんま感心するわ。」
彼は静かに笑った。
「……ちょっと好きになりそうやわ。」
センコの表情は変わらないが、確信が強まるにつれて内側の怒りが増していく。友人が狙われている。理由はまだ分からないが。
センコ: 「ネルに何の用やねん!」
言い終わる前に、強烈な平手打ちがセンコの顔を襲った。
一瞬、視界が白黒に激しく明滅する。衝撃で首が右に弾かれ、耳の奥でキーンという音が鳴り響いた。左頬が熱を持ち、口の中に血が溜まって端から溢れ出す。
あまりにも突然の衝撃に、センコは顔を向けたまま数秒間、呆然とした。
「調子乗んなや、クソガキ。」
男は平然とした声で言い放った。傲慢で、落ち着いていて、薄気味悪いほど余裕がある。
センコはゆっくりと顔を正面に戻した。
その表情には真剣さが戻り、視線は地面に落されている。それは屈服ではなく、静かな、底知れぬ怒りだった。
「たとえ魂胆が分かったところで、自分には何もできへんのや。」
彼はセンコの顎を掴み上げた。
「ほな、失礼するわ。俺はまだやることがあんねん。」
彼は立ち去ろうと背を向けた。
「おい、待て……」
センコの低い声が響く。
「?」
男は鬱陶しそうに振り返った。
センコがゆっくりと頭を上げる。
「もし、ネルに指一本でも触れてみろ……あいつを傷つけようなんて少しでも考えたら……」
顔を上げたセンコの瞳には、純粋な、煮えたぎるような殺意が宿っていた。
「……殺すぞ、お前!」
叫んではいない。震えてもいない。ただ剥き出しの敵意がそこにあった。
「自分、分かっとらんみたいやな、今の状況がどな——」
男が苛立ちとともにセンコを黙らせようとした、その瞬間。
空気が変わった。封印されたはずの少年から、プレッシャーが溢れ出す。最初は微かだったが、それは異常な速度で膨れ上がり、周囲の空間を歪ませた。センコの周りに、不気味な紫色のオーラが、亡霊の炎のように揺らめき始める。
「なんやこれ……!?」
チャリン……チャリン……
手首と足首を縛る、レニン封じの鎖が激しく震え出した。
男の目が見開かれる。
「なんやこれ!? 核心は封印しとるはずや! レニンなんか出せるわけないのに……なんやこのエネルギーは!?」
男は警戒しながらも、湧き上がる好奇心に突き動かされてセンコに詰め寄った。その喉元を掴み、溢れ出すエネルギーを強引に抑え込みながら、少年の首筋を凝視する。
そこで彼が目にしたものは、信じがたい光景だった。
「これ……嘘やろ……。」
言葉が震える。男の瞳が小刻みに揺れ、額に汗が滲む。
「……自分、一体何者や?」
男の声からは、さっきまでの余裕が消え失せていた。センコは困惑しながら見返す。傲慢な笑みは消え、代わりに強烈な衝撃が男の顔を支配していた。
彼の目は、センコの首筋にある紋章に釘付けになっていた。襟元からわずかに見えるその黒い紋章は、鋭い線を持ち、微かに紫色の光を放っている。
「この紋章……まだ生きとったんか!? 何年も経つのに……ありえへん。幻覚か?」
その時、男の脳内で何かが繋がった。
「……いや、待てよ! そういうことか。あの野郎、俺にこれを見つけさせたかったんか!?」
彼は、あの謎の人物との会話を思い出した。
「お前さんが気に入りそうなもんが、きっと見つかるはずやで。」
「ほんま食えん蛇やな……言う通りやったわ。」
男は、この世のものとは思えないほど邪悪で、歪んだ笑みを浮かべた
。
「最高に気分ええで、今!」
一分前まで、センコは単なる「餌」だった。だが今は違う。彼は「世紀の発見」なのだ。
「なぁ自分、特別やで。唯一無二や。」
