3 図書館の再開と約束のアイス
3 図書館での再会と約束のアイス
玄関を開けた瞬間、夏独特の熱気が肌を撫でる。
2025年の、命の危険すら感じる呪わしい酷暑に比べれば、この2000年の夏はまだ「季節」としての体裁を保っている。それでも、ジリジリと肌を炙る太陽は容赦がない。
俺は玄関先に置いてある相棒の青いマウンテンバイクに跨った。
「行ってきます」
玄関の向こうへ声をかけ、俺はペダルを強く踏み込んだ。
視界が動き出す。アスファルトの路面からは逃げ水が立ち上り、遠くの景色をゆらゆらと歪めている。セミたちの鳴き声が、まるで空間全体を震わせるノイズのように降り注いでいた。
住宅街を抜ける道すがら、俺はあえてゆっくりと景色を眺めた。
2025年では見なくなったコンビニの看板、まだ趣のある店構えの写真店、空き地に生い茂る夏草。すべてが、かつての未来では失われたか、あるいは姿を変えてしまった風景だ。
俺の脚力はまだ子供のそれだが、心臓に送り込まれる血液の熱さは、単なる運動によるものだけではない。
「ここから未来を変えるんだ」
自転車を漕いで15分。
坂道を下りきった先に、何度も通い詰めた市立図書館が見えてきた。
鉄筋コンクリート造りの建物にレンガ風のタイルを全面に張り付けた重厚な建物は、今も未来も静かにたたずんでいる。
俺は駐輪場に自転車を止め、汗を拭いながら、重い自動ドアの前に立った。
自動ドアが開いた瞬間、別世界が広がった。
古びた紙の匂い、糊の香り、そして清浄な冷気の膜。外の狂騒的なセミの鳴き声が遮断され、耳の奥に残響だけが残る。
俺は火照った身体を落ち着かせるように、ゆっくりと館内へと歩を進めた。
まずは目的の場所、館内の隅にある情報検索コーナーへ向かう。
そこに鎮座しているのは、俺にとっては懐かしい厚みを持ったブラウン管モニターの検索用パソコンだ。
こいつは館内の書籍検索だけではなく通常のウェブブラウザを開くこともできるので、様々な情報を調べることができる。
カチカチと大きな音を立てるキーボードを叩き、俺はインターネットという大海へ漕ぎ出した。
この時代のネットはまだ細く、頼りない。それでも、必要な情報はそこにある。
証券会社のランキング、売買手数料の比較、そして上場企業のリスト。
俺の脳内にある「未来の記憶」を、一つひとつ現実に繋ぎ止めていく作業。
すでに巨大グループとなっている企業やまさにこの時点から注目され始める企業、そしてこれから日本を席巻するITベンチャーの数々。
今はまだ、誰も気づいていない企業の情報もノートに書き留める。
25年後の世界を知る俺にとって、これは投資ではなく、確定した未来の回収作業に近い。だが、その資金をどう作り、どう運用するか。緻密な戦略が必要だ。
ひとしきりノートを埋め終えた頃、指先には独特の疲労感が残っていた。
ここからさらなる情報の整理が必要だが、俺は本来の「10歳の義務」を果たすべく、読書感想文用の特設コーナーへと足を向けた。
窓から差し込む陽光が、書架に並ぶ背表紙を明るく照らしている。
棚の前でしばし黙考し、俺は一冊の文庫本を手に取る。
宮沢賢治、『銀河鉄道の夜』だ。
孤独と自己犠牲、そして「本当の幸い」を問う物語。今の自分にこれほど相応しい本はないと思った。
その時だった。
「――ダイちゃん?」
背後から、澄んだ鈴の音を転がしたような声が響いた。
心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
記憶の底にある声よりも少しだけ高くて、けれど凛とした響き。
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
ツインテールに結った艶やかな黒髪が、逆光を浴びて透き通っている。
少し勝気そうな唇と、すべてを射抜くような大きな瞳。
白木楓。向かいの家に住む、一つ年上の幼馴染。
そして、かつての人生で、俺が伝えるべき言葉を伝えないまま遠く離れた存在となってしまった初恋の人だ。
「楓……姉ちゃん」
「あ、やっぱり! 図書館でダイちゃんに会うなんて珍しいね。いつもは外で走り回ってるのに」
彼女はクスクスと笑いながら歩み寄ってきた。
未来の彼女は、その美貌ゆえに芸能界へと引きずり込まれ、やがて荒波に摩耗し、30歳を過ぎる頃には生気を失った抜け殻のようになっていた。
だが、目の前の彼女は、夏の光をそのまま反射したような眩い輝きを放っている。
「何、その本。『銀河鉄道の夜』? ダイちゃんにはちょっと難しくない?」
「……そんなことないよ。名作だし、読んでおこうと思って」
「へぇー、感心感心。あ、そうだ。いいこと思いついた」
彼女は俺の顔をじっと覗き込んできた。
その距離があまりに近くて、中身が35歳の俺の理性が揺らぐ。
「ダイちゃん、なんか今日、雰囲気違うね。背が伸びた? それとも、顔が大人っぽくなったのかな」
「そうかな……。楓姉ちゃんこそ、その本。感想文、まだ終わってないの?」
彼女が手に持っていたのは、いかにも「書きやすそう」な明るい表紙の児童書だった。
