第72話
帝都の夜は、思ったよりも穏やかだった。
通りには魔導灯が灯り、
昼間の喧騒が嘘のように、人々はゆったりと歩いている。
露店からは甘い焼き菓子の香りが漂い、
どこかで誰かが笑っている声も聞こえた。
「……平和ね」
セレナが、通りを見渡しながら言った。
「迷宮で世界と喧嘩してきた直後だと、
逆に違和感あるくらい」
「この“普通”を守るために、
裏では色々動いているのよ」
エリシアはフードを目深に被り、
人の流れを観察している。
「情報屋、貴族の従者、教会関係者……
もう、私たちの帰還を嗅ぎつけ始めてる」
「早いな」
僕は小さく息を吐いた。
「世界に見失われた代償、
ってやつか」
マリーヌは少し緊張した様子で、
僕の半歩後ろを歩いている。
「で、でも……
こうして街を歩くの、
ちょっと……楽しいです……」
「それは良かった」
そう言うと、
彼女は少し照れたように耳を伏せた。
◆◆◆
しばらく歩いたところで、
ルクレツィアが足を止めた。
「……来るわ」
全員が、自然と気配を殺す。
通りの角。
影の中から、
一人の男が姿を現した。
年の頃は三十前後。
整った服装だが、
どこか“借り物”のような違和感がある。
「失礼」
男は、穏やかな笑みを浮かべて頭を下げた。
「アルス・アドマイヤ様……で、よろしいですね」
セレナが一歩前に出る。
「いきなり名前呼び?
ずいぶん馴れ馴れしいじゃない」
「失礼しました」
男は視線を逸らさず、
しかし敵意も見せない。
「私は帝国宰相府の使い――
いえ、“個人的な伝言役”です」
(来たか)
予想より、ずっと早い。
「宰相からの伝言?」
僕は静かに聞いた。
「はい。
“敵としてではなく、
対話の相手として迎えたい”と」
エリシアが小声で言う。
「綺麗な言葉ね。
要するに、
様子見しつつ囲い込みたい」
男は、それを否定もしなかった。
「否定はしません。
ですが……
今すぐ拘束する気はありません」
「信用できる?」
セレナが、わざとらしく首を傾げる。
「信用しなくて構いません」
即答だった。
「ただ、
“話す機会”を拒むかどうかは、
アルス様次第です」
通りの人々は、
僕たちに気づいていない。
夜の雑音が、
この場を包んでいる。
(……選択の一つ目、か)
「返事は、今じゃなくていい」
僕は言った。
「場所と時間を指定してくれ。
その上で、
俺たちが行くかどうかを決める」
男は、少しだけ目を細めた。
「承知しました。
では、三日後の夜。
中心塔近くの“白鴉亭”で」
「伝言はそれだけ?」
「もう一つ」
男は、ほんの一瞬だけ声を落とした。
「――教会も、
動き始めています」
それだけ言うと、
男は人混みに紛れて消えた。
◆◆◆
しばらく、誰も口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのは、
セレナだった。
「……はいはい、来ましたよ。
“話し合いという名の地雷原”」
「想定内ね」
エリシアが頷く。
「帝国が先に来たということは、
教会も、
魔導国家も、
ほぼ同時期に動く」
「板挟み、か」
ルクレツィアが苦笑する。
「昔から得意じゃないのよね、そういうの」
マリーヌが、恐る恐る聞いた。
「あの……
行くんですか……?」
全員の視線が、
僕に集まる。
少し、息を吸ってから答えた。
「行く」
即答だった。
「でも、
向こうの思惑通りにはならない」
リズが、柔らかく微笑む。
「ええ。
“七人で行く”なら、
それだけで計算外になるわ」
「念のため、
裏口と逃走経路も調べておくわね」
エリシアが言う。
「戦闘になったら、
周囲ごと吹き飛ばす準備は万全にするわ」
セレナが拳を鳴らす。
「……ほどほどにね」
僕は苦笑した。
◆◆◆
その夜、宿に戻ってから。
皆がそれぞれの部屋に戻ったあと、
僕は一人、窓辺に立っていた。
帝都の夜景が、
静かに広がっている。
(世界の外側から、
世界の中心へ、戻ってきた)
そんな感覚。
ふと、
背後に気配を感じた。
「……眠れない?」
振り返ると、
リズが立っていた。
「少しね」
彼女は窓の外を見て、
静かに言った。
「宰相、教会、魔導国家……
彼らはきっと、
あなたを“英雄”にも
“災厄”にもしたがる」
「どっちにも、なりたくないな」
「でしょうね」
リズは、
ほんの少しだけ距離を詰めた。
「でも……
あなたが選んだ未来は、
どちらにも当てはまらない」
「七人で生きる未来?」
「ええ」
彼女は、僕を見上げる。
「それはね、アルス。
世界にとって、
一番扱いづらい形よ」
少しだけ、笑った。
「でも……
私は、その未来が好き」
胸の奥が、
静かに温かくなる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
短い沈黙。
やがて、
リズはドアへ向かいながら言った。
「三日後。
何が起きても、
あなたは一人じゃない」
ドアが閉まる。
再び、一人。
帝都の灯りを見つめながら、
僕は思う。
(これが、
青年期の最初の“波”)
小さく見えて、
確実に世界を動かす波紋。
それが、
今、広がり始めていた。