センコ: 「……何の話やねん!」
「まあ焦りな。けど、大事な『逸品』が暴れたら困るやろ?」
男の袖から、細身の湾曲した短剣が現れた。
センコの息が止まる。
「待て——何する気や!?」
「俺、念には念を入れるタイプやねん。」男は世間話でもするかのような口調で言った。「元気な手足は扱いづらいからな、ちょっと『処理』させてもらうで。安心し、殺しはせえへん。自分は死なすには惜しすぎる価値があるからな。」
彼は短剣を高く振り上げた。磨き上げられた刃に、センコの驚愕した顔が映る。
彼がその刃を振り下ろした、その刹那——
視界が回転した。
景色が激しく、速く、暴力的にねじれ、圧倒的な眩暈が男を襲う。
次に彼が見たのは、夜空だった。
月。
さっきまでセンコを見ていたはずなのに。なぜ自分は空を見上げているのか。
首も、体も、動かすことができない。
そして気づいた。
視界の下の方に、自分の体が立ち尽くしている。そしてその傍らには、着地する直前の、誰かの姿があった。
しかし、その自分の体には——「頭」がなかった。
衝撃を処理する間もなく、男の意識は闇に飲み込まれた。自分が斬首されたという事実に気づく暇さえ、彼には与えられなかった。
「……ネル!」
驚きと安堵が混じった声で、センコが叫ぶ。目の前には、軽やかに着地したネルの姿があった。
ネルの表情は氷のように冷たい。その爪は剃刀のように長く伸び、紅いレニンを纏って輝いている。静かだが、危険なまでの集中力が漂っていた。
ゆっくりと立ち上がるネルの瞳は人間のものではなく、殺意に満ちた獣のそれだった。
親友であるセンコでさえ、その視線と合った瞬間に戦慄を覚えるほどに。
ネルがゆっくりと息を吐くと、口から白い蒸気が漏れた。
紅い光が消え、獣の爪が消えていく。瞳もいつもの冷ややかな色へと戻り、極限の集中状態が解かれた。
センコ: 「……よお。」
二人は無言で、死んだような表情で見つめ合った。
岩に磔にされたセンコと、その前に立つネル。
丸一分ほどの沈黙。
ネル: 「……めんどくさ。」
ネルは苛立ちとともに顔に手を当てた。
「お前、なんでいつもこういう状況になるん。ほんま呆れるわ。」
センコ: 「俺のせいやないって。あいつ、全然知らん奴やし。ただの誘拐や。」
ネル: 「……誰やってん、あいつ。」
ネルは地面に転がる死体に視線をやった。
センコ: 「知らん。でも、狙いはお前やったみたいや。」
センコは軽くため息をついた。
「何が目的やったんか聞きたかったけど……死んでもうたんじゃしゃあないな。」
センコは死体を少し不安げに見つめた。何かが、決定的に「正しくない」予感がしたからだ。
「それより——」
センコの表情が突然変わった。
「この鎖なんとかして。はよ!」
顔が苦悶に歪み、全身から汗が噴き出す。
「……マジで、トイレ行きたいねん。限界や。このままやと、ここで漏らす。お願いや、ネル……!」
ネル: 「うわ、やめろ。近寄んな。今壊したるから待て。」
ネルが鎖に手を伸ばそうとした、その時——。
聞こえた。
音ではない、声だ。
二人の心臓が凍りつき、目が見開かれる。周囲の空気が一気に重く、冷たく、息苦しいものへと変わった。
その声は冷静で、紛れもなく邪悪で——そして、恐ろしいほどに聞き覚えがあった。
「ネル……可愛らしい名前やなぁ……」
どこからともなく、同時に響いた声。消えたはずの、あの男の声。その瞬間、辺りは氷のような沈黙に包まれ、背筋を凍らせるような重圧が二人を押し潰そうとしていた。
[つづく]