「うっ。……そうなの。私、感想文って苦手で。ダイちゃん、コツとかわかるなら教えてくれる? 帰りにアイス奢ってあげる! ね、いいでしょ?」
いたずらっぽく笑う彼女。
かつての俺なら、照れて逃げ出していただろうが、今の俺は違う。
「うん。いいよ」
「えっ」
そうして彼女の手を取り、歩き始めた。
俺たちは閲覧室の奥、二人掛けの木の机に座った。
俺はノートを開き、彼女に「構成」という概念を教え始めた。
「まず、結論を先に決めるんだ。自分が一番感動したシーンを一つ。そこから逆算して、自分の経験を肉付けしていく……」
「へぇ、ダイちゃん、先生みたい。テレビでやってたの?」
「……まあね」
それから数十分。
俺は一気に自分の原稿用紙を埋めた。35歳の思考が、子供の筆記用具を通して紙に叩きつけられる。
書き終えて一息ついていると、隣で固まっている楓の視線に気づいた。
「……ねえ、ダイちゃん。本当にこれ、ダイちゃんが書いたの?」
「うん。言った通りに書けば簡単だよ」
「簡単って……。『ジョバンニの孤独は、現代社会における個の疎外感を先取りしており、カムパネルラの献身は……』。これ、本当に4年生が書く文章?」
しまった。
つい、大人の語彙力で「分析」してしまった。10歳の少年が「疎外感」などという言葉を使うはずがない。
「あ、いや。これもテレビで言ってたんだ。カッコいいなと思ってメモしてたんだよ」
「ふーん……。まあ、ダイちゃんが物知りなのは知ってるけど。でも、なんだか今日はずっと、年上の人と喋ってるみダイ」
楓は頬杖をつきながら、じっと俺の横顔を見つめた。
その眼差しはどこか鋭く、それでいて慈しむような暖かさを含んでいる。俺は照れ隠しに、彼女の原稿用紙を覗き始めた。
「楓姉ちゃんのも、あともう少しで終わりそうだね。終わったら、約束のアイスね?」
「あ、そうだった! 待ってて、すぐ終わらせるから!」
彼女は慌ててペンを走らせた。
その横顔を、西日がオレンジ色に染め上げていく。
この瞬間が、永遠に続けばいい。
いや、永遠に続くように、俺が未来を作り変えるんだ。
きっと俺の幸いは彼女なのだから。
感想文を書き終えた俺と楓は、図書館を出る。
熱気を含んだ風が再び俺たちを包み込むが、行きに感じた絶望的な暑さとは違い、どこか心地よい。
空は淡い群青色から、地平線に近いほど濃い橙色へとグラデーションを描いている。
「約束のアイス! 帰り道にあるコンビニで買おうね」
楓が軽やかな足取りで先を歩く。俺は自転車を押しながら、彼女の隣に並んだ。
しばらく歩き、未来では閉店していたコンビニに入る。
楓が選んだのは、ソーダ味の青いアイスバー。俺には、バニラのソフトクリームを選んでくれた。
「ほら、ダイちゃん。はい」
「ありがとう」
店外の駐車場の日陰に入り、二人でアイスを食べる。
冷たい感触が喉を通り、火照った身体に染み渡る。
「ねえ、ダイちゃん。中学に入ったらさ、こんなふうにダイちゃんとアイス食べることもできなくなるのかな……」
ふとした拍子に、楓がポツリと漏らした。
彼女の家は、この時期から少しずつ家庭環境が荒れ始めていたはずだ。そして、類まれな美貌を見初められ、モデル事務所への所属を勧められるのも、もうすぐだ。
「……楓姉ちゃんは、どうしたいの?」
「私? 私は……ずっとこうして、ダイちゃんと一緒に痛いかな。なんてね!」
彼女は明るく笑って誤魔化したが、その瞳の奥には、わずかな不安が揺れていた。
孤独と不安がそう言わせていることはわかっている。
だからこそ、彼女を俺の幸いと決めて守りたい。
かつての歴史では、彼女はこの不安を誰にも言えず、期待に応えるために自分を削り、最後には疲れ果ててしまった。
「大丈夫だよ」
俺は真っ直ぐに彼女を見つめて言った。
子供の、けれど35年の重みを持った声で。
「何があっても、俺が何とかする。楓姉ちゃんが笑っていられるように、俺が守り続けるから」
楓は一瞬、きょとんとした顔をして俺を見た。
それから、顔を真っ赤にして「な、何言ってんのよ。年下のくせに!」と、俺の肩を軽く叩いた。
けれど、その手は微かに震えていて、最後にはそっと俺の袖を掴んだ。
アイスを食べ終えた俺たちは、再び自宅へと向かって歩き出した。
二人の影が、アスファルトの上に長く、長く伸びている。
かつての人生では、この影はバラバラの方向へ伸びて、二度と重なることはなかった。
「ダイちゃん、感想文は書き終えちゃったけど明日も図書館行く?」
「ああ。行くよ」
「じゃあ、明日も一緒にいよ。あ、明日は帰りにかき氷が食べたいかな」
彼女の無邪気な声が、夏の夕暮れに溶けていく。
我が家にもネット回線は通っているが、図書館程自由に使えるわけではないので、株式投資のことを調べるには丁度良い。
夕闇が迫る住宅街。
向かい合う二つの家の門が見えてきた。
「じゃあね、ダイちゃん。また明日!」
「ああ。おやすみ、楓姉ちゃん」
彼女の背中を見送りながら、俺は深く息を吸い込んだ。
衛ものがあれば、やり切る力になる。きっとそう言うことなのだ。
夜の気配を含んだ風は、どこまでも澄んでいて、未来はまだ、真っ白な原稿用紙のように俺の前に広がっていた。




